葭の塾

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高村光太郎の章の壱

 「リーチ遂に来訪なし」

 今はすっかり我孫子の名所となった天神坂を登ると、中ほど左手の石垣に、
 「三樹荘に 夢を紡ぎし文人の 足跡しるす天神の坂 平成四年 村山祥峰」
と刻まれた短歌のレリーフがあります。
 「三樹荘」とは旧柳宗悦邸の別称で、スダジイの巨木が三本立っていることから柳の叔父・嘉納治五郎が名づけたといわれます。レリーフの短歌は現在もここに住まわれている歌人村山正八氏の作になるもので、この前に立つと、今にもすぐ上のあずまや四阿から、文人たちの談笑が聞こえてくるような錯覚にとらわれます。
 文人の中には当然陶芸家たちも含まれているはずで、この庭に窯を築いたバーナード・リーチなどは志賀直哉や武者小路実篤とともに、常に三樹荘の団欒の輪の定連でありました。
 リーチがここに来るまでには長いストーリイ物語がありますが、すべては明治四十年(一九〇七)にロンドンの美術学校で高村光太郎に逢ったことから始まっています。リーチはラフカディオ・ハーンの本を読んで、幼時に育った日本を訪ねたい気持を持っていましたが、それを加速させたのは光太郎との出会いでした。私の好きな仮定法を用いるなら、もし光太郎と会わなかったらリーチは日本へ来なかったかもしれない。日本へ来なかったら、リーチと白樺派の交際は生まれようもなく、柳はブレイクを知らずに過ごしたかもしれないし、陶芸家としてのリーチは存在しなかったかもしれない。リーチの陶芸作品を見なかったら、浜田庄司は我孫子へ訪ねて来なかったかもしれない。リーチを除いた日本の近代陶芸はまったく別の展開を遂げることになったかもしれないのです。
 そのように考えると、高村光太郎もまた、嘉納治五郎と同様に、我孫子にとってまこと「大事な人」といっていいでしょう。

 リーチと光太郎は、それぞれの自伝の中で、ロンドン時代の印象的な思い出話を語っています。
リーチによると、
 「ある夕方、キングズロードにある彼のアトリエの玄関のドアをノックしたが、返事がない。今度はもっと強くノックしたら、廊下をゆっくりとやって来る足音が聞こえてきた。ドアが半分程開き、とても静かに彼は言った。『すまんね。私は瞑想しているんだ』と。確か彼は《禅》という言葉を使ったと思う。私はわびを言った。『明日説明してあげよう』と彼は答えた。次の日、初めて禅宗について、少しばかり説明を受けた。」(『東と西を超えて』)
 光太郎によると、
 「リーチが僕のところにやって来た時、たまたま僕がマンドリンをその頃習っていたので、それをいじっていた。何の気もなく、日本の民謡の『一つとや』をやったら、リーチはそのメロディをおれは知っていると言う。いや、これは日本の唄で、君が知るわけはないと言うと、リーチは香港で生れ、小さい時分に京都にも来たことがあるそうで、そのころに聞いたことが分かった。」(「青春の日」)
 二人とも最も記憶に残った出来事を挙げているはずなのに、中味が違っているのは関心のありどころが異なっているせいでしょう。自分が覚えてないことを相手は覚えていて、相手が覚えていないことを自分が覚えているのはよくある例ですが、いずれにせよこの二つのエピソード挿話からは、リーチの日本への激しい憧れが伝わってきます。
 光太郎は最初はこんなリーチをなだめる側にまわります。言葉もわからないし、生活、文化、慣習もまったくちがう、それにどうやって食べていくつもりなのか、エッチングなんかで日本で生計は立てられないよ、などなど。どうしても諦めないリーチに根負けした光太郎は、父親の光雲にリーチのことを頼む手紙を書いてやります。光雲はリーチが来ると、英語のできる人(森田亀之助)を紹介し、いろいろ斡旋につとめるのです。

 翌明治四十一年六月、光太郎はパリに移り、リーチも同年(時期不明)に美術学校を退きます。明治四十二年(一九〇九)七月、光太郎が帰国すると、早く出発したはずのリーチが三か月前の四月に来日したばかりであることを知ります。リーチはイタリアを旅してエッチングの制作に励んでいたのでした。奇妙な符合ですが、光太郎も帰国前にイタリアを旅行しています。古今東西、芸術を志す者はイタリアへ行かずにはおられなかったのでしょう。とまれ、帰国した光太郎は早速リーチを訪ねて、イタリアの印象を語り合ったり、日本で生活するノウハウを授けてやったことと思われます。
 その後も、二人の交際はゆるぎなく続きます。その濃密さを裏付けるものとして、光太郎が書いたリーチに奉げる二編の詩があります。
 『廃頽者より――バアナアド・リイチ君に呈す』では、
 「寛仁にして真摯なる友よ……君のあつき友情を思へば余は殆ど泣かむとす……友よ 君は常に燃ゆるが如き心を以て余に向へるに 余は…君の心を側(かたへ)に置きて 醜悪なる生活に身を匿せり」
と謳い、
 『よろこびを告ぐ――TO B.LEACH――』では、
 「ああ、わが友よ……無惨なる廃頽者の血は遂にかの全能の光の為に浄められた 闇と濁とに蝕はれた私の肉身は遂に醜い殻を脱いだ……君に此を語り得る私のよろこびを思ひ給へ 私のまことを知り、私のまことを信じ、私のまことを心から惜んでくれた友よ」
と呼びかけます。
 『廃頽者より』はリーチ来日から三年目(一九一二年)、『よろこびを告ぐ』は四年目(一九一三年)の作で、いずれも詩中に明記されています。年表を繰ると、光太郎が智恵子と婚約したのは大正二年(一九一三)の確か九月でしたから、『よろこびを告ぐ』の「よろこび」が「智恵子を得たよろこび」であることは明らかです。『廃頽者より』の「廃頽者」とは、従って、父光雲に対する「アンビヴァレンス愛憎未分」の感情から放蕩に走り、吉原の若太夫に入れあげていた頃の光太郎自身を指しています。
 この時期、リーチは常に光太郎の側(かたへ)にあって、熱い友情を注いでいたのでした。

 リーチが北京に赴くとき(一九一四年)、また浜田を伴って帰国するとき(一九二〇年)にも、光太郎は惜別の文章を寄せています。
 北京へ発つ時には、「リーチ君の友情を思ふと私はいつも涙を誘はれる程感謝の念に満ちます」(大正三年十二月『美術新報』)と記し、英国へ帰る時には「ああ、吾等の真実の友リーチよ。……君が居れば稀にしか会はない私も、君が居なくなったらどんなに君をミッスするか」と悲しみを顕わにしています(大正九年六月『時事新報』)。(いずれも『高村光太郎全集』第七巻収容)

 『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』には二人の交友を現わす三葉の写真が掲載されています。一は明治四十三年(一九一〇)四月二十六日付のリーチ宛光太郎の葉書、荻原守衛の突然の死を悼む文章が英文で綴られています。二は大正四年(一九一五)六月とあるリーチ送別会の写真、リーチ夫妻を囲んで光太郎のほか柳宗悦、梅原龍三郎、有島生馬の顔も見えます。前年単身で北京へ渡ったリーチが家族を連れに戻ったときのものでしょう。三は大正八年(一九一九)四月に芝公園三縁亭で行われた『白樺』十周年の会の記念写真、志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄、岸田劉生、長与善郎らに混じって光太郎とリーチが映っています。余談ながら、リーチの我孫子窯が焼失するのは、この二か月後、六月のことでありました。

 リーチが帰国したことにより、二人の交友は一旦途切れます。リーチは母国英国で陶芸家としての道をひた進み、光太郎は智恵子との生活に閉じこもりつつも詩作と彫刻にいそしみます。
 リーチは昭和九年(一九三四)四月に再来日しますが、このとき光太郎に会ったかどうかは私にはつかめておりません。リーチはこの折は翌十年の五月まで長期滞在して各地の窯で作陶していますから、この間、一度くらいは光太郎に会っていると思われます。
 とはいえ、昭和九年十年といえば光太郎にとっては五月に智恵子を九十九里浜の妹の家に転居させ、十月には父光雲を亡くし、十二月には智恵子を引き取り翌年二月には入院させるという大変な年でありました。父の死と智恵子の看病に追われて創作活動もできなかった光太郎に、リーチと会う気がなかったということも考えられないではありません。
 その後、日英両国は第二次大戦で敵国同士となり、リーチが念願の三度目の来日を果たすのは十九年後の昭和二十八年でありました。二月十六日に羽田に着いたリーチは、三日後の十九日に柳宗悦邸(日本民芸館)で旧友光太郎と再会します。
(続く)


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