葭の塾

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有島武郎の章の壱

 「たけおさん」

 有島武郎(たけお)・有島生馬(いくま)(壬生馬)・里見(とん)のいわゆる有島武郎三兄弟は、いずれも『白樺』の主要な同人でありました。『白樺』は学習院内の三つの回覧雑誌(『望野』『麦』『桃園』)が合同したものですが、武郎と生馬は『麦』に関わっていた里見に誘われて同人になったといわれます。中でも武郎はもっとも熱心で、明治四十三年四月発行の『白樺』創刊号に、武者小路実篤の『「それから」について』や志賀直哉の『網走まで』の歴史的作品と並んで『西方古傳』という作品を発表しているほか、同年だけでも五篇もの作品を立て続けに『白樺』に寄稿しています。代表作『或る女』の原型となった『或る女のグリンプス』の連載が始まるのは翌明治四十四年の一月号からですから、武郎の創作活動はまさしく『白樺』という媒体を得て開花したといっていいでしょう。

 その武郎が、志賀直哉の結婚騒動に力を貸したことはよく知られています。志賀が女中千代に手をつけて、結婚したいと駄々をこねて父親の激しい反対に会い、それが父親との確執を生む一因でもあったことは有名な話ですが、そのとき志賀の父親の説得役を買って出たのが武郎だったのです。この間の事情は、当事者である志賀の『過去』(雑誌「女性」大正十五年十月号に発表)という短編に次のように記されています。
 「自家(うち)の者は私を痴情に狂った猪武者のように云った。そして或日、千代は千代を私の家(うち)に世話した者から瞞(だま)され、利根川べりの家へ連れ帰られると、私は極度に腹を立てた。……
 重見は夏で三浦半島の海岸に行っていたが、私の最初の手紙――『君だからこう云う我儘を云う。どうか直ぐ帰って貰いたい』――を見て…帰ってくれた。……
 私の味方としては、其頃麻布三聊隊に一年志願兵として入営していた(別の)Tさんがあった。Tさんは後年他(ひと)の女と自殺した人であるが、当時は英国でクロポトキンなどと会い、そういう思想に傾き、考としては割に徹底的な方だったが、実際に他(ほか)に好きな人があり結婚したいと思いつつ父の不賛成から、父の選んで呉れた人と結婚しようとして居た。親孝行な性質からモノメニアックな父の心を撹乱するのは忍びないらしかった。
 私からすれば年も五つ程上で、私程には考えられないのかも知れないが、それが当時では異様に思われた。
 然しTさんは私に同情し、私の為、父と会い、色々話して呉れたが、結局それは無効だった。
 その他(ほか)、重見の叔父のKさん――私は此時から七八年後Kさんの娘と結婚したのだが、此Kさんも私の為父と会って呉れた。勿論それも無効だったが。」
 文中、重見は武者小路実篤、Tさんは武郎、Kさんは武者の叔父で隠棲して三浦半島で百姓をやっていた勘解由小路資承(かでのこうじすけこと)のことで、その娘康子(さだこ)と志賀は結婚したのでした。

 『白樺』最終号(大正十二年八月号)の巻頭に「武郎さんの死を悼む」という追悼文を掲げた柳宗悦は、同号巻末の「六号雑記」の中で、同人の中では一番の年長者であった武郎を皆は「たけおさん」と呼んでいた、と書いています。志賀の「Tさん」とは呼び名通りのイニシャルで、滅多に人に感謝の意を表さない志賀が「私の味方」などと書いているところを見ると、武郎にはよほど世話をかけた思いがあるのかもしれません。
 余談ながら、「六号雑記」には「(武郎さんとは)我孫子に引っ越してから逢う機会は少なくなったが、二度ばかり来てくれた」という記述があります。三樹荘の庭先に立って武郎が手賀沼を見下ろしている光景を想像すると、我孫子の住民としては武郎に対する親近感がそぞろ深まるのをおぼえます。

 ところで当時の武郎の軌跡を別の評伝(『有島武郎 人と作品』福田清人・高原二郎共著、『有島武郎』新潮日本文学アルバム)で辿ると、志賀の文章とは齟齬が見られます。
 先ずは「其頃麻布三聊隊に一年志願兵として入営していたTさん」というのは志賀の記憶違いで、武郎が麻布三聊隊に一年志願兵として入営したのは札幌農学校を卒業した直後、二十三歳のときのことで、志賀とはまだ知り合っていません。「其頃」というなら、明治四十年九月から三か月間予備見習士官として再び軍務に服した二十九歳のときが正しいというのです。
 「実際に他(ほか)に好きな人があり結婚したいと思いつつ父の不賛成から、父の選んで呉れた人と結婚しようとして居た」という件(くだり)も、前段は事実としても後段「父の選んで呉れた人と結婚しようとして居た」のではないようです。

 「好きな人」とは新渡戸稲造の姪、河野信子でありました。武郎は札幌農学校入学に当たって、当時母方の親戚にあたる新渡戸が同校の教授をしていた縁で、新渡戸の家に下宿します。(そのとき新渡戸から好きな学科を訊かれ、正直に文学と歴史と答えて、「それではこの学校は見当違いだ」と大笑いされたエピソードが残っています。)武郎が最初の兵役を終え米国留学の準備をしていた頃(明治三十六年)、新渡戸の姉の河野象子が病気で麹町の病院に入っていて、武郎は見舞いに行くうちに娘の信子を見初めるのです。信子も武郎を慕い、留学中も手紙を送り続けます。

 志賀の結婚騒動と同時期(明治四十年)に起きた武郎の縁談は、父が持ってきた見合い話でしたが、武郎は見ず知らずの女性と結婚するよりは信子を妻にしたいと父に申し出ます。しかし父は「身分がちがう」といって反対したといいます。(余談ながら、武郎の父・武は薩摩藩島津家の陪臣にあたる下級武士の出身で、維新後は大蔵省に入って国債局長に栄進したのち実業界に転じた人です。一方、新渡戸(稲造・象子)の父・常訓は盛岡藩の勘定奉行でしたから、「身分がちがう」というのは新渡戸家のほうが格式が高かったことになります。)

 それはさておき、このときは、武郎のほうでも父の薦める人をなんとか断ることに成功し、見合い話はそれで流れます。傷心の信子は別の人と婚約し、それを聞いた武郎もまた東京を離れる決心を固め、東北帝国大学農科大学と改称された母校に英語講師として札幌に旅立ちます。
 明治四十一年、三十歳を過ぎた武郎に今度は父の昔の同僚から再び結婚話が持ちこまれます。相手は陸軍中将神尾光臣の次女安子で十一歳年下、つきあってみて納得できたらという武郎好みの条件でした。九月一日激しい雨の日に日比谷の松本楼で見合いをし、その後数日を神尾親娘と塩原で過ごして安子の清純さに惹かれた武郎は、十一日に結納をとりかわしました。

 以上が評伝に述べられた事実であり、これが正しいとすれば、志賀の言うように、武郎は「父の選んで呉れた人と結婚しようとして居た」のではなく、父の同僚から紹介された人を自らの目で選んで妻にしたことになります。もっとも父の同僚は武郎に話す前に、当然、父の諒解をとっていたことでしょうから、その意味では、時期は異なるにせよ、結果的に武郎は父のお眼鏡に適った人と結婚したのでした。

 武郎の行動は、結婚に関しては終始父の反対に抗って自らの意思を貫き通した志賀とは、好対照を示しています。志賀は「Kさんの娘」すなわち武者の姪にあたる康子と結婚するときも、父の反対に遭っています。大正三年の暮に麹町の武者小路家で行われた結婚式は、神主も牧師も呼ばず、媒酌人も立てず、当人たちの他には実篤夫婦と勘解由小路の両親だけで、志賀家の者は誰も列席しませんでした。

 『白樺』の仲間が皆食うに困らぬ学習院のお坊ちゃん揃いで、「白樺」を逆に読んで「バカラシ」と揶揄されたのは周知の話です。本多秋五氏などは、志賀の分身である『暗夜行路』の主人公時任謙作とその友人たちを「暖衣飽食して、決った職業を持たない高等遊民である」と切って捨てています(『志賀直哉』岩波新書)。

 武郎も志賀も、ともに産を成した実業家である父親を持ったおかげで、生活の苦しみはつゆ味わわないですみました。しかし、二人の間にはきわだった違いがみられます。
 武郎は留学の費用は父に仰ぎましたが、帰国して札幌で八年間にわたり大学講師の職に就き、生活の糧(かて)は自力で賄います。遠友夜学校で貧困家庭に接してのちクロポトキンに会って社会主義に目覚めた武郎は、のちに第四階級になれない自分に絶望して『宣言一つ』を発表します。『カインの末裔』にしろ、『生まれ出づる悩み』にしろ、武郎作品にはすざまじい労働描写があり、「持たざるもの」への同情が伝わってきます。
 自ら汗したのではなく、父が残してくれた資産によって「持てるもの」となった武郎は、そんな後ろめたさを終始感じ続けていたのでありましょう。父が拓いたニセコの大農場を小作人に開放したのも、「持てるもの」の重圧から逃れるための行動と解釈できないでもありません。

 一方、志賀はといえば、不和が深まる中で父親の脛を齧り続けます。家を出て尾道、四国、城崎、伯耆大山、京都と志賀の放浪時代の費用はすべて父から出ているのです。その間出版した処女短編集『留女』の費用も父に無心しています(阿川弘之『志賀直哉』)。その後康子と結婚する際には、志賀家からの廃嫡を父に迫り、自ら除籍して一家を構えるのですが、その際「衣食に困らないだけの金を」ぬけぬけと受け取っているのです(『くもり日』)。

 我孫子に住んで二年目の夏にようやく父と仲直りを果たした志賀は、「喜びと亢奮」で、遅筆の志賀にしては「毎日十枚平均」十五日間(『続創作余談』)というスピードで『和解』を書き上げます。本多秋五氏は、『和解』が発表された当時の文芸時評に、近松秋江が「さてさて贅沢なる不和であり和解であると思った」「今『和解』の筆者は、父君と常に不和の状態を持続しながら、吾々から見て、先ず思うに任す何の不自由もなき生活の資本は『麻布の家』から貢がれていることを洞察するとき、『何の事だい、わらわせやがる! 不和が聞いて呆れらあ、和解は初鼻(しょっぱな)から出来ている。』という心にならしめる。」(「読売新聞」大正六年十月二五日)と書いたことを紹介して、「まさにあって然るべき批評であった」と評価しています(前出『志賀直哉』下)。
 志賀は、武郎が感じたうしろめたさなど微塵も感じることなしに、高等遊民たる境遇を満喫していたのでした。(続く)


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