葭の塾

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「決行」を促したもの(続き)

 それでも柳は移ってきた。
 柳の「決行」を促したものは何だったのか? ……疑問を解く手がかりは、柳が三回にわたって『白樺』に寄せた文章の中に見出せます。
 「此土地は凡ての無益な喧騒から自分を隔離さして、新しい温情を自分に贈っている。事故の性情を育む上に自然はその最上の風調を示してくれた。今は水も丘も自分の為に静かに横たわっている。家は手賀沼を臨んで木に囲まれた丘の上に建っている。朝日は特に美わしい光と熱とを茲に送る事を愛している。その第一の光線が東の空から破れ出る時山も木も家も凡て甦って見える。又東方一帯の汀が落陽の光華を浴びる時、自然は更に複雑な相を自分に示してくれる。雲の姿も新しい心を含めて大空に漂っている。特に自分の心に日々の黙示を与えているのは東西四里に亘って前に横たわる手賀の沼の水だ。その静穏は限りない深さを示現している。自然は水の静寂にその底知れない偉大な平和を示している。レオナルドーは此深さを愛し、それを芸術に表現した画家だった。茲の自然はレオナルドーが愛したその自然だ。」(前出「我孫子から 通信一」『白樺』大正三年十二月号)

 「多くの人は此沼が秋から冬にかけて富岳の姿を映す事を知らないでいる。凡て沼の特質はそれが限りない静穏を示す時に見出されると思う。その時は囲繞(いにょう)する凡ての事物が、その有の儘な心を映している、木々も丘も亦走る雲も凡て此水鏡の静さから洩れる事はない。」(「我孫子から 通信第二」『白樺』大正四年九月号)

 「一見して平凡に見えるここの自然には年と共に離れられないような気持ちを加えた。…思い出してもここへ来て自然とどれだけ親しい間柄になったかを感謝せずにはいられない。静かな音もない沼の景色は自分の心をはぐくんでくれた。沼の上に永く降り続く雨も、時としては自然の美しい、なくてはならぬ諧調に思えた。月の沼も又となく美しい。私は床に就く時間を幾度か延ばした。…ここは地上の美しい場所の一つだと自分はよく思った。…思想の暗示やその発展に、自分はどれだけ此我孫子の自然や生活に負うた事であろう。静かなもの寂しい沼の景色は、自分の東洋の血に適い、又東洋の思想を育てるに応わしかったと自分は思う。」(「我孫子から」『白樺』大正十年四月号)

 繰り返し語られるのは、手賀沼とそれを囲繞する自然の美しさです。中でも手賀沼は、限りなく深い静穏を示現して、柳の心をはぐくみ日々の黙示を与えたのでした。ここには、すっかり都市化され、二十七年間も続けた汚染度ワーストワンをやっと脱したばかりの現在の手賀沼の姿は窺うべくもありません。

 中尾正己氏は著書『大正文人と田園主義』の中で、
 「古来、文人が都会の喧騒を避けて田園に身を隠すことは、洋の東西を問わず広く見られることであり、むしろ文人なるものの体質にもとづく一つの伝統と考えるべきであろう」
と延べ、徳富蘆花、国木田独歩などと並んで、柳をその一人に数えています。

 水尾比呂志氏によれば(『評伝・柳宗悦』)、柳に自然の美しさを教えたのは学習院中等学科二年のときに学級担任となった服部他之助(たのすけ)で、夏休みには赤城や尾瀬に連れ出して「自然の浄(きよ)さ」を生徒たちに説いたといいます。最も感化を受けたのが柳で、のちに「浄(きよ)いものの尊さを私の心に知らせて下さった最初の方は先生でした」(「恩師服部先生」)と回顧します。柳はその後も学習院と縁のある猪谷旅館が建つ赤城山を度々訪れており、先の「我孫子から 通信第二」にも、「自分が自然を愛する心を学んだのは年々遊んだあの赤城山に於てだった」と記します。
 その赤城山には大沼があり、「水」というキーワードで手賀沼とつながります。白樺文学館副館長の渡辺貞夫氏は、柳はラフカディオ・ハーンに憧れており、ハーンの愛した松江にも宍道湖の水がある、と鋭い指摘をします。渡辺氏は、論語の「子曰、知者樂水、仁者樂山」という一節をひいて、柳は知者ゆえに水を楽しんだ、というのです。

 柳はまさしく自然の美しさ、それも水のある自然に惹かれて我孫子への転居を「決行」したのでありましょう。前出「我孫子から」は、柳が東京へ移るとき(大正十年三月)に我孫子への去りがたき思いを記したものですが、その中には、「夜な夜な字を照らしてくれたランプも余の親しい友達の一人だ。それも東京に一緒に行きたいと云っている様に思う」という記述があります。物書きにとって致命的なランプの不便さでさえこうなのですから、買い物やいい医者がいないことなどは、水の誘惑に較べたら取るに足らぬ要因だったといわなければなりません。

 私は、柳が我孫子を選んだもう一つの大きな理由は東京に近いということを、忘れてはいけないと思っています。それは、柳が自らこう書いていることからも明らかです。
 「手賀沼は東京に最も近い湖水である。夕べ夕べに西一帯の空が赤らむのを見ても、都がどれだけ近いかが知れる。……我孫子への汽車は上野を発して一時間と十五分で来る。直通の列車は僅か四十分を出ない。」(前出「我孫子から 通信第二」)
 いかに自然が美しくとも、深い静穏を示現する沼があろうとも、それが赤城山のように東京から遠い土地であったなら、柳は移ってこなかったでしょう。

 思えば、西行も鴨長明も兼好法師も、隠棲するとはいいながら都の周辺部に住み、都の文化の移り香を嗅ぎながら、都の友人たちといつでも会って都の動静を聞くことができる利便さを手放さなかったことでした。柳もまたそうであった、と考えていいでしょう。
 私事(わたくしごと)ではありますが、退職して田舎に終の棲家を求める友人たちの誘惑に打ち克って、私が我孫子を離れなかった理由の一つは、東京に近くていつでも気軽に東京でしか行われない文化的催しに参加できるということでした。(完)

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