葭の塾

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 仲省吾(続き)

 次は、私が特に知りたかったリーチとの関係で、リーチが黒田邸に窯を築いた前後の経緯に焦点をあててさぐってみることにします。リーチが黒田日記に初めて登場するのは、大正八年六月二十四日の項で、
 「六時ヨリ流逸荘ヘ赴キ リーチ氏ノ作品展覧会ヲ覧タリ」
です。以下、リーチが出てくる記述を拾うと、
 「七月十八日 仲君 リーチ氏等ト笄邸内ノ敷地ヲ検分セシ由ナリ 但リーチ氏ノ外 警○庁ノ官吏モ同行セリト聞ケリ」
 「七月十九日 夕刻リーチ氏 仲氏同道来訪 半時間許語ル 今回ノ窯移転ノ礼トシテ来レルナリ」
 「七月二十六日 リーチ氏作ノ机及椅子搬入 直ニ畫室内ニ備付ク」
 「七月二十九日 来訪ノ仲君ト語ル リーチ氏ノ出願ニ関スル警察ノ態度ト警○庁当局ノ意見等ニ就テ」
 「八月十八日(在鎌倉) 午後一時半頃 仲氏来着…又リーチ氏工場建設ノ儀 許可セラレタル事等ノ報告アリ」
 「九月六日(在鎌倉) 七時頃 仲君入来 薔薇園ノ設計及貸地ノ処置ニ関スル報告アリ 又リーチ氏ハ来ル十一二日頃 軽井沢ヨリ帰ル筈ナリト語レリ」
 「十月二十三日 笄邸ニ於テ窯開ノ式ヲ執行ス 荒○ヲ祭ル 梶山氏此祭ヲ主ル リーチ氏ト余ト左右ノ火口ニ点火ス リーチ氏夫妻 仲氏夫婦 照子等列席 一同撮影終(夕刻 仲氏 供物ノ一部ヲ持参ス)」
 「十月二十四日 九時半帰宅 待合セタル仲氏ト十一時過マデ語レリ 同氏ハ昨夜十二時過迄窯焼ヲ手伝ヒ リーチ氏ハ遂ニ窯小屋ニ一泊セリトノ事ナリ」
と記されています。

 これらの日記文には、黒田が仲に頼まれて自邸内にリーチの窯をつくってやった、というような表現はありません。しかし、大正八年六月二十四日に黒田が流逸荘で見たリーチの作品展覧会というのは、我孫子の窯が焼失して失意の底にあったリーチを励ますために仲間たちが開いてやったもので、黒田がわざわざこれを見に行ったのは仲に誘われたからに違いありません。加えて、その二日後の六月二十六日の項に、
 「夜 仲君来リ午前一時マデ語ル」
という意味深長な記述があるのは、仲がリーチの救済を頼んだのだという想像が可能です。以後、リーチが仲に伴われて礼を述べに現れるまでに、七月二日、十三日、十四日、十七日と四度も訪客に仲の名前が記されていることを見ると、承諾を与えたあとに窯をどこにつくるかの実務的な相談がなされたと考えていいでしょう。

 敷地の検分から警察への届出、建設許可の取りつけ、庭園の設計に至るまで、仲は、実にこまめに、リーチの面倒を見ています。初めての窯焼に深夜まで手伝ってやる仲の態度には、リーチが言うような、単なる黒田の申し出を伝えに来た雇い人であったニュアンスなどは微塵も窺えません。
 黒田日記を読む限り、最初に私が抱いた「仲とリーチと、どちらの言い分が正しいのか?」という疑問は、仲のほうに軍配をあげざるを得ないようです。それでは、これほどまでに尽くしてくれた仲に対して、リーチはなにゆえ充分な謝意を示さなかったのか? 

 その答を解く手がかりは、三件目に現れた『バーナード・リーチの日時計――仲省吾という日本人』という項目にありました。C・W・ニコル氏によって書かれたこの作品は『誇り高き日本人でいたい』という著書に収められたもので、抄述された内容が目をひいたので、幸い市立図書館に所蔵されていたものを早速借りてきて一読しました。

 物語は、ニコル氏が来日して間もない若い頃、鳥の写真を撮っていたとき、威厳のある白髪の紳士から「グッドモーニング」と声をかけられるところから始まります。完璧なビクトリア朝時代の発音に魅せられて話は弾み、仲省吾と名乗ったその老紳士が近くの老人ホームに住んでいることを知ったニコル氏は後日ホームを訪ねます。老紳士はホームの敷地の一角に彼専用に建てられた家に住んでいて、前庭に台座の上に築かれた日時計があり、それはバーナード・リーチのタイルで作られていたのでした。老紳士はそのとき「私は日時計が好きなんですよ」と言っただけでしたが、再度訪問した折には老紳士はすっかり衰弱していて、混濁した意識の下でニコル氏のことを「デイビッドか?」と尋ねるのです。そのあと「どうしてバーナードは会いに来てくれないのか?」と何度も訊かれたことで、ニコル氏は彼がリーチの友人だったことを知ります。そんなある日、ニコル氏はジャパン・タイムズでリーチが来日しているという記事を読みます。ニコル氏は奔走した末リーチをつかまえて、電話で仲老人のこと、病気のこと、あなたに会いたがっていることを告げます。「参りましょう」とリーチは即答し、約束を全部取り消して見舞いにやってきたのです。

 「仲氏は独りで臥(ね)ていた。衰え果てて、顔は青ざめ、肌は灰色にやつれ、萎びた小さい人形のようであった。私はリーチ氏の後からついて入った。
 『やあ君どうだね。本当に久しぶりだね』とリーチ氏は声を掛けた。
 『おお、バーナード! 来てくれたか。来てくれると思っていた!』
 こうして小さな奇跡が実現し、老人の願いはかなえられ、時は短く手ぐり寄せられた。私の目には涙が溢れた。私は何だか闖入者のような気がしたので、そっと座を外し、室外の椅子に黒衣のシスターと並んで腰掛けて待っていた。
 二つの声が室内から洩れて来た。その話の内容は聞き分けられなかったが、しかし仲省吾老人の声はまるで青年のように弾んでいた。」
と、ニコル氏は記します。

 その年(一九六四年)の暮に、離日を控えたニコル氏がお別れの挨拶に訪ねたとき、仲氏の住んでいた家に錠がおりていることに不吉な予感を抱いて「仲さんはどこですか?」と尋ねると、そこにいた老女が「行っちゃった」と答えます。てっきり氏が亡くなったと早合点したニコル氏は、「駅へ戻る間じゅう、子供のようにすすり泣いた」と綴ります。
 それから十五年後、これを題材にした「日時計」という戯曲を日本語で書くことを決意したニコル氏は、取材のために老人ホームを再訪します。そのとき、仲省吾氏の正確な死亡日時が一九六九年一月十五日であったことを知らされるのです。軽はずみな判断からその後四年間も仲氏を見舞わなかった自分を、ニコル氏ははげしく責めます。でも、リーチの日時計はまだそこにありました。ニコル氏が剪定鋏で深い蔦かずらの茂みを刈り取ると、リーチの色鮮やかなタイルが姿を現したのです。十五年前は読めなかった日本語の真鍮(しんちゅう)の碑板には仲氏の詩が書かれていました。

 ざっと以上のようなあらすじなのですが、ニコル氏はこの縁から仲省吾についてもっと知りたいという思いに駆られて調査を始めます。この随筆の後段はそれが主力で、「解き明かされた仲氏の実像」という小見出しで、時のローマ法王にも謁見したという仲省吾の華やかな経歴が語られます。

 しかし、肝心のリーチとの交わりについては、「仲省吾氏はリーチの親友であり、後援者であったらしい」とか、「若かりしバーナード・リーチが火災のために自分の窯と家とを焼かれて困窮していた時に、彼を助けて立ち直らせたのが仲省吾氏であったらしい。それは仲省吾氏自身の語った話のようである」とか、「らしい」「ようだ」の推測に終わっているのです。それなまだいいとしても、私が最も期待を裏切られたのは、本篇の結びの文章、「そして私は今も問うのである……デイビッドとはいったい何者だったのだろうか?」でした。ニコル氏は、デイビッドがリーチの長男であり、父と同じ陶芸家の道を選んだという、ちょっと調べればすぐわかる周知の事実をなおざりにしているのです。

 それはさておき、ニコル氏の奔走によってかなえられたリーチと仲省吾との邂逅場面は、浜田を見舞う情景と同様、やはり胸を打つものがあります。とりわけ、リーチが名も知らぬ同国人のニコル氏から電話を受けたとたんに、来日中の多忙な日程をすべてキャンセルして翌日に駆けつけたという事実は、リーチが仲から受けた恩を決して忘れてはいなかったという何よりの証左でありましょう。それはまた、リーチにとって、回顧談や自伝の中で仲への謝意を述べなかったことへの償いであったかもしれません。

 リーチと仲省吾、黒田清輝とのトライアングルをさぐる私の知的探求の旅は、こうして終わりました。人は、日記や回顧談、自伝の中ですべてを語ることはできません。書き漏れ、思い違い、失念は誰にでもあることで、書いてないからといってその事実がなかったことにはならない、という当然の定理を、私はいまさらのように教えられたことでした。(完)

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