葭の塾

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えにしの章の壱

 IF……天才たちの出会い

 「もしクレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろう」というのは、パスカルの『パンセ』にある有名な言葉です。もっとも正しくは、「世界の歴史」ではなくて「大地の全表面」と、パスカルは独特な比喩を用いています。「表面」faceは「顔」の意味でも用いられる語ですから、「地球全体の顔」という訳し方もされます。

 「歴史にIFは禁物」というけれど、パスカルに倣って、私はIFを楽しんでいます。
 我孫子の文化発祥のキーマンは柳宗悦です。柳が志賀直哉を誘い、志賀が武者小路実篤を誘って、白樺派のコロニーができた。柳は一方ではバーナード・リーチを誘い、リーチの友人の富本憲吉、浜田庄司らが集い来て、のちの民芸運動が生れた。もし、柳が我孫子に住まなかったら、白樺派も民芸運動も、どこかよその地で花開いたことでしょう。

 その柳が我孫子に住むことになったのは、嘉納治五郎との縁(えにし)によるものでした。ご承知のように、嘉納は柳の母勝子の弟で、柳の叔父に当ります。嘉納は明治末年に我孫子に別荘を求め、向かいの地に寡婦(やもめ)の勝子と、同じく夫に死別した柳の長姉直枝子(すえこ)を呼び寄せます。直枝子が谷口尚真(軍令部長)と再婚するため母勝子と家を出たあとに、新婚の柳夫妻が転居してきます。そうなると、もし、嘉納が我孫子に住まなかったら柳も我孫子に来なかった、といえるかもしれない……とかくこの世は、男女の仲ばかりでなく、前世から赤い糸で結ばれていたとしか思えないような不思議な偶然に満ちています。

 思えば、当地ゆかりの文人陶工たちの出会いもまた、偶然が集積しています。
 志賀は落第したおかげで、武者小路実篤や木下利玄、正親町公和と同年生になりました。
この四人が、のちに柳や里見を引き込んで『白樺』を創刊します。志賀、武者、柳の三人は我孫子に住んで、毎日のように行き来する仲になります。

 リーチが日本に来たのは、ロンドンの美術学校で留学中の高村光太郎に逢ったことが大きな引鉄(トリガー)になりました。来日して銅版画教授の広告を出したリーチを訪ねた志賀、里見、柳たちとの交流が始まり、やがてリーチは彼らに招かれた茶会の即興で楽焼に目覚めて陶芸の道に入ります。リーチが六代尾形乾山に弟子入りしたとき通訳をつとめたのが茶会に同行した富本憲吉で、富本は英国留学から帰国の船中でリーチの友人タービーと知り合い、その縁(えにし)でリーチの親友になったという偶然が重なります。

 そのリーチの処女作を買ったのが河井寛次郎です。河井は蔵前の高等工業で二学年下の浜田庄司と識り合い、卒業後に勤めた京都市立の陶磁器試験場を訪ねてきた浜田を誘って職をともにします。浜田は柳邸の庭に窯を築いたリーチを訪ねてきて意気投合し、のちにセントアイヴズで二人で作陶を始めるほどの仲になります。浜田は帰国後、互いに誤解のあった柳と河井を引き合わせ、ここから三人トリオの民芸運動が加速して行くのです。そも柳が民芸に目覚めたのは、淺川伯教に朝鮮白磁の壷を見せられたからでした。

 もし志賀が落第しなかったら、
 もしリーチが高村光太郎に逢わなかったら、
 もし広告につられて志賀、柳たちがリーチを訪ねなかったら、
 もし富本が別の船に乗っていたら、
 もしリーチが茶会に行かなかったら、
 もし浜田と河井が蔵前で一緒でなかったら、
 もし淺川が朝鮮白磁をさげて柳邸へ来なかったら、
 IF、IF、IF……もし一つでもそうでなかったら、日本の近代文学、近代陶芸の歴史は大きく違ったものになっていたことでしょう。

 そうなったのは、偶然という魔術。
 フランスのノーベル賞作家アナトール・フランスは、
 「偶然とは、つまるところ、神である」
と、言っています。
 天才たちの出会いを演出したのは、神の「見えざる手」に相違ありません。(完)

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