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柳宗悦の章の壱

「決行」を促したもの

 国家の持つ実力を「クール」(かっこよさ)という観点から把握するものとして、「グロス・ナショナル・クール(Gross National Cool)」という表現があるそうです。「クール」は文化的魅力と言い換えてもいいもので、たとえばかの萩原朔太郎が「ふらんすに行きたしと思へども ふらんすはあまりにも遠し」と歌ったフランスなどは、その最たるものでありましょう。「クール」という概念は都市にも当てはまるもので、外国ではパリをはじめとしてウイーンやイスタンブール、国内でも、京都を筆頭に、金沢、角館、津和野といった都市は、その名前だけでも人を惹きつける歴史文化の香りがするものです。
 幸いわが町我孫子には、白樺派のコロニー、あるいは民芸発祥の地としての「クール」が存在しています。我孫子の文化は嘉納治五郎からはじまった、というのは私の持論ですが、これが「クール」にまで高まったのは、何といっても柳宗悦が住んでくれたおかげです。

 それでは、柳はなぜ、当時としては知る人も少ないド田舎の我孫子に住むことになったのでしょうか?
 この問については、柳の叔父に当たる嘉納治五郎が我孫子に別荘を構えていた事実から、ごく自然に、嘉納が甥の柳に近くに住むことを勧めたのであろうという見方が、地元では定着しています。私も、最初はこの説に素直に従っておりました。しかし、何かにつけて疑い深い性格に生まれついた私は、ほどなく、「勧められたからといって人は簡単に住まいを移すものか?」という根源的な疑問に突き当たりました。誰に勧められようと、柳には柳なりの理由がなければなりません。
 
 柳本人は、叔父に勧められたという言葉を遺しておりません。
リーチ宛の書簡には、
「近い将来、…家内と我孫子に引っ越すことになるでしょう。姉の新しい別荘があいているのです」(大正三年八月二十八日付)
という文言があります。
 妻兼子の言葉を借りると、その間の事情はこうなります(水尾比呂志氏『柳兼子夫人に聞く』)。
「義姉(あね)(宗悦の姉直枝子(すえこ))が、初縁のが亡くなりましたでざんしょ。それで、後家になりましたんで、母も後家でござんしたからね、母と二人でもって老後を過ごそうというので、土地を捜していたらしいんです。嘉納治五郎叔父があそこに土地を持っていて、別荘があったんです。ぼくのところの周りに土地があいているから、買ったらどうだというので買ったんです。そうしたら、義姉が再婚することになったでしょ。建ちっぱなしで住まなくなったんですね。それで、私たちが新婚でしたものですから、あそこに住んだらどうだと言われて、別荘番代わり家賃なしで住まわしてもらったの」
 兼子の言葉からは、「あそこに住んだらどうだ」と柳に勧めたのは叔父の嘉納ではなく、姉の直枝子であったと考えられます。家は直枝子が建てたもので直枝子の名義になっています。とすれば、別荘番代わりだから家賃は要らない、と条件を提示できるのは家主である直枝子であったはずで、柳の書簡もこれを裏付けています。

 兼子のこの言葉を真に受けて、柳は家賃なしという条件につられてやってきた、という説も根強く流布されています。兼子の言葉には、東京帝国大学を卒業後、就職もせず学究生活に入った柳が家賃にも困っていたようなニュアンスが感じられるのは確かですが、これは兼子特有のユーモアととるべきでしょう。第一、我孫子に来る前に柳夫婦が新婚所帯を営んでいた東京原宿の家は母勝子の所有になるもので、留守番代わりに住まわせてもらうならそこでもよかったはずでした。その上、我孫子の家は、若い二人が住まうには十分過ぎるほどの広さだったにも拘わらず、柳は転居早々、離れに十五畳大の凝った書斎を地元の宮大工に建てさせています。そのとき柳は、「お母さんのとこにぼくのお金がいくらか残っているから、それを使おうじゃないか」と言ったといいます(『兼子夫人に聞く』)。

 原宿の家は「赤い靴」「十五夜お月さん」などの童謡で知られる作曲家本居長世の旧宅で、母勝子が亡夫(柳の父・柳楢悦(ならよし))の麻布の五千二百坪もの大邸宅を処分して買い求めたものでした(水尾比呂志氏『評伝・柳宗悦』)。その潤沢な遺産の残りは当然子供たちに分与されたわけで、それを(少なくとも宗悦の分は)母勝子が管理していたとすれば、宗悦に渡したらあの子はすぐ使っちゃうとでも思われていたようで、愉快な話になります。
 いずれにせよ、柳が経済的に困るようなことはなかったはずで、留守番代わり家賃なしで住まわしてくれるのが我孫子転居の動機であったとみるのは、少し無理があるようです。

 因みに柳の父・柳楢悦(ならよし)は元海軍少将、若きより和算に秀で、測量、水路、天文、水産、植物等の学術に通じ、料理、詩歌の趣味も豊かな逸材で、のちに貴族院議員にも勅任された明治偉人伝に列せられる人物でありました。中でも明治海軍の初代水路局長として、日本の沿岸測量と水路図の作成に果たした功績は特筆すべきものでした。楢悦は、御木本幸吉に真珠養殖を教えた人としても名を残しており、鳥羽のミキモト真珠島「御木本幸吉記念館」には楢悦の大きな写真とともに、彼が大日本水産会幹事長時代に幸吉のアコヤ貝増殖を懇切に助言し、出来たばかりの養殖真珠を内国勧業博覧会に出品する段取りまでしてやった経緯が記されています。幸吉は終生、柳楢悦を恩人として語り伝えたといいます。

 柳は一歳十か月で父を亡くしており、父の薫陶を受けるべくもなかったのですが、兼子も「よくまあ次から次へとよくもめっけてくる」人だったと言うように(『柳兼子夫人に聞く』)、ホイットマン、ブレイクから転じて朝鮮白磁へ、さらには木喰仏、大津絵、出雲和紙、小鹿田焼(おんたやき)へと、柳の究めようを見れば、マルチ人間であった父楢悦のDNAを受け継いでいると思われてなりません。
 余談ながら、柳宗悦が父のことを綴った『柳楢悦小傳』に、真珠に関わった話は一言も出てこないのはまことに不思議な発見でありました。
 「彼(楢悦)が特に興味を持ちしは料理なり。諸国の料理を学び自ら筆をさえとりて著書をなせり。遺本『山蔭の落栗』(明治三十九年私出版、御木本幸吉編)は其の一つなり。」と、御木本幸吉の名をあげているにも拘わらず、です。

 あらためて柳が越してきて早々に書いた「我孫子から 通信一」(『白樺』大正三年十二月号)を読むと、「茲へ来た事は自分にとってはいゝ決行だった」という書き出しで始まっています。「決行」というのは、あれこれ迷った上の決断であったことを匂わせます。
 柳を迷わせた第一の要因は、我孫子に電灯がなかったことではないでしょうか。
 事実、柳が越してきた当時(大正三年九月)は我孫子はまだランプの時代でありました。このことは、柳自身の文章にも、兼子夫人、また柳の次男宗玄氏の言葉にも残されています。念のために『我孫子市史 近現代篇 年表』を繙くと、大正四年九月の項に「野田電気(株)に対し電柱建設のための富勢村布施地先里道使用を許可。これによりはじめて電灯が据え付けられることになる」という一文が見つかりました。富勢村は柳の家から北へ四キロほどもあり、そこから電柱が逐次建てられて、柳宅に電灯のともったのは大正五年以降のことと思われます。いやしくも文筆を生業(なりわい)とする人が、電灯のある都会からランプの田舎へ越してくるには相当の抵抗があったことでしょう。

 第二の要因は、生活環境の不便性でしょう。
 兼子夫人は、「ほんとうに何もないとこで、ヤとつくものはお豆腐屋が一軒あっただけ」、肉や野菜は東京へ出たときにまとめ買いしてくると語っています。下戸で甘党、それもチョコレート好きだったという柳のハイカラな舌に適う嗜好品や、ひっきりなしに訪れる友人知人をもてなす珈琲紅茶のたぐいも、当然手に入らなかったと思われます。
 志賀直哉が長女慧子(さとこ)を亡くしたときに、地元の医院にかかりながら東京から医者を呼んだ(『和解』)ことからわかるように、信頼ある医者もいなかった……当時の我孫子には、別荘ならいざ知らず、洗練された都会人が定住するためのインフラは未整備だったのです。
 叔父と母と姉がすでに住んでいた以上、柳は少なくも数度は我孫子を訪ねているはずで、これらのマイナス要因は疾うから認識していたことでしょう。(続く)

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