葭の塾

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 雅号と書額(続き)

 これら五面の貴重な書額が、いつ、いかなる経緯で嘉納から贈られたものかについては、残念ながら正確な記録は残されていません。
 第一小学校と市役所の書額については、後藤校長先生のご好意で閲覧させていただいた「我孫子第一小学校沿革史」の中に、嘉納の名前がありました。すなわち嘉納は昭和十年(四月十三日)と十二年(二月十八日)に「役場階上ニテ」座談会を開催しており、十一年(十二月七日)には四年生以上の児童を対象に講演会を催し、続いて「聴衆多数」を前に「第十二回オリンピック大会誘致ノ由来ト国民ノ覚悟」という題の一般講演を行っています。この誼で昭和十三年(五月九日)には、「故嘉納治五郎先生告別式及葬儀ニ付千濱校(長)参列」という一項があります。(因みにこの時葬儀に参列された千濱校長は、昭和十九年十一月に手賀沼最大の水難事故で若き女教師十六名とともに亡くなっています。)
 このような関係であれば、当時の一小校長や当時の我孫子町長に揮毫を求められれば、嘉納が気軽に応じたことが推察されます。

 角松旅館のも同様で、別荘ができたときに嘉納は角松旅館において晩餐会を催しています。本来ならお披露目を兼ねて新築の別荘に招くのが自然なのに、角松旅館を会場に選んだのは、嘉納が角松の当主と極めて懇意な間柄であったからでしょう。
 「三樹荘」の書額は、村山氏が前の持ち主である柳宗悦の長姉谷口直枝子(すえこ)の子息から三樹荘を購入したとき、古家の玄関に架かっていたもので、氏はこれが柳の新婚転居を祝して、嘉納が揮毫したものだと説明されます。

 ところで、先の森本説に従ってこれら書額が書かれた時期を想定すると、疑問がひとつ生まれます。それは、「三樹荘」の雅号が「歸一齋」、森本説によれば嘉納七十代に用いたものであることです。柳が新妻兼子と三樹荘に入ったのは大正三年九月のことで、そのとき嘉納は五十四歳ですから書号は「甲南」だったはずです。柳は大正十年三月に我孫子を去りますが、このときでも嘉納はまだ六十一歳で「進乎齋」の年代です。森本説が正しいとすれば、嘉納は柳の住んでいる間に「三樹荘」の書額を書かなかったことになります。

 その疑問を解く鍵は、講道館図書資料部長の村田直樹氏が着目された三枚の写真の中にありました。それは講道館草創期の四天王といわれた者のうち、保科(西郷)四郎、山田(富田)常次郎、山下義韶の三人に贈られた「本體証書」の写真で(『写真図説・柔道百年の歴史』講談社一九七〇年十一月刊に掲載)、日付は前から明治十八年六月、同九月、明治廿年一月とはっきり記され、それぞれに「歸一齋 嘉納治五郎」という署名があるのです。明治十八年六月といえば嘉納は二十四歳、つまり「歸一齋」という号はすでに二十代から使用していたことになり、森本説の信憑性は崩れます。

 あらためて同じ「歸一齋」の書号になる四面の書額の写真を眺めてみると、「従善如流」と「三樹荘」はかっちりとした楷書体であるのに対し、「以人為鏡」はかなりこなれた感じで、「擇道竭力」になると草行書体で最初の二文字が容易に判読できぬほど奔放になります。この違いは年代の差をあらわすもので、「従善如流」がもっとも若く、「三樹荘」「以人為鏡」がその次で、「擇道竭力」が晩年の作のように感じられます。書号の書体も、「従善如流」では「歸」と「齋」が丁寧に書かれているのに対し、「三樹荘」「以人為鏡」「擇道竭力」では「歸」は「帰」となり、「齋」も崩されてきます。どう見ても、これら四面が同じ七十代に書かれたものとは思えないのです。

 そうなると、「進乎齋」の雅号についても疑問が生じます。「力必達」と講道館資料室にある「精力善用」「自他共栄」の二枚の書軸(「資料3」写真参照)は同じ「進乎齋」によるものですが、書体のこなれから察するに、明らかに前者のほうが若いと思われます。書号の「進」と「齋」も前者は丁寧に書かれていますが、後者の「進」と「齋」は崩されています。
 「甲南」の雅号については現時点では反証は見出せないものの、以上の考察から見る限り、嘉納は年代には関わらず、書額の文字(あるいはその時の気分)に応じて書号を使い分けていた、と考えてよいでしょう。

 森本説の疑問を解くためにずいぶん回り道をしてきたのは、書額の場合は揮毫の年月日を書かないのが通例とされるためです。もし額の裏にでも揮毫の時期が記されていればすぐわかるのに、森本氏が断言を避けられたのはそれがなかったからでしょう。
 講道館資料室には、角松旅館の「従善如流」の額と瓜二つのものが懸架されています(「資料3」)。奈良県在住の方から寄贈を受けたという書額ですが、展示するに当たって額の裏を確かめたのだが、日付は記されていないということでした。
 実は、我孫子の五面の書額についても、一時は額を下ろして裏を見せてもらおうと考えた私でしたが、これを聞いて、そこまでしなくてよかったと思ったことでした。落款の形で推定する方法もあるそうですが、嘉納の落款の種類について知識のない私の手には余ります。結局、本人か揮毫を依頼した人もしくは揮毫に立ち会った人の証言にまつしかない、それが得られないときは見た感じで判断するほかはないようです。

 ところで、「従善如流」については、その貴重な証言が残されたものが存在するのです。
 『嘉納治五郎著作集(五月書房・箱なし本)』第二巻挿入の「月報一」に、小谷澄之氏(講道館九段、昭和八年欧州旅行に随行)が「嘉納治五郎の思い出」という題で、以下の一文を寄せています。
 「今年(昭和五十八年)の正月、カナダのバンクーバー市の友人のお宅で、昭和十三年四月、氷川丸に乗船される前に、多分お書きになったと思われる色紙を拝見させてもらった。その文句が『従善如流』とあった。最後の書であり、これが先生の御心境でなかったかと想像して見せてもらった。うらやましい限りであった。」
 嘉納はこの氷川丸の船中で客死しますから、「従善如流」が文字通りの絶筆ということになります。
 本稿冒頭に記した書額の語句は、道場や学校に掲げられたものの集成ですから、「従善如流」は入っていませんが、小谷氏の文章は、これが嘉納のもっともお気に入りの語句、いわば座右の銘だったのではないかと思わせます。
 そんな意味を秘めた語句の書額がわが我孫子市に残されていることに、私は市民として、あらたな喜びを感じてやみません。(完)

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