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リーチの章の弐

 「ハマダ、つかまえた」

 「病院に着き、いったん濱田先生のベッドわきに身を置くや、リーチ先生は、『ハマダ、つかまえた』と、それまで我慢していた情感が一挙に込み上げてきたのでしょう。二人が両手をしっかり取り合いながら、『つかまえた、つかまえた』と悦び合う光景は、無上であり、この世のものとは思えぬほどでした。」
 一九七四(昭和四十九)年の秋、国際交流基金賞受賞のために来日したリーチが宇都宮市で入院加療中の浜田庄司を見舞ったとき、リーチの秘書として付き添った岡村美穂子氏は、自ら目撃した感動的シーンを、このように綴っています(「リーチとハマダ」、講談社昭和五十三年四月刊『益子の父 人間国宝 濱田庄司』の中)。

 このとき、浜田七十九歳、リーチ八十七歳。二人の出会いは、結局、これが最後となります。七か月の闘病生活の後、浜田は退院して制作を再開しますが、一九七八(昭和五十三)年一月五日に急性肺炎で亡くなります。その日は奇しくもリーチの九十一回目の誕生日でした。セントアイヴスの自宅で友人たちと誕生日を祝っていたところへ、浜田の訃報が伝えられたのです。不思議な縁(えにし)で始まった六十年間にわたる二人の濃密な交際は、不思議な縁に導かれて幕を閉じたのでした。その二年後の一九七九年五月、リーチは九十二歳で彼岸で待っている日本の懐かしき友人たちのもとへ旅立ちます。

 高村光太郎(一九五六年歿、享年七十三歳)、柳宗悦(一九六一年歿、七十二歳)、富本憲吉(一九六三年歿、七十七歳)、河井寛次郎(一九六六年歿、七十六歳)、志賀直哉(一九七一年歿、八十八歳)、武者小路実篤(一九七六年歿、九十一歳)……リーチが生涯で最も幸福だった時代をともに過ごした仲間たちは、みな冥界の人となっています。一番長生きをしたリーチは、それゆえに一番悲しい思いをしたことでありましょう。

 前章で触れたように、浜田という盟友を得なければ、リーチは母国で陶芸家として大を成すことはできなかったかもしれません。その二人の運命的な出会いは、浜田がリーチを訪ねて柳宗悦邸へやってきたときだというのが定説になっていますが、不思議なことに、二人の証言は食い違っているのです。
 リーチの言によると、京都の浜田から会いたいという手紙が届いた、といいます。
 「その中に彼は焼物の仕事をしていること、また七八年間自分の製作や富本君の作品を見ていると書いてありました。のみならず吾々の作品が彼をして陶工たらしめたとも書いてありました。彼は自分自身で製作しているが、私の所へ来て知合いになりたいと云って来ました。彼は私を訪ねて来ました。そして吾々は友達になったのです。」(『バーナード・リーチ』式場隆三郎編著)。

 水尾比呂志氏の柳年譜(『評伝 柳宗悦』)を繙くと、それは大正八年(一九一九)五月のこととありますが、浜田の自伝(『窯にまかせて』)では、
 「リーチと話をするようになったのは、大正七年、東京・小川町の流逸荘で開かれていたリーチ展の会場からであった。名乗り合って作品について話したあと、彼は『富本から、日本の陶工からは教えてもらうな、本当のことは言わないからと言われたが、君の話はよくわかる。我孫子の仕事場でもっといろいろ聞きたい』と言った。彼はそのころ、我孫子の柳宗悦宅に窯を持っていたのである。私は会が終わると、一人で彼を訪ねた。
 我孫子の駅では、柳夫妻も同じ汽車から降りたが、すぐ駅待ちの二台の人力車に乗って行ってしまった。私は歩いて柳邸へ入ったところ。『柳いるか』と声を掛けながら来た人があり、一目で志賀直哉さんだとわかった。こわいほど立派な顔立ちであった。
 あいにくリーチの姿はなく、応接まで待つことになった。……やがてリーチもやってきて食事の時間となったが、独特の食卓風景であった。ご飯もパンも両方出ていて、だれも自由に好きなものを食べる。……午後からは、中国風に建てたリーチ陶房で、原土や釉薬・窯たき、近く開く東京展の出品作など、二人で時を忘れて話し合った。」
とあり、初めて会った時期や会うまでの事情やらにかなりの相違が見られます。

 その浜田の記述を覆すのが柳兼子の思い出話(水尾比呂志氏『柳兼子夫人に聞く』)で、
 「浜田さんがいらっしゃったときには、停車場を降りたらば、同じ汽車から降りた私と柳とが人力を頼んで乗って帰ったのを『あとからつけて行った』とか言ってらっしたそうですけど、そんな覚え、ないんですよ。だって、二十分ぐらいなところ、人力で帰りゃしません。…私なんぞ、いつも歩いて帰りましたよ。」
と言うのですから、いったいどれを信用していいのか迷ってしまいます。

 時系列で並べると、リーチの言が一九三一年(四十四歳時)、浜田が一九七四年(八十歳時)、兼子が一九八二、三年(九十歳時)のことになります。時間の経過とともに記憶が衰えるという学説に従えば、リーチに軍配を上げるのが妥当と思われますが、個人差もあることで、結局私たちは本人の言葉でさえ闇雲に信じてはならないことを教えられます。実際のところ、出会いについて鮮明な記憶を持っている人はごく稀で、私などは無二の親友であっても、いつどこで知り合ったのかは霧の中に埋もれています。

 とまれ、リーチは浜田とたちまち肝胆相照らす仲となり、一年後の大正九年、二人はセント・アイヴスにヨーロッパで初めての登り窯を築き三年間共同生活を送ることになるのですが、このきっかけについても二人の言い分は微妙に違っています。
 すなわちリーチは、浜田は帰国する我々家族と一緒に「イギリスに渡る可能性があるかどうか聞いてきた」「自分を英国に連れて行って貰えるなら、悦んで働くと云ってくれ」た、などと語っているのですが(前掲式場本)、浜田のほうは、リーチは「私を強く誘ってくれ、同道することになった」(『窯にまかせて』)と言うのです。
 重箱の隅をつつくようなことはやめにして、二人の交流に話を戻しましょう。リーチは帰国後も戦前に一度、戦後は昭和二十八年(一九五三)を皮切りに八回もの来日を果たしますが、その都度必ず浜田とは会っています。益子の浜田窯へも何度も足を運び、再会の喜びを綴り、浜田の人となりと作品を讃えます。言語や文化の壁を越えて英国人と日本人がこれほどまでに親しくなれることに、私などは羨望を通り越して嫉妬すら覚えてしまいます。

 それほどの深い友情に結ばれた二人なのに、リーチの意見に浜田が《色をなして》反論したエピソードを、意外なことに司馬遼太郎氏が名著『街道をゆく』の第四巻「洛北の諸道」の中で披露しています。
 「十年ばかり前沖縄に出かけたときに、那覇のテレビに英国の陶芸家のバーナード・リーチ氏と日本の浜田庄司氏との対談が映っていた。リーチ氏は、柳宗悦や浜田庄司氏らとともに民芸思想を深めることに功績のあったひとだが、この対談のなかで道路の話題が出た。
――自分は日本が好きだが、道路のわるいのだけはこまる。
という意味のことをリーチ氏がいった。当時はまだ未舗装の道路が日本中に無数にあった。ところでこの発言に対し、リーチ氏にとってたれよりも意見が適(あ)うはずの親友である浜田庄司氏が色をなして反論されたのはおかしかった。その浜田庄司氏の発言を正確に再現できる能力は私にないが、要するに浜田氏は悪路に賛成であり、舗装には絶対反対であり、道路とは何ぞやを論じ、それは雨がふれば泥ンこになるようなものでなければならない、と言われ、さらに文化とは歩いていて足の裏が泥でぐちゃぐちゃするところから生まれるもので、人口のアスファルト舗装のあのそらぞらしい足もとからは生まれないのだ、という堂々たる思想がくっついていた。浜田氏はさらに『だから私は益子の工房(いえ)のそばの道路は舗装させないのだ』といわれた。
 私はかならずしもその意見に賛成するものではないが、しかし浜田庄司という思想家の、これはきわめて思想性の高い発言だといまでもおもっている。しかも、この発言は一種の先見性をもっていた。その後、日本中の道路が舗装されたが、その上に成立したものはもはや悪の華の形相を示しはじめた自動車文明(モータリゼーション)なのである。」

 この話は司馬氏にとってはよほど印象に残ったとみえて、七年後の著書『古往今来』の後書きにも書かれています。あの温厚な浜田が《色をなして》反論する様子など、現場を目撃していない私には想像もできません。これに似た意見の衝突は、おそらく二人の六十年に及ぶ交流の中で何度もあったであろうことで、結局、喧嘩しても仲直りするのが真の友といえるのでしょう。そういえば、あの温厚な柳もまたリーチと、赤城の夜にある画論のことから互に立ち上がって激しく口論したのち、仲直りして「それ以来一層の友愛を感じた」と述べています。

 それにしても、司馬氏をして浜田を「思想家」と呼ばせるのは、尋常な評価ではありません。それは、「師承」という悪しき伝統が思想を失わせるという司馬氏のかねての持論から出ているようです(『この国のかたち・二』「師承の国」)。「師承」とは何事も筋目の師につかねば身につかないという意味のことで、それはそれでもっともなことなのだが、やがて師の説くことから一歩も離れてはならないという閉鎖性を重くする作用をもたらすといいます。

 この師承の国で師承を脱したのは、(明治までの例でいうと、)宗教哲学の清沢満之(まんし)、武道の千葉周作と嘉納治五郎の三人だけだったように思える、「三人とは、なんとも少なすぎるようである」と司馬氏は嘆くのですが、浜田を「思想家」と呼ぶのであれば、リーチも富本憲吉も河井寛次郎も、みな(一介の「陶芸家」ではなく)「思想家」であった、といっていいでしょう。何とならば、リーチと富本は筋目の師・六世乾山に教えを受けたけれど、伝統的な古風な陶工であった乾山に飽き足らず、創意工夫を重ねて多くの技法を自ら生み出していきました。河井と浜田は京都市立の陶磁器試験場で何千という実験を重ねて、独自の色と焼成法を確立するのです。
 陶芸家ばかりではない、思えば『白樺』の仲間たちも、誰一人として師にはつかなかった。「師承」の対語である「我流」をきわめて大家にのぼりつめたのです。
 我孫子に集(つど)った人たちは、その意味で、全員が「思想家」なのでした。(完)


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