葭の塾

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リーチの章の四

 東と西を超えて

 I have seen a vision of the marriage of East and West.
 Far off down the Halls of Time I heard a childlike voice.
 How long? How long?
 これは手賀沼公園の一角に建つバーナード・リーチ記念碑に刻まれた言葉で、リーチの自伝的回想『東と西を超えて』の末尾に自筆で記された詩からとられたものです。

 『東と西を超えて』の原題は 《Beyond East and West》、市立図書館所蔵の同書の奥付には昭和五十七年(一九八二)一月二十五日一版一刷とあります。この年五月八日付の日経新聞文化欄にリーチの晩年の秘書トルゥデイ・スコット女史が「失明の理想家リーチ」と題して、本書執筆の裏話が掲載されています。それによると、リーチが著作に取りかかったのは一九七三年、すでに視力は弱ってきており、思いつくことごとをベッドサイドのテーブルに用意した紙に軟らかいフェルトペンで、朝であろうと真夜中であろうと大きな字で書きつけたといいます。リーチの目はどんどん悪くなって、最後はテープレコーダーに吹き込んだものを女史が文字に移したそうです。リーチは、しかし、目の見えないことを悔やんではいなかった、むしろ「今となっては失うものはなにもない、得るものばかりだ」と話した、死の直前まで「最も大事なことは世界はひとつだというヴィジョンだ」と語っていた、と女史は記しています。

 リーチが意識して使ったvision という語(ことば)には、dream と異なり、望んでも容易には叶わないというニュアンスがあります。私の拙い知識によれば、dream は「夢」、vision は「幻」……dreams come trueという表現があるように dreamはしばしば成就しますが、see visionsといえば幻想を抱く意味になり、遠い理想を追い求める語感が出てきます。それを充分弁(わきま)えた上で、リーチはHow long? How long?という問いを発したのでしょう。事実、東洋と西洋が結婚して世界が一つになることは誰もが希(こいねが)いながら、二十一世紀のいまになっても実現できないでいるのです。

 しかし、個人的にはリーチは、軽々と東と西の壁を超えてみせた人でありました。
 大英帝国華やかなりし時代の英国人リーチが、極東の小国である日本人から「私のほうが教わるべきだ」とさとった《いさぎよさ》は(リーチの章の壱)で述べたことですが、実生活の上でも、リーチは日本人として生きようとしたのでした。
 たとえば食生活において。リーチは日本食が大好きで、仲省吾によれば、「一番好きだったのは、浜納豆、味噌汁、沢庵、秋刀魚、すき焼き、鰻、そば等であったが、中でも浜納豆はチーズの味がすると云って好んで居た。味噌汁を三杯も四杯もお代わりをした事はよく覚えている」というのです(式場隆三郎編著『バーナード・リーチ』)。
 浜納豆というのは、ご存じない方もあるでしょうが、遠州名物の糸をひかない粒納豆で、納豆というよりは味噌を小さくこねたような感じで、ごはんのおかずやお茶漬けにして食べます。戦国武将などの携行食として好まれ、特に徳川家康はこの「浜納豆」がお気に入りで、江戸幕府の歴代将軍に献上されていたとも伝えられています。

 同じ式場本で、柳兼子もまたリーチの食について、次のように記します。
 「我孫子の様な何もない処では、お芋の煮ころがしや、まずい沢庵で満足して貰うより仕様がありませんでした。季節になれば鴨のおいしいのが手に入りますけれども、名物の鰻も東京へ出した残りのを買ってきて、家で蒲焼にするのでしたから大しておいしくもありません。それでもおいしがって食べました。お餅へバタとお砂糖をあえたり、お味噌入りのライスカレーが出来たり、何しろ材料の乏しい処で味の複雑な御馳走を拵えようとするので大分珍妙なお料理が出来ました。……
 リーチさんは《すずこ》だけを嫌がって居ました。志賀さんや私がまた《すずこ》が好きなので『こんなおいしいもの』と云うと、『咬むと玉がつぶれる、臭いつゆが出る、いやんナー』といつも顔をしかめました。好きなもので一番に思い出されるのはお味噌でした。お味噌汁が大好きで落し味噌の粒粒なお汁でも喜んで居りました。上唇に被いかぶさった口髭についたお汁をよくハンケチでふいて居た様子が目に見える様です。それから須田町の藪蕎麦へよく立ち寄った様でした。あそこのお煮出汁の味が好きで、大きな瓶へ入れて我孫子へおみやげに持って来た事もありました。
 町へ散歩や用達しに行った帰りには、よく駄菓子を買って来ました。ねじ棒や豆板や鉄砲玉などの黒砂糖の特別な味を、我々共に喜んだものです。又落葉の焚火や窯焼の後で焼いたお薯を、小供達と一緒に泥を払い乍ら味わった事もありました。こんな塩梅でしたけれど、それでも御飯ばかりでは重たすぎると云って家からパンをとりよせて居ました。パンを好い加減食べた後でお香のものでお茶漬などおいしそうに掻き込んでいる時もあります。そしていつもパン切り台を前に据えて、ナイフをかまえ、『食べるカー』と云って吾々の顔を一巡り見まわして切ってくれたのを思い出します。」

 奇妙なのは、仲も兼子も、外国人にとって最大の難関である刺身や寿司について述べていないことです。《すずこ》だけを嫌がっていたという兼子の表現から察すると、リーチはその他の生魚は苦にしなかったようにも思えます。
 いずれにせよ、リーチは大正時代の日本人が食べていたものを、抵抗もなく、むしろ嬉々として食べていたわけで、海外赴任に電気釜が手放せない当節のひよわな日本人が恥しくなるような順応性をもっていたのです。思えばラフカディオ・ハーンも米の飯に味噌汁、生卵や煮魚、焼き魚を好んで食べたといいますから、リーチは敬愛するハーンに倣ったのかもしれません。もっともハーンは煙管(きせる)に刻み煙草をつめて吸い、毎夜二三合の晩酌をたしなんでいたようで、この点は柳宗悦や浜田庄司と同様、「まるで清教徒のように」タバコも酒も口にしなかったリーチとは異なっています。「父はその頃、莨具や盃を沢山作っていたが、この御三方には必要がなく、お座敷に置いてある灰皿は長時間の暇と退屈をもて余し大欠伸をしていたことだろう」と、河井寛次郎の長女・河井須也子は語っています(河井寛次郎『火の誓い』講談社文芸文庫後書)。

 東と西の結婚といえば、典型的な日本の生活様式の一つである掘りごたつが、なんとリーチの発明だったという説があります。
 水尾比呂志氏『評伝 柳宗悦』の付録「柳兼子夫人に聞く」の中に、
 「(リーチさんは)原宿で家族と一緒に、ちょっとした家に住んでいたんですよ。日本建ての家で、コタツを掘ったりして(註・堀ゴタツはリーチが案出した装置である)。」
という言葉があるのです。(註)はおそらく聞き手の水尾氏がつけたものでしょう。

 この「リーチが案出した装置」については、兼子のほかにも多くの目撃者がいます。いずれも前掲式場本に記載されているもので、第一に里見が、
 「…誘われるままにリーチのうちによったと思う。音楽学校の先を右へはいった桜木町の新宅だ。…茶の間の、真中の畳一帖だけ床を落し、丁度椅子に腰かけるように、その切穴へ足を踏ン込み、上から被せた卓へ向かう仕掛になっていた…」(「思出片々」)
 第二に児島喜久雄が、
 「中央を四角に大きく切って一段落としてある妙な食堂で山内と二人昼食を御馳走になったのも其頃であった。」(「入門の思出」)
 第三に富本憲吉の談話として、
 「リーチとの初対面は桜木町の家だった。彼が設計したという茶の間の真中の畳一畳だけ床を落して、そこへ格好な卓子を置いてあったので、床が椅子代わりになって、皆で腰をかけて向かい合うことの出来るものが作られていた。」
と述べているのです。

 三人とも、まるで不思議なものを見たように、その構造を説明しています。「畳一帖だけ床を落し、丁度椅子に腰かけるように、その切穴へ足を踏み込み、上から被せた卓へ向かう仕掛」といえば、まさしく足元に火をおけば掘りごたつに早や替わりするもので、水尾説は正しいといっていいでしょう。創意工夫に長けたリーチが、冬場になればきっとそうしたであろうことは、容易に想像できるのですから。

 ところで、ちょっと解せないのは、彼らが誰も堀りごたつのようだと言っていないことです。とすれば、この時代はまだ掘りごたつがなかったのでしょうか?……平凡社『日本大百科辞典』「こたつ(炬燵)」の項によれば、掘りごたつは置きごたつよりはるかに古く,室町時代に出現したといいます。最初は,囲炉裏の火が〈おき〉になったときなどに上に格子または簀の子状の櫓(やぐら)をかけ,紙子(かみこ) などをかぶせて,櫓に足をのせて暖めていたそうです。置きごたつは元禄時代になってからのもので、木炭・たどんなど燃料生産の増大に伴い、これを火種に代えて庶民の安直にして不可欠な暖房具として普及したというのです。

 しかし、置きごたつが木炭・たどんを火種としたのであれば、掘りごたつだって囲炉裏の上に櫓をかけるという危険なことは避けて木炭・たどんを使えばいいはずです。そうしなかった掘りごたつが結局置きごたつに駆逐されていったというのでしょうか、沸き起こる私の「?(はてな)」に対して、残念ながら、百科辞典は答えてくれません。
 いずれにせよ、里見たち三人がリーチの「装置」に感心しながら掘りごたつを連想しなかったということは、大正時代には掘りごたつは少なくも彼らの目に触れないほどの存在であったのです。

 私事(わたくしごと)で恐縮ですが、わが家は堀りごたつです。家を建てたとき、二階の茶の間に半畳分の掘りごたつを切らせて、年中卓袱台(ちゃぶだい)代わりに使っています。それは私の育った家の茶の間にあった掘りごたつからの郷愁でした。その掘りごたつは親子六人が入っても足がぶつからないほどの大型のもので、その上で皆でつつく鍋料理が楽しみでした。エアコンなどない時代でしたが、頭寒足熱の理に適ったこたつは暖房という本来機能のほかに、一家団欒の場を提供してくれたのです。

 当時の火種は練炭でしたが、今のわが家のはもちろん電気で、置きごたつ同様、櫓の下についています。二階の茶の間は冬でも日当たりはよく、日が落ちても熱が逃げずに、こたつをつければエアコンは不要です。
 いつになく厳しい寒さのこの冬もまた、こたつにもぐってテレビを見ながらうたた寝をする、という至福のときを過ごしながら、私は栄えある掘りごたつの発明者の尊号をリーチになら与えてやってもいいな、と思い始めているのです。(完)

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