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高村光太郎の章の弐

 智恵子抄

 『智恵子抄』をよみ返していて、「レモン哀歌」を書いたときの高村光太郎の年齢が五十五歳であったことを知って、今更のように驚かされました。改めて、代表作の制作年を調べてみたら、「風にのる智恵子」は五十二歳、「千鳥と遊ぶ智恵子」は五十四歳、「山麓の二人」は五十五歳のときの作品でありました。
 高校時代、私には詩にはまっていたひとときがあります。藤村の「初恋」に胸を弾ませ、白秋の「落葉松」に孤愁を味わい、朔太郎の「旅上」に旅情をそそられ、中也の「汚れっちまった悲しみに」に絶望を感じたりしました。
 光太郎は、最初は「冬が来た」や「道程」に魅せられました。
 「きっぱりと冬が来た……きりきりともみ込むやうな冬が来た……冬よ 僕に来い、僕に来い僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」(「冬が来た」)
 「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」(「道程」)
などのフレーズには、若者を奮い立たせる響きがありました。
 青臭い恋愛論を語るようになってからは、『智恵子抄』一辺倒になってゆきます。智恵子への愛こそ至高のものであると思えたのでした。壊れゆく妻への一途な絶唱は、涙なしで朗読することはできませんでした。

 読んだときの年齢がそうさせるのか……私は、そこに謳われた愛のはげしさは、若者ならではのものと思い込んでいたのでした。そうではなく、『智恵子抄』は実は初老の夫の痛哭の歌だったのです。恥ずかしながら、私には到底こんな真似はできません。
 特定の異性への愛情は、同じ温度、同じ密度で続くものではない。愛の炎が燃え盛るのは恋人時代、夫婦になればやがて炎は治まり、おきび燠火となるのが通常の姿です。
 たとえば妻が痴呆(アルツ)になったとき、私は妻を哀れむことはあっても、愛することはできません。何も反応を示さなくなった妻を、おの己がさだめ運命として諦観的に受けとめことはできても、結婚当初のような愛を与えることはできません。

 光太郎はそうではありませんでした。彼は智恵子を恋人時代とまったく同じ濃密さをもって愛し続けたのでした。その愛は、「もはや人間であることをやめた(「風にのる智恵子」)」智恵子に対しても変ることなく、いや一層の烈しさを増して注がれます。
 智恵子は昭和十三年十月歿、「レモン哀歌」は翌十四年二月の作ですが、そののちも光太郎は智恵子を愛し続け、「亡き人に」(同年七月)、「梅酒」(十五年三月)、「荒涼たる帰宅」(十六年六月)、「松庵寺」(二十年十月)、「報告」(二十二年六月)、「噴霧的な夢」(二十三年九月)、「もしも智恵子が」(二十四年三月)、「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」(以上いずれも二十四年十月)、「智恵子と遊ぶ」(二十六年十一月)「報告」(二十七年十一月)と、十五年間にわたって切ない追憶を書き綴ります。昭和二十八年十月につくられた十和田湖の裸婦像は、智恵子の裸身そのものを永遠に残すためのものでした。

 「これほど青春の愛の視野狭窄を貫き通した精神は、やはり一種の天才だといはなければならない。三十二歳で智恵子と同棲を始めた年から、詩人は二人の生活を完全に外界から遮断し、二人だけの完璧な宇宙を築きあげた」
と、山崎正和氏はいいます(『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』巻末エッセイ「蕩児の憂鬱」)。
 「なによりもまず、彼は自分のために女を愛するのであり、自分の魂の浄化のために、自分の芸術と反俗の生活のために、自分の感情の健康な単純さのために、女を愛し続けるのである」とさえ。
 「同棲を始めた年から」ではない、それより三年前の犬吠埼の逢瀬から、二人の宇宙は始まっています。そこから十和田湖の裸婦像まで、実に四十一年間の長きにわたって、光太郎がいささかも衰えない無量無辺の愛を智恵子に注ぎ続けたのでした。

 犬吠埼は、二人にとってまさに運命的な出会いの場所でありました。
 友人柳敬助の妻八重子に紹介されて、お茶をのんだりフランス絵画の話をしたりするだけだった智恵子が、光太郎のアトリエ新築のお祝いにグロキシニヤの大鉢を持ってきてくれたことで、光太郎の関心が目覚めます。そして、光太郎が明治天皇崩御の後、犬吠へ写生旅行に出かけたとき、全く偶然なことに、別の宿に智恵子が妹と親友と一緒に来ていることを知るのです。
 光太郎自身が記した『智恵子の半生』によると、のちに智恵子は光太郎の宿へ来て滞在し、ともに散歩をしたり食事をしたり写生をするようになります。様子が変に見えたものか、心中しかねないと思った宿の女中が一人必ず二人の散歩を監視するためについて来た、という笑えぬ話があります。智恵子は後日、もし光太郎が何か無理なことでも言い出したら即座に入水して死ぬつもりだった、と語ったといいます。……「何か無理なことを言い出したら」とは何だったのでしょうか。下司の勘ぐりでは、情交を迫られたらと考えるのが妥当でしょう。写真で見るくちひげ髭を蓄えた長身の光太郎はいかにもジゴロ風のめんてい面体ですし、彼が吉原の若太夫に通い詰めて『失はれたるモナ・リザ』の詩をものしたことは智恵子も当然知っていたでしょうから。
 しかし、女中が監視についていては入水などできっこないわけで、このあたりの描写はどこか滑稽です。
 それはさておき、智恵子の滞在中、光太郎が智恵子の裸身を垣間見るシーンがあります。光太郎が入浴しているとき、「隣の風呂場にいる彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた」というのです。
 注目すべきは、光太郎が瞬時に彫刻家の眼になって、「彼女は実によく均整がとれていた」と記したことでしょう。それから四十年経って光太郎が刻みはじめるのは、このときの智恵子の裸身に相違ありません。躰の関係ができてからは当然智恵子の裸身を見たことでしょうが、汚れなき処女(おとめ)の、見られることを意識していない裸身の美しさこそ、真の美であり得たはずだからです。

 光太郎はひとことも言いませんでしたが、十和田湖の裸婦像が智恵子の裸形を写したものであることについては、光太郎の没後直後に書かれた谷口吉郎氏の証言があります。(「十和田記念像由来」昭和三十一年五月『文芸』、のち改稿して三十四年四月草野心平編『高村光太郎と智恵子』筑摩書房に所載)
 「裸婦でもいいだろうか」とたずねられたのち、
 「東京のアトリエのことなどを相談しているうちに、(智恵子を作ろう)と、ひとりごとのように高村さんはいわれた。それはこんどの彫刻に対する作者自身の作意を洩らされたものであったが、高村さんはその言葉のあとで、そんな個人的な作意を十和田のモニュマンに含ませることは、計画者の青森県にすまないような気がすると、そんな意味の言葉を申し添えられたのである」
と、谷口氏は言い、続けて、
 「高村光太郎の詩『人体飢餓』や『裸形』を愛誦する人には、高村さんがモニュメントのために作ろうとしている彫刻は裸婦となり、それが智恵子像となることは、説明も要しないことであろう。それがこの詩人の『道程』であり、この彫刻家の『典型』であるのだといってもよかろう。
しかし、作者自身にとっては、個人的感情から、そのような作品を作ることを、他人にはばかりたいのだろう。そんな気持が、高村さんの表情から私に察しられた。そのために、私はその日、高村さんの上京の決意を青森県の人に告げる時にも、またその後も《智恵子像》のことだけは発表をひかえていた」
と、述べているのです。

 谷口氏の指摘に従って光太郎詩集をひもといてみると、『人体飢餓』には女体を造型したいという生々しい願望が、『裸形』にはもっと直截的に「智恵子の裸形をこの世にのこして わたくしはやがて天然の素中に帰らう」という一節があります。両作とも岩手県の山中で詠まれたもので、智恵子の裸形制作は光太郎晩年の悲願であったことがわかるのです。
 死の床にある光太郎を九日間見舞い続けた盟友草野心平氏もまた、
 「十和田湖畔に建ったモニュマンの顔は智恵子さんそっくりといっていい。智恵子さんとはまるっきり別なモデルを使って出来上がったものだが、顔は智恵子さんである」
と、明言しています(追悼文『悲しみは光と化す』)。

 余談ながら、当時の厚生省は、国立公園内に人工物、まして裸婦像を建てるなど怪しからぬと反対し、文部省の文化財保護委員会が賛成してくれてようやく許可がおりたという逸話が残っています。
 光太郎が当初望んだ建設地は、奥入瀬渓流の落ち口に当たる自然豊かな「子(ね)ノ口」でしたが、これも厚生省の反対で今の「休屋(やすみや)」に変えられたといいます。休屋は旅館、土産物売店、パチンコ屋などが密集した場所で、ここでは太陽の光線、自然環境などを計算した芸術的効果が著しくそがれるために、一時は中止説も出たようです。前編で触れた、『リーチ絵日記』が光太郎の裸婦像に言及せず、醜悪な日本の新風景にのみ嫌悪の情を書き連ねたのは、このような事情を背景としたものでした。
 中央官庁の争いの中で苦境に陥った青森県知事は太宰治の長兄である津島文治氏で、光太郎が「青森県にすまないような気がする」と言った言葉の裏には、こんな経緯が秘められていたのです。

 この初冬、私は犬吠埼に遊んで、光太郎の泊った暁鶏館を訪ねました。かつては灯台守の定宿であった老舗旅館は、すっかり近代リゾートホテルに生まれ変わって、昔の面影は求めようもありません。でも、ここから仰ぐ灯台や打ち寄せる波しぶきは、光太郎と智恵子が見た光景とほぼ同じものでありましょう。
 私は十和田の裸婦像も、光太郎が隠遁した花巻郊外の山小屋も、智恵子が療養した九十九里の家も、知っています。
 犬吠埼から十和田湖までの光太郎の長い「道程」を思って、私はいつになく感傷的になったことでした。(完)

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「高村光太郎」を拝読いたしました。私も光太郎の大ファンで無人島に本を一冊持っていけるとしたらまよわず光太郎の詩集にするつもりです。本の中に濃縮された感性と人生。日々の世の中の騒々しさから原点にリセットさせてくれるひと時でした。 削除

2007/11/26(月) 午後 11:46 [ そらまめ ] 返信する

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