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有島武郎の章の弐

 「おぞましき火に身はや焼くべき」


 「世の常の我が恋ならばかくばかりおぞましき火に身はや焼くべき」
 これは有島武郎の辞世の歌、自宅の書斎に残されていた歌稿のはじめの一首といわれます。武郎の情死屍体が発見されたのは大正十二年の七月七日、関東大震災直前の最大の社会事件として満天下の耳目を驚かせました。知性派の美男人気作家と美人雑誌記者との道行きは、それだけでも話題にこと欠かなかったことでしょう。

 『曽根崎心中』を初めとして、近松門左衛門が好んで作品の主題に採り上げて以来、道ならぬ恋の果てに共に死を選ぶ男女は、どこか庶民の憧れになった感があります。有名な天城山心中があったのは私の大学入学の年(昭和三十二年)でしたが、愛新覚羅慧生さんのような高貴な女性が一緒に死んでくれるなんて、同い年でありながら大久保武道という学習院大生は何という幸せ者かと思った記憶があります。

 因みに「心中」とは本来「相愛の男女がいっしょに自殺すること」を言いますが、のちに転じて、「親子心中」のように「二人以上のものがともに死を遂げること」も含めるようになったため、本来の意味での「心中」は「情死」と呼ばれて区別されるようになったようです(『広辞苑』)。余分なことではありますが、ヨーロッパ諸国にはこのように一語で現わす単語は存在せず、「愛し合うもの同士の二重自殺」とか「合意による自殺」とかの表現がとられ、「このこと一つとってみても、日本人が西洋人よりもこの悲劇的現象を知悉しており、また、はるかに平静に対処していることは明らかだろう」などという評価もなされています(ロシア人文芸評論家・グリゴーリイ・チハルチシヴィリ『自殺の文学史』)。

 実(げ)に、不確かで移ろい行く愛を永遠につなぎとめるためには情死が最良の手段でありましょう。武郎も弟妹宛の遺書の中で「私達は最も歓喜して死を迎えるのです」と記しています。一緒に死んでくれるものがいれば死は決してこわくない、それが愛するものであれば死はよろこびにすらなるのです。
 しかし、死亡の現場は美しいものではありません。発見が遅れれば死体は腐爛します。武郎と波多野秋子の遺体は死亡して一か月近くも発見されず、梅雨時の軽井沢とあって人相も分らぬほど腐爛しきって、天井からぶら下がった二本の縊死体の上を、蛆の滝が流れているようだったといわれます。

 一九九五年から翌九六年にかけて日経新聞に連載され、その濃密な性愛描写で話題を呼んだ渡辺淳一氏の『失楽園』は、この武郎情死事件と昭和十一年に起こった阿部定事件とを下敷きにしたものです。主人公の凛子は、愛する相手を殺すことによって独り占めしようとした阿部定の心情に強く惹かれて、妻子ある久木との情死を思うようになり、軽井沢の逢瀬の折に二人で武郎終焉の地を訪ねます。凛子は「いくら二人で一緒でも、首を吊るなんていやだわ」とつぶやき、「でも、どうして二人は死んだのかなあ」「別に死ななければならない理由は、なかったのでしょう」と久木に尋ねます。久木は武郎の遺書を引用して、二人は幸せの頂点にいたのでそれをいつまでも続けたいと思ったのかもしれない、と答えます。「そういうときは…死ぬしかないのね」と凛子は闇に向かって一人うなずくのです。

 その夜、久木の会社の別荘ではげしく媾合(まぐあ)った二人は、「こうして、しっかり抱き合ったままなら死ねるかもしれない」と気づき、それから久木はそのための手段に没頭し、友人から盗んだ青酸カリを葡萄酒に溶かせて性交の間に服用することによって思いを遂げます。
 同じ情死するのなら交わったまま死なせてやりたい、というのはまことに渡辺氏らしい発想で、私ならずともこれは男の夢といってもいいでしょう。考えてみれば、古今東西、こういう形の情死を試みたものがいないというのも不思議な話です。

 ところで、美しいうちに死にたいと願った凛子が一番怖れたのは、武郎のように蛆がわくまで発見されないでいることでした。それゆえ凛子は、一刻も早く発見してほしいと思い、翌日に別荘番に薪を届けてもらうように頼みます。これは武郎たちの遺体の第一発見者がやはり別荘の管理人であったことからの発想でしょう。
 この条(くだり)を読んだとき、穿鑿好きな私の頭の中に大いなる疑問が頭をもたげました。
 武郎はなぜ凛子と同じように早く発見されることを望まなかったのか? それどころか、あのダンディな武郎が、死の直前に親友足助素一に宛てた遺書には、「恐らく私たちの死骸は腐爛して発見されるだろう」と書き残しているのです。

 軽井沢というところは、夏は霧が名物で湿度が高く、ほんとうは避暑地などには向いてない土地柄だという人がいます。特に、標高の低い、いわゆる旧軽井沢と称せられる高級別荘地帯では、一週間も家を空けるとたちまち畳の上にまでカビが生えてくる、という話をかつて地元のタクシー運転手から聞かされたことがあります。それゆえ毎日空気の入れ替えを司る別荘番が必要で、戸別に雇う余裕のない家は管理人が随時巡回して換気をしてもらわなければなりません。武郎が情死の場所に選んだ「淨月庵」は自分の別荘で、武郎ほどの資産家であれば当然別荘番は置いていたはずでした。

 巌谷大四の『物語大正文壇史』には、「二人は別荘番の老爺にも告げず、…中に入った。……一ヵ月たった七月七日の朝、別荘番の老爺が、そろそろ主人が避暑に来る日が近くなったと思い、別荘の掃除にやって来た。見ると裏の入口に男と女の下駄がぬぎ捨ててあった。「おや?」と思い、そっと階下の応接間をのぞいて見て仰天した。」と記されています。
 まるで見てきたような書きっぷりですが、巌谷は著名な編集者かつ文芸評論家で、彼の著した多数の回想記、交遊録、作家論は貴重な証言と評価されていますから、おそらくは確かな伝聞に基いて書かれたことでしょう。巌谷によれば、たしかに別荘番はいたわけで、この老爺が梅雨のさ中の別荘を一か月近くも換気をしに来なかったとすれば、全くの怠慢といわざるを得ません。

 老爺の怠慢ぶりまで計算に入れて、武郎は「恐らく腐爛して発見されるだろう(すなわち、当分は発見されないだろう)」という遺書の言葉を残したというのでしょうか?
 管理人ばかりではない、追手に見つかる可能性も大きかったはずです。足助の証言(『淋しい事実』)によると、武郎は着物姿で小風呂敷一つを持った軽装で家を出たといいますから、そのまま秋子と共に行方知れずになった武郎を本気で捜す気であれば、関係者は真っ先に別荘に眼をつけてしかるべきでしょう。
 七年前の夏に妻安子が亡くなったとき、武郎は「淨月庵」に避暑にやっていた三人の息子たちに妻の死を告げに行ったという記述がありますから(佐渡谷重信『評伝 有島武郎』)、武郎がこの別荘を何度も利用していたのは兄弟、友人たちにとっては周知のことだったはずでした。
 秋子の夫・波多野春房にしてみても、二人に情死などされると、コキュの汚名はついてまわるし恐喝していた一万円は取れないしで踏んだり蹴ったりになってしまいます。秋子を夜通し責め立てて催眠術までかけて白状させた春房は、かねて秋子の言動に疑いを抱いて部下に見張らせていたともいわれます(前出『評伝 有島武郎』)。俺は商人だと自称する春房がその気になれば、易々と「淨月庵」が浮かんだはずでした。

 しかし現実は、関係者は誰も別荘を捜してみようなどとは思わなかった。武郎はこのことも織り込み済みだったとでもいうのでしょうか? とまれその結果は、管理人も立ち寄らず関係者にも見つからぬまま、武郎の予言どおりに、二人の死骸は腐爛して発見されたのでした。(続く)

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