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 「リーチ遂に来訪なし」(続き)

 このときの来日中の出来事を記した『バーナード・リーチ日本絵日記』によると、
 「午前中は高村(光太郎)君と彼の友人の建築家谷口(吉郎)君と一緒に過ごし、それから(柳の)家族の人たち皆でおいしい昼食をとった。高村君は彫刻家であり、詩人、批評家でもあるが、日本人としてはロンドンにおける私の最初の友人。ふたりの交友はすでに四十三年来のもので、彼は七十、私は六十六、ふたりとも白髪の老人となってしまった。……心を動かされる会合と語り合いだった。」
と、あります。ロンドン・パリ時代の思い出から始まった話は、トルストイや世界の工芸品、日本固有の眼識(天皇の墓、茶室、禅)にまで及びました。
 
 不思議なことに、光太郎日記では谷口氏と「一緒に駒場の民芸館にリーチ柳氏をたずね」たのは、二月二十一日(土)の日付になっています。もっとも『リーチ絵日記』はリーチが滞日中にほとんど毎日書き続けた日記の中からのサマリーですから、日付の信憑性は光太郎日記に軍配をあげたほうがいいでしょう。
「(中央公論社の昼食会に招待された)私たちは再び小ぎれいなレストランで顔を会わせた」とリーチがいうのは、光太郎日記によれば二十三日(月)のことで、レストラントではなく高輪の「松」という料亭で、「リーチ、柳、浜田の三氏、他に石川欣一氏松下秀麿氏あり、和、英の速記者四人、中食を共にしながらしゃべる」と出席者全員が記録されています。
『リーチ絵日記』にはこれ以降光太郎と会った記述がないので、一日の脱落もない光太郎日記を参考にすると、三月十四日(土)に上野松坂屋に出かけて展覧会準備中のリーチに会い、柳、浜田と再会したこと、翌十五日(日)の内覧会に再び出かけてリーチ、柳に会い、「作品見物」をして「明後日原稿を毎日の人がとりにくる約束」を交わしたことが記されています。

 このあとリーチは白樺派の連中と旧交を温め、精力的に柳ほか民芸の仲間と日本全国を巡って、各地で作陶の指導をしたり個展を開いたりして、翌二十九年の十一月二十六日に一年九か月にも及ぶ滞在を終えて帰国します。
 この間、光太郎日記に、リーチはもう一度登場します。それは十和田湖の裸婦像の除幕式を二週間後に控えた昭和二十八年十月三日(土)のことで、「夕方、リーチ、石川欣一氏等くる、リーチとアトリエで一寸話、明日出発して東北旅行の由、十一月以後余は又東京にいる事をつげる」と書かれています。
結局、リーチ滞在中に光太郎が会ったのはこの五回だけで、それもすべて昭和二十八年のことになります。解せないのは、翌二十九年には会った形跡が一度も見当たらないことでした。せめてリーチの帰国前には、お別れパーティとか、見送りにゆくとか、七十と六十六の老人同士が別れを惜しむ場面があってもいいはずです。
 だが、私の見出したのは、昭和二十九年十一月二十四日(水)付の光太郎日記の、
 「夜リーチ遂に来訪なし、明後日出発帰国の筈」
という言葉でありました。

 光太郎は二十九年の春先より体調を崩し、持病の肋間神経痛が痛みを増してきた上にめまいもあり、五月には東大内科で心臓肥大と診断されて、以後ストレプトマイシンの注射を二十本も受けるようになります。七月には高熱、咳つよく、呼吸困難、悪寒手足のふるえ来てクロロマイセチンを服用する一幕もあります。下痢にも悩まされ、咳と痰は日常的になり、十月には血痰も出ます。
光太郎晩年の傑作、十和田湖畔の裸婦像の除幕式が行われたのは昭和二十八年十月二十一日のことで、その原型が出来あがったのは六月でしたから、リーチと会ったときの光太郎は昂揚のただ中にありました。でも、大仕事を終えた光太郎を、待っていたかのように病魔が襲いはじめたのでした。

 光太郎日記には、毎日の気象状況が記されています。この年、昭和二十九年は寒い年だったらしく、十一月に入って以来、くもり小雨の日は「冷」、晴れの日も日中「温」なれど「夜冷」と記された日が続きます。しかし、暖房はといえば、十一月十五日に「火鉢に火を入れる」という記述があるだけ、「ストーブ初めて少したく」という記述が現れるのは、やっと十二月五日になってからです。昼間の来訪者は数々あれど、夜はほとんどひとり……天井の高いアトリエは冷え込みがきつかったことでしょうに、これほど衰えていても、花巻郊外の粗末な山小屋で零下十六度にもなる厳寒の冬を七年間も過ごした経験が、光太郎を寒さに耐えさせたのでしょうか。
 とにかく冷えきったアトリエの中で、間断なく襲う咳と痰に悩まされながらも一期一会の予感を強く抱いて、光太郎は、帰国前にリーチが訪ねてくれることを待っていたのでした。
 「夜リーチ遂に来訪なし、明後日出発帰国の筈」……「遂に」「筈」という表現の中に込められた思いには、痛切なものがあります。
 光太郎はどれほどリーチに会いたかったことでしょう、リーチならどんなことをしても必ず来てくれると信じていたに違いありません。
 だが、リーチは来なかった。光太郎を「生涯を通じて私の友人であった」(『東と西を超えて』)と言い、「ぼくはこの旧友にいくら感謝してもつくせない」(『イギリス時代の高村さん』)と称えているリーチが、来てくれなかったのです。

 『リーチ絵日記』には、十一月二十日に日本民芸館で、全国各地から集まった工人たちにお別れの会を催してもらったことが書かれています。柳主催の会とあらば、当然光太郎は招待を受けているはずなのですが、光太郎日記にも体調不良のために欠席したというような記述は見出せません。
 なぜ、リーチは「生涯の友人」を訪ねずに帰国したのでしょうか?
 因みに『リーチ絵日記』には、裸婦像の除幕式の十二日前の十月九日に十和田湖を一周したことが記されていますが、醜悪な「日本の新風景」(ホテルや遊覧船の色、パチンコ屋の騒音など)を非難しただけで、光太郎に言及した箇所はありません。この時期十和田湖を訪ねれば地元で話題の裸婦像の話を当然聞かされたでしょうし、第一リーチは出発前に幸太郎のアトリエを訪れているのです。
 リーチと光太郎の間には、なにかミゾでもできていたのでしょうか?

 リーチに逢えなかった光太郎は、それから一年四か月後の昭和三十一年(一九五六)四月に七十三歳で亡くなります。リーチは日本の友人たちの誰よりも長生きし、昭和五十四年(一九七九)に九十二歳の生涯を閉じます。その間、リーチは八回もの来日を重ね、昭和三十六年には柳宗悦の霊前に香を手向け、三十九年には老人ホームに仲省吾を、四十一年には死の床にあった河井寛次郎を、四十九年にはほとんど目が見えなくなっていたにも拘わらず、浜田庄司を病床に見舞っています。だが、あんなにまで会いたがっていた光太郎、「日本人として最初の友人」には会わないで帰国してしまった。
 リーチを好きになれないたった一つの理由があるとすれば、それはこの一事にあると頑なに考えてきた私に、天啓のごとくにひらめきが生じたのはある冬晴れの日に沼辺を散歩しているときでした。そうではない、私は逆に考えていたのでした。リーチは帰国の雑事に追われて「生涯の友人」を見舞わなかったことを、心の底から後悔していたのです。
 悔やんで悔やんで自分を責め続けた……二度とこんな思いをしたくないという気持ちが、柳の墓参や仲、河井、浜田らの見舞いにつながったのでありましょう。
 リーチは、やはり、人情に厚くやさしい人だったに違いありません。
そうであれば、リーチは必ず光太郎の墓前に詣でているはずだ、あるいは光太郎を悼んで詩を詠んでるはずだ、と私は思っています。私にはまだ発見できておりませんが、いつかどこかで、そんな証しの新資料に巡り会えるものと信じているのです。  
(完)

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