葭の塾

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棟方志功の章の壱

 「わだばゴッホになる」

 もし柳宗悦が価値を認めなかったら、棟方志功は世に出なかったかもしれない。その意味では、棟方志功もまた我孫子ゆかりの人物に数えていいでしょう。
 志功と柳との出会いは、まるで小説や映画の一シーンのようなドラマチックなものでありました。この有名な件(くだり)は、先に(柳宗悦の章の四)で紹介しましたが、志功という人ほど奔放で稚気愛すべきエピソードの多い人もいないでしょう。

 中でも、私がピカイチと思うのは、倉敷の大原邸における二つのエピソードです。
 一つは、襖絵を上下さかさまに描いてしまった話――これは日経に連載された「私の履歴書」(のち『わだばゴッホになる』題で上梓)の中で、志功本人によって次のように語られています。
志功が大原孫三郎・總一郎父子と初めて会ったのは昭和十三年、河井寛次郎に同道して大原邸を訪ねた日はちょうど總一郎が第一回の外遊から帰った記念園遊会の前日でした。茶会の席に招かれ、国宝級のお道具で茶を振舞われた志功はいたく感激し、「突然だけど、明日の客たちに見せたいので、襖絵を描いてくれませんか」という依頼に喜々として応じます。早速大広間に白無地の布の大襖六枚が敷きつめられ、志功はどっぷりと墨を含んだ大筆で飛び跳ねながら「五智如来図」(宇宙に飛来する五人の如来図)を描き、その空間に「萬里水雲長、慈航又何処」という字を入れました。
 ところが、即興にしては菩薩たちは無妙に、文字もマアマアの程に仕上がって、得意顔の志功に、横で見ていた大原美術館長の武内氏が、蒼白な顔をして低い声で、「棟方さん、これ逆さまですね」と囁いた……つまり襖の上下を逆さまに描いてしまったというわけです。これは大変、えらいことになったと志功は後悔したがあとの祭、しかしそのとき總一郎は少しもあわてず、岡山からすべての経師屋を呼び寄せて、扇風機を何台も持ち出して並べ、その夜の中に張り替えて乾かしてしまったというのです。

 もう一つは、フルチンで六曲屏風を描き上げた話――柳が「棟方と私」の中で記します。
 同じく大原孫三郎に六曲の屏風に絵を描くことを依頼されたときのこと、頃はちょうど夏だったので、志功は真っ裸になって一気に描きたくなった。ところが世話役の武内夫人(大原美術館長夫人)がおられるため、それができない。むずむずしていた志功は、堪りかねてトイレに立ちました。戻ってみると、ありがたいことに奥さんも母屋の方に一寸行かれた様子。志功はこの時とばかり、下帯も脱ぎ捨てて、ものの十分もかからぬ間に一気に描きあげたといいます。やがて奥さんは戻って来られ、もう出来上がってしまった屏風を見てあっと驚き、「まあ」と一語洩らされた。
「私はこの話を棟方から直下(じか)に聞いて、端正で謹直な奥さんと、自然人の棟方との対比も面白く、その時の光景が眼前に浮かぶ様でした。之は棟方が大作をも如何にためらわず、手早く描き上げるかの一つの挿話です」
と、柳は書いています。

 余談ながらこの一件で大原一家と近づきになった志功は特に總一郎に気に入られ、音楽好きの總一郎にべートーベンのレコードを聞かされます。
 志功本人の言葉(前書)によれば、
 「ある時、『画伯は、(と總一郎氏はわたくしをこう呼びつけていました)作曲家は誰が好きですか』と聞かれました。わたくしは何が何やら判らぬまま『ベートーベン』と答えていました。『じゃ、シンフォニーを、一から九まで全部聞きましょう』――そう言って自室で手ずからコーヒーを淹れ、一晩中かかってレコードを聞かせてくれました。
 仕舞いには、頭がゴチャゴチャになって、何がどうだか、さっぱり判らぬことになりましたが、ベートーベンの、あの畳みかけるようなザッザッザッというリズムは、わたくしの欲する版画の切り込みに通ずるものだと感慟しました。……
 昭和十四年、手元に丁度六枚の板がありまして、曲がったり端が欠けているような板でしたが、わたくしはこの表裏に釈迦十大弟子を彫ろうと決めました。しかし、十人の名前はおろか、それぞれがどういう徳律を持ち、どんな宗教上の在り方の人々なのか、ただザッザッザッと彫り進めました。わたくしのベートーベンでした。」

 なるほどそう聞けば、部厚い眼鏡が触れんばかりに板に顔を寄せて無心に彫りすすむお馴染みの映像のバックミュージック背景音楽は、ザッザッザッというリズムのベートーベンでなければならぬような気がしてきます。この言葉通り、ベートーベンに魅入られた志功は、第五交響曲を題材とした「運命頌(のちに美尼羅牟(ビニロン)頌」と改題)」、第九を題材とした「歓喜頌」、「ベートーベン椅子の柵」などの作品をものにしているのです。

 これより数年あと、長部日出雄氏の『鬼が来た』の中には、わが若き日の経験に照らして、まこと共感を誘うエピソードがあります。のちにグラフィックデザイナーとして名を成す亀倉雄策に女の裸の写真をねだるという話です。
 志功は「おれ、いま女で裸の観世音菩薩を彫りたいんだが、まだ女の裸を見だごとねえんで困ってるんだ」と亀倉に打ち明けます。「お前、絵描きのくせに、女の裸を見たことないのか」と呆れて問い返す亀倉に、志功は「うん、生まれてから一度もない」と真顔で断言するのです。戦時色が一層きびしさを加えてきたころとてモデルなんて見つからないし、たとえ見つかっても目の悪い志功には鼻をくっつけるばかりに近寄らないとよく見えない……思案のあげく亀倉は出征した友人から秘かに預かっていたその手のアルバムを見せることを思い立ちます。

 当時はカメラの性能も悪くピントがぼやけて既にセピア色に変色した写真に、志功は例の牛乳瓶の底みたいな眼鏡をすり寄せて、食い入るように見つめたといいます。亀倉に懇願して気に入った数枚の写真をアルバムから剥がしとって、志功は大事に持ち帰ります。昭和十六年秋の第四回文展に出品された『不空羂索頌・摩訶般若波羅密多心経版画鏡』がこのときの写真をもとに制作されたのではないか、と長部氏は推測しています。
(参考までに、同郷人長部氏が描いた『鬼が来た』は志功評伝の一級品のみならず、日本美術の時代史、また白樺派・民芸のサイドストーリイとしても価値ある力作です。)

 棟方志功は、私にとって、なじみの深い人でありました。私が勤めていた鉄鋼会社は倉敷市に製鉄所を持っていた関係で、月に一度は出張していました。倉敷には有名な大原美術館があり、出張の都度そこを覗くたびに志功の作品が迎えてくれました。志功ばかりではない、リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、芹沢げ陲覆匹量鰻欹邁箸虜酩覆眤真展示されています。創立者の大原一族と民芸とのつながりなどつゆ知らなかった当時の私は、志功の大作「大和し美し」や「釈迦十大弟子」「女人観世音」に圧倒されていました。

 いつの頃からか、私は名だたる泰西名画の逸品よりも、志功の作品を見るために大原美術館を訪ねる自分に気がつきました。志功の「板画」には、見る者をゾクゾクさせるような、ただならぬオーラがほとばしっているのでした。
 志功が制作した生涯最大の板画が倉敷国際ホテルのロビー吹き抜けの壁面に飾られていると聞いて、出張旅費では足の出るこの一流ホテルにわざわざ泊りに行ったことがあります。それは「乾坤頌―人類より神々へ」と題された(のちに「大世界の柵<坤>」と改題)もので、幅十三メートル五十センチ高さ二メートル四十センチの単色作品で、横幅が長すぎるため中央から二つに分けて上下に並べて展示されています。

 このドデカイものを、映像でおなじみの牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた志功が、顔を板にくっつけるまでに近づけて一気に彫り上げたのかと思うと、言葉を失います。就寝前のひととき人気(ひとけ)のない森閑としたロビーに出て、心なしか落とされた照明の下でこの大作を見上げながら、この観覧料込みならここの部屋代は決して高くないな、などと当時の私はセコいことを考えていたことでした。

 この印象が強烈に残っていたせいか、これより十年ものち新しい職場で行き詰っていた頃、昼休みに同僚を誘ってデパートで催された志功の展覧会に出かけたことがあります。そのとき私を癒してくれたのは大作ではなく小品、作品の名前は忘れましたが、志功独特のふっくらとした頬に紅をさした女人の柵でありました。吊り目がちのぱっちりとしたまなこの見据えている先を、私も見なければいけないと思ったものでした。
 「志功彫る冬あたたかき頬の紅」……このとき口をついて出た俳句は、私が芸術作品を詠んだ記念すべき処女句となったのです。(続く)

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