葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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えにしの章の弐

 終の栖

 平成十三年(二〇〇一年)九月に子の神さんに寿陵を求めて、我孫子をわが終(つい)の栖(すみか)にする決心が定まりました。
 手賀沼畔の若松という住所に越してきて早や三十年を超えます。
 我孫子を選んだ最大の理由は、勤務先が日比谷であった私にとって、開通直後の千代田線で座って通勤できることでありました。
 会社を退いてこの理由が失せると、余生を過ごすのにもっとよいところがあるのではないか、と考えるようになりました。
 高原へ、海辺へ、引っ越して行った友だちも少なくありませんでした。
 生来バガボンドである私は、むしろ、この先長くはない人生をいろんな土地で過ごしたい、と思っていました。
 たとえば小京都といわれる町を三年ずつ遍歴できればどんなにいいだろうか、と。

 いざ退職して手賀沼沿いの遊歩道のウオーキングが日課となると、考えが少し変わりました。
 四季を彩る花々、野鳥の囀り、水面を渡る風の爽やかさ……何よりも自分の眼の高さから数キロ先が見通せる水辺の風景の広がりが、こころを晴れやかにすることに気づいたのでした。
 自宅からほんの数分でこんな素晴らしい散歩道があるところは、日本国中めったとないんじゃないか。
 文学史跡散歩に参加してみると、新たに郷土史への興味が湧きはじめました。
 当時はまだ市役所前にあった古い市民図書館の郷土史コーナーへ通うようになり、我孫子にゆかりのある人物を知るにつれ、一種の既視感(デジャビュ)を覚えました。
 彼らは、私がこれまでにどこかで名前を聞き、興味を持ち、あるいは作品に接して感動を受けた人たちであったのでした。

 灘中学校に入学した私は、講堂に懸かった「精力善用」「自他共栄」という書額を見せられ、それが本校創設に尽力した嘉納治五郎の揮毫になることを教わりました。
 国語の授業で正読本に採用されたのは、中勘助の『銀の匙』でした。
 高校時代の愛読書は、漱石の『こころ』と武者小路の『友情』でした。
 どちらも親友に恋人を奪われる話で、そのころ流行った江利チエミの「テネシーワルツ」同様、春にめざめはじめた高校生にとっては身につまされる思いがしました。
 当時クラシックにのめり込んでベートーヴェンを神様だと思っていた私でしたが、もし親友に恋人をとられるようなことがあれば、『友情』の主人公・野島のように、ベートーヴェンのマスクを庭石に叩きつけようと思ったりしました。
 直哉の『暗夜行路』では、芸者の乳房を揺すって「豊作だ、豊作だ」と叫ぶシーンに性的興奮を覚えました。
 詩も好きで、藤村の『若菜集』や高村光太郎の『智恵子抄』に心をうたれ、二、三篇の拙い詩をつくったりもしました。
 会社に入ると、事業所が倉敷にあった関係で、出張の合間に大原美術館を覗くことが多くなりました。
 泰西名画の逸品とともに、なぜ民芸作家の作品がこんなにたくさん陳列されているのだろうと思っていました。
 一夜、奮発して倉敷国際ホテルに泊ったら、ロビーの棟方志功の巨大な板画に目を奪われました。

 「北の鎌倉」というキャッチコピー宣伝文句に釣られて我孫子の若松に分譲地を求めたのは、昭和四十五年のことでした。
 市川の社宅で長男に小児喘息の徴候が見られたので、翌年早々に家を建てて引越しました。
 高度成長期の典型的な会社人間だった私は、白樺派などには無頓着なまま自宅と会社との機械的な往復運動に明け暮れ、週末はゴルフという生活を続けていました。
 恥ずかしながら、リーチの記念碑が建ったことも、志賀直哉邸跡を市が買収したことも知らずじまいでした。
 武者小路邸跡は離れていたため、訪ねもしませんでした。

 我孫子に越して間もなく、新居を訪ねてくれた小学校時代の、陶芸好きの友人に誘われて一日益子に遊んだことがあります。
 参考館で当時一八〇〇円もする浜田庄司作品集を買い求め、巻末の解説で浜田がリーチの親友であったことをはじめて知りました。
 我孫子に住んで五年目の年に、NHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」が始まりました。
 ご当地の英雄物語というのでさすがの私も興味をそそられ、筑波山の頂上から関八州を見渡して、「将門の心境がわかるなあ」などと悦に入っていました。
 地元の書店は将門ものの山積みで、その中から私は柴田弘武氏の『将門風土記』を購い、いつか役に立つだろうと書棚に眠らせてありました。
どういう動機からか『遠野物語』を読みたくなって、箱入りの美装本を買ってみたものの斜め読みしただけで、これも《積ん読》の一冊となっていました。
 静岡の関係会社に出向していた会社の先輩とゴルフを楽しんだ夕べ、先輩が御馳走してくれた料亭にはユニークな染絵の額がたくさん懸かっていました。
 それが人間国宝の芹沢げ陲箸い人の《型絵染》という作品であることを、初めて教わりました。

 ゴールデンウィーク黄金週間に妻と京都へ出かけたとき、清水寺の帰り道、ガイドブックで見つけた河井寛次郎記念館へ立ち寄りました。
入口の木製の看板が棟方志功の字であることから、河井と棟方の関係を知りました。
 売店に置いてあった『いのちの窓』という本をぱらぱらとめくったら、  「道を歩かない人 歩いたあとが道になる人」という文句が気に入って衝動買いをしました。
 高村光太郎の「僕の前に道はない 僕のあとに道はできる」と較べて、なんと控え目な人かと思ったのでした。
 日本民芸館を訪ねたのは、新規事業に携わるようになって駒場にある東大先端研の先生を訪問した帰りでした。
 こんなところにあったんだ、ちょっと寄って行こうかという程度の思いつきからでしたが、北国の蓑の美しさに息を呑み、幾多のコレクションから柳宗悦の眼力の確かさを知ったことでした。
 売店で岩波文庫の『手仕事の日本』を求めたら、各頁に芹沢げ陲離ットがありました。

 これら脈絡もなく気の向くままに興味を懐いていた人たちが、突然曼荼羅のように整然と私を取り囲みはじめたことに気づいたのは、退職後の日課とした手賀沼遊歩道のウォーキングで、冬空にくっきり浮かぶ夕焼け富士を見たときだったかもしれません。
 私が興味を懐いた人たちは、みな我孫子にゆかりの深い人物だったのでした。
 私は、不思議な縁(えにし)に導かれて、彼らが集い論じ談笑した我孫子に住んでいるのです。

 彼らをもっと知りたい、と私は激しく思い、新装なった市立図書館の《ゆかりコーナー》へ日参しはじめました。
 志賀直哉と武者小路実篤、瀧井孝作、中勘助などを再読し、嘉納治五郎の謎解きに没頭しました。
 日本民芸館、益子参考館などを再訪し、『将門風土記』を携えて将門史跡を巡りました。
 そんな折、家から僅か三分、開山一千余年の名刹である子の神さんで、墓地の最終分譲があるという話が飛びこんできました。
 子の神さんは真言宗豊山派……それが退職した年の秋に出かけた四国一人歩き遍路で、同行(どうぎょう)していただいた弘法大師の宗派であるというのも少なからぬえにし縁というものでした。
 妻も大賛成してくれて、九月末にめでたく寿陵が完成しました。
 それが、私にとって、この我孫子を終(つい)の栖(すみか)と定めた証左(あかし)となりました。

 いや、単なる縁(えにし)というようなものではない……私に言わせると、それは紛れもなく弘法大師、お大師様の仕業でありました。
 四国遍路の十一日目、私は翻然とお大師様に歩かせていただいていることに気がついたのでした。
 私が歩いているのではない、お大師様が私をして歩かせていらっしゃる。
 私が主語ではない、お大師様が主語で私は目的語なのだ、と。
 これまで私が考え行動してきたことも、すべてお大師様が私を考えさせ行動させてきたのだ、と思うようになったのでした。
 お大師様は、長い時間をかけて私の脳の襞に少しづつ興味の種を植え付け、興味の対象となる人物のゆかりの地に私を住まわせてくれたのです。(完)

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