葭の塾

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柳宗悦の章の弐

「吾々のコロニー」

 さて我孫子に「クール」が具わるのは、その柳の勧めで志賀直哉が近くに居を構え、バーナード・リーチが柳宅の庭に窯を築いたからでした。
 ここでも前稿同様、勧められたからといって人は簡単に住まいを移すものか? という疑問が生じます。すでに我孫子に住んで手賀沼礼讃者になっていた柳の言葉にいかに迫力があったにせよ、志賀には志賀なりの、リーチにはリーチなりの理由がなければなりません。

 志賀が柳に「我孫子にいい売家があるから買わないか」と勧められたのは大正四年のたしか六月、『稲村雑談』によれば、赤城山の大沼に舟を浮かべて話し合っていたときだといいます。志賀は、そのとき、悶々たる日々を送っていました。志賀はその前年大正三年の十二月に京都で、父の反対を押し切って武者小路実篤の従妹康子(さだこ)と結婚しますが、翌五年の五月に鎌倉へ引越し、一週間にして赤城山へ移ります。この時期志賀は書くものも書けずに、夫と舅との不仲に堪えられぬ康子ともども今でいう鬱状態にありました。柳の誘いを受けた志賀は、赤城山をたったの四か月で引き払って、その年の十月に我孫子弁天山に居を移します。

 リーチが柳に勧められたのは翌大正五年の秋、リーチもまた、北京で暗い日を送っていました。リーチは陶芸の道を半ばで捨てて、ウエストハープ(哲学博士・孔子の研究)の招きで中国へ渡ったものの、博士との間に軋轢が生じていたのでした。その悩みを打ち明けると柳は、「日本に戻って来なさい。君は間違った指導者についてきた。…我孫子の私の家族の土地に来て窯を造って、またわれわれのグループに加わりたまえ」と言ったとリーチは記します(『東と西を超えて』)。

 二人に共通するのは、ともに不遇をかこっていたという事実です。志賀もリーチも、現在の惨めな境遇から脱け出たかった……ゆえに志賀は「すぐその気になって、康子にも相談せずに決めて了った」(『稲村雑談』)といい、リーチは「冬になる前に(日本に)帰る計画を立て始めた」(『東と西を超えて』)というほどの性急さで柳に従ったのでありましょう。特に志賀の場合は、大正初めの四年間だけで十回も家を変わったほどの引越マニアでしたし、赤城山では冬を越せないということは承知していたでしょうから、決断は早かったと考えられます。

 しかし、これらは勧められたほうの理由であって、勧めたほうの柳の行動を仔細にみると、なんとしても志賀とリーチを我孫子に住まわしたいという並ならぬ意欲が感じられてなりません。
 それは、柳が志賀のために「いい売家」を手に入れるまでの面倒見のよさに現れています。
 『稲村雑談』によると、我孫子に住むことに決めた志賀が赤城からわざわざ見に行ったその家は、競争者がすでに買って登記も済んでいたのでした。そうなると気の短い志賀は、「柳の家はいい家で一寸羨ましく思ったが、僕の買おうとした家は残念がる程いい家でもない」と早々に諦めて、そのまま、箱根の父の別荘に祖母や妹達と出かけてしまいます。
 「そのうち、我孫子の家を横取りした買主からその家を買ってくれといって来た。話を聴いてみると僕という競争者が出て来たというので養母の許可を得ずに養子が、無断で買いとったので、養子はその事でひどく怒られ、直ぐ売れといわれたのだそうだ。既に登記も済ませてあるというのでその登記料だけ高く出して買う事にしたのだが、こういうキッカケで、それから七年半我孫子に住む事になった。…小さな岡の中段にある二十五六坪の茅葺の家だったので、直ぐ、三部屋建増しをした。」
と、志賀は自分がやったことのように述べているのですが、交渉の主役はすべて柳でした。

 『柳宗悦全集』に収録された大正四年七月から八月にかけて赤木の志賀に宛てた柳の手紙を読むと、柳が志賀のためにいかに尽くしてやったかがわかります。
 たとえば七月十六日付の手紙には、買主からその家を買ってくれという話を受けとめたのは柳で、志賀の諒承が電報で届いたその日のうちに交渉を始めて、千七百円の言い値を千五百七十円に値切って、登記日まで決めてやったことが書かれています。君がここへ来るのはたいへんだろうから登記に使う印鑑を送ってほしい、実印でなくても実印らしく見える認印でもいい、登記料は三十五円かかっているからこれは別に払ってやる必要がある、登記日までに金子の都合がつかなければ僕のほうで何とかする、家は直すには東京の大工に指図をさせて土地の大工を使うのがいい、引越しの荷物は僕の家へまとめて送るのがいいなどなど、何とも至れり尽くせりの気の使いようです。

 注目すべきはこの手紙の後を追いかけて出された同日付の速達葉書の文面に、「二番目の電報は少しおそかった、もう手附を渡した后だし、登記期日迄きめたのだから。……若し此方(こちら)を買うにしても、あとでとりかえる事が出来るから、今は一先ず先の家を買って了う方が却て損をしない事になる。」とあることです。柳は続いて翌七月十七日付の手紙で、「此方」の土地の欠点を、高台で広いけれども長細く崖に面している、木がないから風当たりを避けるために隣の松林まで買う必要があり高くつく、停車場から遠い、などと並べ立てて、弁天山の「先の家」を一先ず買っておくことを強力に勧めています。

 この葉書から推察されるのは、「柳の家はいい家で一寸羨ましく思った」志賀が柳と同じ高台の土地を所望したらしく、どこで情報を得たのか直前になって心変わりをして、契約中止を電報で知らせてきたという経緯(いきさつ)です。その電報が入れ違いになって、「もう手附を渡した后だ」と言われて渋々納得した志賀に、七月二十七日付で柳は登記書類一式と手附金受領証を同封した書留を届けてやります。八月十一日付の葉書では、話の行き違いで風呂は別料金で七円払えと言ってきたがどうする? という相談があり、八月十五日付の葉書には、志賀から送られてきた九厘草やら楢やら孔雀羊歯やらを半日かかって、買った家の周りに植え替えたことが記されます。八月十八日付の手紙は、井戸を掘り方と場所の選定を三つもの図面を添えてこまごまと書き送ってやるのです。

 これだけ柳に尽くされてみると、移り気な志賀としても後戻りできなくなります。のちの、「我孫子に住んではみたもののあまり淋しいので退屈し、翌年には早速京都へ移ろうと考えていた」(『稲村雑談』)などいう言葉からは、柳があんまりテキパキ事を進めるので、乗せられて「我孫子に住んではみたものの」というニュアンスが濃厚に感じられます。

 とまれ、一番厄介な志賀を我孫子に住まわせることに成功した柳は、翌大正五年に今度はリーチの説得にかかります。淺川伯教の齎した朝鮮白磁に魅せられた柳は、淺川の誘いで李朝の陶磁を訪ねる旅に初めて朝鮮に渡りますが、旅の主目的は実は北京にいたリーチに会うことだったということが、柳自身の筆で記されているのです。
 「…八月十日に日本を出発することにしました。朝鮮に一ヵ月程滞在した後、北京に参ります。しかしお手紙から察すると、九月初めまで北京にはお戻りにならない可能性が強いようですね。…万が一、北京で貴兄にお会いできなかったら、それこそ大きな損失です。この旅の主たる目的は貴兄と会うことなのですから。」(大正五年七月二十八日付リーチ宛柳の書簡)

 柳は、これに先立つ七月二十二日付の手紙で、日本での芸術活動を捨ててなぜ中国へ行ってしまったのか、とリーチをなじっています。
 「北京でのウェストハープ博士との協同作業とは何であり、何だったのですか? 僕にはわからない。…僕の個人的な感想を率直に言わせてもらえば、氏の哲学観念よりも貴兄の芸術作品の方がはるかに重要なのです。ましてや、御二人の間には極端な個性の違いがあるようにお見受けします。」

 首尾よくリーチに会えた柳は、博士と袂を分かつべきだと説き伏せます。しかし、リーチを動かしたものは、「我孫子の私の家族の土地に来て窯を造って、またわれわれのグループに加わりたまえ」とリーチ自身が記した柳の言葉だった、と私は思っています。「われわれ」の中には、すでに我孫子に住んでいる志賀が含まれていました。単に「日本に帰っておいで」と抽象的な言い方をしたのではない……柳は、志賀のときと同様、「我孫子の私の家族の土地に来て窯を造って」と極めて具体的な条件を提示して、志賀と一緒に暮らそうよ、とリーチの心情に訴えたのです。
 うがった見方をすれば、柳は、志賀とリーチを呼び寄せるに当たって、二人が不遇の時期をわざわざ選んで会いに行ったのだ、とさえ考えられないでもありません。(続く)

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