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リーチの章の参

 仲 省吾

 リーチが交わった日本人の中で、仲省吾という、いまはもう忘れられている人がいます。私がこの人の存在を知ったのは、昭和九年に刊行された式場隆三郎博士の編著になる『バーナード・リーチ』という稀覯本(きこうぼん)を繙(ひもと)いていたときでした。同書の第二編「リーチ研究・思出」の中に、仲省吾なる人物が「リーチを憶ふ」と題する一文を寄せていたのです。

 書かれたのは大正十年で、仲は次のように記しています。
 「私は今リーチの残した窯で製作し、リーチと同じ会場で自作の展観を催している上から、一層リーチを想う念が深いのである。私は今日まで親兄弟よりも親しく思う友人、しかもそれが英国人であり、そして短い月日の間に何処までも深い交際をしたという事は、生涯二度とある事でなかろうと思っている。
 二人が本当に深く交わる様になったのは、リーチが我孫子の窯を焼失した時から始まっている。リーチが其の善後策について相談に来た様子が、非常に気の毒であったという事を、外出から帰宅して、妻から聞かされた。取次に出た女中迄もリーチの落胆の様子を妻の話に付け加えた。それから私は直ぐ取るも取り敢えず、原宿のリーチの寓居を見舞った。悄然とした彼を見るのも傷ましかった。彼は我孫子で窯を失ったと同時に沢山の参考品や画稿を失ったのである。…リーチは其の時もう一つ心配事を持っていた。それは原宿の寓居が近々立ち退きを命ぜられている事であった。…丁度其時、私の友人で駒沢村に空き家を持っている人があったので、可也高い家賃ではあったが事情を告げてリーチの払われる程度に交渉して移らせる事にした。気持ちのいい家である事を彼は大変喜んでくれた。
 これで住宅の問題は済んだけれども、一番大切な窯の無い事を大変リーチは困っていたので、私は黒田清輝子に万事を話した処、子爵も非常に同情して自分の邸内に窯を築き、何等の条件なしにリーチに貸す事を約された。黒田子の考えでは、外国から来ている芸術家の苦しんでいるのを救うという事は、国交のうえから云って見ても意義ある事であろうし、又日本の学生が海外にあって、同じ運命にあったと思えば、この際大いに力を添えてやるべきであると云う意見であった。
 こうして新しく生まれたリーチの窯は、全部彼自身の設計になるもので、棚一つと雖も彼の意志でないものは無い。西門を這入ってその窯に至るまでの小径も、わざわざ木の間を潜って変化あり、趣きある様にリーチが案出したものであった。
 窯の出来上がる間彼は軽井沢に居た。帰って見て窯の余りに立派なのを驚いて『少しの間しか使わないのにこんな立派な釜は勿体ない』と言い続けて居た。窯開きの時は日本の古式によって、神官を迎え、供物をし、祝詞をも上げて厳かに行った。その式が済んでから、リーチが祝詞の意味が何となく判る様な気がすると云ったので、私は一層詳しく祝詞を訳して話したら感に打たれて涙を流して居た。」
 因みに、「東門窯」と名付けられたこの窯の地鎮祭が行われたのは大正八年十月二十三日で、リーチが涙した祝詞は陰陽師梶山惣五郎が読んだもので今も残っているといいます。

 この内容を読むと、(リーチの章の壱)で挙げたリーチを導いた信じられない偶然の第六に、仲省吾との交友を付け加えなければならないでしょう。仲がいなければ、リーチの日本における作陶は続けられなかったかもしれないのです。我孫子のリーチ窯が焼失したあと黒田清輝が救いの手を差し伸べたのは夙(つと)に知られた美談ですが、黒田に仲介の労をとってやった人物がいたというのは、私にとって初めて知る事実でした。

 不思議なことに、この「親兄弟よりも親しく」思ってくれ、新しい窯から家の面倒まで見てくれた友人に対して、リーチはさしたる謝意を示していないのです。
 仲の思い出話が載った前掲式場本には、リーチがこの間の経緯について述べている箇所があるのですが(一九三一年ロンドンにおける講演記録)、
 「私自身の窯場をもう一つ建てることは、非常な費用を要しました。この困惑している時に黒田清輝子爵から――私はその時まで逢ったことがなかったのですが――子爵は東京で広い土地を持ち、自身も画家でしたが――自分の所へ来て窯を建てないかという話がありました。その窯は私が暑い時期に山の方へ行っている間につくって置くからと云ってくれました。こんな好意は日本では珍しくはありませんが、外国人に対しては珍しいことだと思います。」
と、黒田に対する謝意は尽くしているものの、仲への言及はありません。

 これよりはるか半世紀後の、昭和五十七年(一九八二)に著された自伝的回想『東と西を超えて』においては、
 「この転機に、私の東京の画廊の所有者である仲省吾という人が、彼の前の雇主である黒田子爵からの申し出を伝えにやってきた。…子爵はパリで美術を勉強し、油絵では一流となっていた。私は彼に一度しか会ったことがなかった。彼は明らかに私の損害を案じており、東京の私の家から遠くない彼所有の草地に、彼が私のために新しい工房と窯を建てることを承諾するかどうか聞くために、仲氏を寄こしたのであった。私がそこを去った後、彼(仲氏のこと?)がそこを使うという条件であったが、日本を離れることは私もしばらく考えていたことであった。私はこの寛大さにあっけに取られ、仲氏に柳とこの問題を話し合わねばならないと答えた。柳はすぐさま、承諾すべきだと言った。」
と、仲の名前は出てきますが、ここでも黒田が主役です。先に黒田とはそれまで逢ったことがなかったと言いながら、今度は一度しか会ったことがなかったと言うのはご愛嬌としても、リーチによると、仲は単なる黒田の申し出を伝えに来た雇い人であるというのですから、仲の言い分とはずいぶん異なります。

 いったいどちらが正しいのか? ……はげしく突きあげてくる好奇心に動かされて、私はまずは仲省吾なる人物について知ろうと思い、市民図書館に出かけて人名録をあたりましたが、不思議なことにいずれの人名録にも仲省吾の名前が見つからないのです。こんなときはネットに限ると考えて「仲省吾」というキーワードをヤフーに打ち込んだところ、たちまち三件の有力な情報が現れました。

 一件目は、「ゆずりは便り」というブログのページです。執筆者は推定するところお茶屋さんのご主人で、大正時代の画廊の研究家を自称するだけあって、
 一、仲省吾は「なかせいご」と読み、画廊「流逸荘」の経営者であったこと。
 二、「流逸荘」は大正三年十二月に小川町駅の前、靖国通り沿いに開店し、命名したのは美術評論家の   岩村透でフランス語の「小川 Ruisseau」をもじってつけられたこと
 三、仲は黒田清輝と大変親しく、黒田の助言もあって画廊を開店させたと思われること
 四、「流逸荘」は約九年間華々しく活動したが、関東大震災によって焼失したこと
 五、その後、仲は黒田の死(震災の翌年)もあり、美術界から離れキリスト教司祭・岩下壮一とローマ   で出逢ったことから岩下の仕事を手伝うこととなり、ハンセン氏病の活動に身を投じたこと
などなど、まことに充実した内容が述べられています。就中(なかんずく)、白樺派や民芸の仲間の著作に何度となく登場する「流逸荘」の名前の由来などは、初めて知る知識でありました。

 二件目に現れたのは、仲省吾の名前が記されている「黒田清輝日記」の断片でした。これだけでは両者の関係はわからないのですが、この日記の出典である上野の黒田記念館のホームページを検索すれば、なんと、明治十七年(一八八四)から大正十二年(一九二三)まで、公開されている黒田清輝の日記がネットで読めるというのです。
 さっそく「ゆずりは便り」の正確さを検証すべく、「流逸荘」が開店したという大正三年十二月分を開いて読んでゆくと、大正三年(一九一四)十二月十八日の項に、
 「仲省吾君来リ画室ニテ雑談亦共ニ晩食ヲ取ル 六時半ヨリ国民美術後援会発起人会ヘ赴ケリ …議決2国民美術協会事務所ヲ小川町仲方ヘ移転ノ件」
という記述が、翌二十日の項に、
 「仲氏流逸荘開店」
という記述が見つかりました。
 黒田が自ら会頭をつとめる国民美術協会の事務所を開店早々の流逸荘に移したことは、予めその意図をもって仲に「流逸荘」を開店させたという想像が可能で、「ゆずりは便り」の正確さは証明されたことになります。これ以後、仲は黒田日記に頻繁に登場し、二人の親交の深さがわかるのです。(続く)

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