葭の塾

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 「おぞましき火に身はや焼くべき」(続き)

 秋子の夫はさておくとして、兄弟、友人たちの態度は、ひと言でいえば、《二人とも大人(おとな)なんだし死ぬ気でいるなら死なせてやろう》というものであったようです。武郎の末弟の里見に、『安城家の兄弟』という自伝的小説があり、さしずめこの中でが事件について記した顛末が参考になります。
 武郎の失踪を聞いた(文中では昌造)と足助(文中では加茂)の間に交わされる会話は、互いに女と一緒に行ったことを確信し「死ぬ気なんだろう」と推測しながらも、「どっか出かけて行った先の心当たりはないんですか」と問うに、「さしずめ僕の思い当たるのは、そんなとこ(武郎がかつて気に入っていた伊豆の土肥か名古屋の犬山城あたり)だろうなァ」と足助が答えるという能天気ぶりです。

 足助(あすけ)素一は遠友夜学校以来の武郎の親友で、のちに叢文閣を創立、武郎の個人雑誌ともいうべき「泉」を刊行して武郎の著作を一手に掲載するという間柄にありました。それゆえ波多野秋子との恋愛事件については最初から相談相手になっており、死の直前の二日間の武郎とのやりとりを克明に記したものが前掲の『淋しい事実』という一文です。
 それほどの足助が里見の筆にかかるとその程度の反応で、のほうも次兄の生馬(文中では壬之助)と探偵社を雇ったらどうかなどと頓狂な相談を交わしています。「金はどのくらい持ってたろうかしら」という生馬の鋭い指摘で通帳を調べたら、四日前に五百円が引き出されたことが判明し、この程度の金額なら「あんまり遠ッ走りはしてまいよ」という結論に達したというのに、軽井沢の別荘が思いつかないとはどういうことなのでしょう。

 そのあとは、「みんな手分けをして探しに出かけて、どっかで誰かが見つけたとしても、肝腎の当人が、どうしても帰らないって頑張ったら、一体どういうことになるんだい」と言い、足助が(さも我が意を得たように)「それァそうだ! 実際それァそうだ! 当人がいやだってものを、無理にはたからどうするわけにもいきゃァしないからなァ」と賛同を示します。生馬が秋子(文中では敏子)の親友で事情を熟知している石本男爵夫人(のちに加藤勘十と結婚し加藤静枝となった、文中では岩佐男爵夫人)に「どうかやたら捜索などしないで、安(やすら)かに二人を死なしてあげてください」と言われる場面もあります。
 結局、武郎と秋子に最も近い者たちは一様に、二人の意思にまかせるという判断を下したのでした。武郎の遺書の言葉は、この《あたたかい》配慮までをも読み切っていたことになるのでしょうか?

 余談ながら、この『安城家の兄弟』という作品は読んでいて腹立たしくなる愚作でありました。にとって文学の先輩でもある長兄武郎の情死は人生上の最大の事件であるはずにもかかわらず、兄に寄せる心情的描写ひとつとてなく、「今度の事件で曝露された文吉(武郎)の甘さ、錬(きたえ)の足りなさは、ひとり彼のみのものではなく、日比(ひごろ)親しくしていた友達仲間にもまた共通のものと知られ、昌造()は腹の底からうんざりさせられて了(しま)った」という表現のひどさは眼を疑います。『…兄弟』などという題はまったくの羊頭狗肉で、延々と綴られるのは昌造と芸者・瑛龍(えいたつ)との埒もない浮気話ばかり、読み手のほうこそ「うんざりさせられてしまう」代物なのです。

 死の直前の武郎の行動についても、時系列で追ってみると、解せないことがあります。
 武郎が家を出たのは前日の午後三時ごろのことで(『淋しい事実』)、秋子と落ち合って軽井沢に向かう汽車の中で、早々と母と三人の息子宛と弟妹宛の二通の遺書を認(したた)めます。このうち、弟妹宛の遺書には「六月八日夜汽車中にて」と記されていますから、これを書いたときは夜になっていたのでしょう。佐藤清彦氏によれば(『にっぽん心中考』)、武郎たちは上野発午後七時の急行列車に乗り、軽井沢に着いたのは十一時四十五分といいます。

 「軽井沢は雨が降っていた。有島はこうもり傘を持っていた。人力車夫が寄ってきたが、有島は傘で顔を隠し相手にしなかった。あとで、自分の行き先がすぐわかってしまうのを警戒したのである。勤め先から直行した秋子は傘を持っていなかった。駅の売店で九十銭の番傘を買い、一円札を出して『お釣りはいりません』と置き、二人は傘を並べて駅舎を出た。淨月庵まで三キロほどである。懐中電灯を頼りに雨の夜道を歩くのであるから、着いたのは、午前一時に近かっただろう。裏口の錠を壊して一階の応接室に落ち着く。濡れそぼっているはずである。」
と、佐藤氏はいかにも新聞記者らしいタッチで、状景を活写しています。

 午前一時という時刻は、武郎の遺書にも記されています。先に引用した足助宛の遺書の「恐らく私たちの死骸は腐爛して発見されるだろう」という言葉の前段は、「山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている。森厳だとか悲壮だとかいえばいえる光景だが、実際私達は戯れつつある二人の幼児に等しい。」と、あるのです。

 「最後のいとなみをしている」という表現は現在形ですが、いくら武郎でも「いとなみ」の最中に遺書を書くことはできないはずで、佐藤氏の記述が正しいとすれば、午前一時近くに別荘に入った彼らは、濡れそぼった体を拭く間も惜しんで直ちに「いとなみ」を始め、そのあとでこの遺書を認めたのでしょう。 それが午前一時のことで、武郎は続けて二通の遺書を書きます。一つはもう一人の(学生時代からの)親友・森本厚吉に宛てたもので、森本が創立者である東京文化学園には今もその遺書が所蔵されており、そこには「大正十二年六月九日午前二時」という日付時刻が記されています。

 もう一通は秋子の夫・春房宛のもので、これには日時の記録はありませんが、秋子もまた夫宛に一片の詫びの遺書を残しており、こちらには「六月九日午前一時半」という記録があります。秋子には別にもう一通、石本静枝宛の遺書があり、これは夫宛のものに較べてはるかに長文です。時刻は記されていませんが、夫宛のものよりは時間的にはあとだったようで、「書きたいことがたくさんありますけれど、もう時間がありません」という語句から察するに死の直前に書かれたとみるのが妥当です。書き終わったのは、おそらく三時に近かったことでしょう。

 当時の法医学の水準では腐爛屍体の死亡時刻を推定するのは困難だったでしょうが、おそらく自殺者の心理からみて、夜が明けぬうちに決行したことは間違いないでしょう。二人で同時に相果てるためには、首を吊るための梁やら踏み台やら紐やらを選ぶ時間も必要だったはずです。いったい二人は交接のあとの気だるくも満ち足りた、しかも人生の最後の濃密な時間を、しみじみと語り合うことなどせずに、せっせと遺書ばかり書いていたとでもいうのでしょうか。情死直前の二人の行動としては、まことに不思議な光景と言わざるを得ません。

 武郎の情死事件について、多くの研究者たちは、なぜ武郎は死なねばならなかったのか、という疑問ばかりを追及してきたように、私には思えます。この根源的な疑問は、所詮、解けるものではありません。
 芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成から江藤淳に至るまで、文学者の自死・情死は珍しくもない現象ですが、それぞれ当事者でなければわからない必然的な理由に基いています。自殺しようと思うものは、死んだほうがいいという理由ばかりを考えているのに反して、自殺しようなど思ったことのない人は、生きているほうがいいという理由ばかりを並べてみせるのですから、両者の間には高くて越えることのできない《 バカの壁 》が聳えています。自殺者の心理は生存者にわかるはずはないのです。

 武郎と秋子は情死するべくして情死した……私は、それでいいと思っています。
 さはあれど、武郎ともあろう人が、なぜこんな死に方を選んだのか、が私には納得できないでいるのです。しかし、それも武郎でなければわからないことで、あれこれ穿鑿せずにそっとしておいてあげるのが供養というものかもしれません。(完)

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こんばんは、みどりと申します。最近有島武郎の心中事件に興味を持ち、いろいろ検索していたところ、こちらにたどり着きました。
武郎の死の直前の行動が時系列でしるされていましたが、確かにある程度の時間をかけないと、あのような遺書は残せないでしょう。ましてや秋子の石本静枝あての遺書はかなりの長文ですから1〜2時間はかかると思います。そうすると、心中直前の二人は通常のケースと違って、二人で人生最後の時間を共有するのでなく、せっせと遺書を書きつづけていたのだと思われます。秋子は会社の同僚にも、以前から死にたいといい続けていたようですし、武郎の方は親友の足助に、秋子と長く同棲を続けていたらきっと倦怠を感じる、とまで言っていました。秋子のことが本当に愛していたのなら、このようなことを口にしないのではないでしょうか。私は、この二人の心中は普通の情死ではなかったのではないか、と思います。

2010/7/30(金) 午後 9:21 [ 麻衣 ] 返信する

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