葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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石川啄木の章の壱

 『杉村さんがあゝ言って下すった。』

 石川啄木を「我孫子ゆかりの文化人」の一人にノミネートするのは、あるいは奇異なことと思われるかもしれません。啄木は我孫子に来たことも住んだこともありません。白樺や民芸の仲間との交流もありませんでした。しかし、我孫子を愛した文化人の中で最も長く我孫子に住み、ただ一人我孫子で生を終えた杉村楚人冠とは、死の床にあった晩年、魂の熱くなるような交情がありました。
 とりわけ、『東京朝日』の一校正部員に過ぎなかった啄木を、いきなり朝日歌壇の選者に抜擢したのは楚人冠であるという説を採るのであれば、もし楚人冠がいなかったら啄木は歌人として世に出なかったかもしれない、ということになるわけで、この不思議な縁(えにし)によって啄木を我孫子ゆかりの人物と呼ぶのは許されていいでしょう。
 それは、もし柳宗悦が価値を認めなかったら棟方志功は世に出なかったかもしれない、という理由で、棟方志功を我孫子ゆかりの文化人に数えたことと共通しているのです。

 もっとも、(楚人冠の章の弐)で述べたように、私は楚人冠の啄木抜擢説にはいささか疑いをもっています。だから、こういう言い方は適切ではない。ほんとうのところは、もし楚人冠がいなかったら啄木は世に出ていなかったという理由よりも、楚人冠が十四歳も年下の啄木をまるで弟のように可愛がっていた心情をもって、啄木をわが我孫子ゆかりの文化人の一人に加えることにしたのでした。
いや、それもまた方便というものでしょう。正直言って、私は啄木が好き……ずっと以前から啄木について書きたいと思う心を抑えきれないでいるのです。

 さて、楚人冠が啄木に寄せた溢れるばかりの厚意厚情とは何だったのか。
 先の稿(楚人冠の章の弐)では、楚人冠の啄木抜擢説の有力な根拠とされる吉田孤羊氏宛の楚人冠の手紙を、あまり長くなるので(中略)としたのですが、ここにあらためて紹介しておきましょう。楚人冠は、啄木抜擢について渋川玄耳の相談を受け「僕は言下に賛成の意を表しました」と言ったあと、こう書いているのです。
「啄木の病気がだんだん重くなって、おまけに細君も妹君(?)も病の床に就き啄木一家が悲惨を極めた生活をしていると聞いて(あるいは啄木の書面で承知したのかも知れません)私はなけなしの財布の中から二十円ほど送りました。するとその時の啄木の礼状が啄木式のものでした。彼は先ず窮乏の際思いがけなく金を送られた事を深謝し、せっかく送ってくれたこの金をむざむざ使ってはすまぬと思って多年買いたいと思いながら今に買うことの出来なかったクロポトキンの何とかという書物を買いましたというあいさつでした。
 私は全く呆れかえりました。今日食うに困るからと思って送った金でクロポトキンを買うなんて、のんきとも没常識ともいおうようにない、私はかつ憤りかつ呆れました。しかし後になって考えると、これが如何にも啄木式のところと改めて感心もし敬服もいたしました。
この書面を啄木全集の中へ入れてもらおうと思ってさんざ探しましたが、どうしても見つかりません。如何にも残念に存じております。啄木が死んで文名とみに高くなると、生前さも親しく世話でもしたような顔をしたがる者が急に出て来ましたが、朝日にいたころの啄木はそれは認められんものでした。多少認めたのは佐藤(北江)と渋川くらいのものでした。」
 さんざ探して見つからなかったその啄木書簡は、嬉しいことに筑摩書房『石川啄木全集第七巻(書簡集)』に収められています。
 楚人冠は、なけなしの財布の中から二十円ほどを送ったと記していますが、岩城之徳氏の労作「伝記的年譜」(『啄木全集第八巻』)によれば、楚人冠が社内に啄木救済の義金を募り、佐藤編集長が有志十七名の見舞金三十四円四十銭と新年宴会酒肴料三円を届けた、とあります。

 楚人冠に宛てた啄木書簡は合計三通が『啄木全集』に収録されています。(原文は旧かな旧漢字)
 第一通は明治四十五年一月九日付で、
「私はこないだの年賀のお葉書に書いて下すった有難いお言葉に対して御礼申し上げるために此ペンを取上げたのです。あのお葉書を頂いた時ほどしみじみとした心持になって人の情に感じた事は全くこの頃にない事です。すぐ前に妻や子がいたに不拘、目の底に涙が集って来たので、うろたえて別の葉書を手にとって紛らしたのでした。」
 楚人冠は年賀状の片隅に、おそらく「金が入用なら言って来いよ」と、楚人冠らしいひと言を付け加えたのでしょう。以下、啄木は、
「私はあなたに対して少しも隠そうとは思いません。ああ言って頂くと、恰度喉から手が出るようにすぐもう何かお願いしたくなります。それほど私は今不如意な境遇にあります。(中略)しかし、おいそれとお言葉にあまえたとて、困った事には、私には何日それに対して酬いる事が出来るかという目算が立たないのです。現に去年のうちに佐藤さんにも大層お世話を頂いているのですけれど、今以て不義理をしている始末です。
 またこうも考えます。早い話が、私はこの先まだまだ困って行くに違いありません。それで今のうちにお世話を頂いておくと、その時になってもう重ねて申上げるという事が出来なくなると思うのです。
 とつおいつ考へて、兎も角も此手紙ではあゝ言って頂いた事についての御礼だけを申上げる事に決心したのです。『杉村さんがあゝ言って下すった。』たゞこう思っているだけでも、今の私にはどれだけ心強い事か知れません。」
と、いかにも啄木らしい持って回った表現で、無心を訴えます。
 実はこの手紙は三通のうち一番の長文(千八百字)で、朝から書き出したが熱が出たために夕方まで寝て夜になって九時までかかって書き継いだことが記されています。

 注目すべきは、この手紙の前半に一年前の大逆事件の判決当日の社内の模様に触れ、
「其処へあなたが何処からか帰って来られて、『今日は何処へ行っても吾党の景気が悪いね』と言われたのでした」
と、楚人冠の反応を綴った文面があることです。
 碓田のぼる氏によれば(『石川啄木の新世界』)、啄木はその二週間前に友人の平出弁護士から借り受けた幸徳秋水の陳弁書を三日で筆写して、それを楚人冠に見せたといいます。朝日歌壇の選者に抜擢した折は「石川君の事もよくは知らぬが」と言っていた楚人冠が、このころは秋水の隠れシンパとして啄木と共感を分かつ仲になっていたのでした。

 啄木が病の床から書いた長文の第一通を受け取った楚人冠は直ちに社内に義金を募り、その旨を一月二十六日に啄木に知らせてやります。
 それに対する礼状が翌二十七日付の第二通で、
「(貴下のお手紙を)拝見しての心持は、『有難い』とか『忝けない』とかいう在来の言葉では兎ても表わすことが出来ません。どうぞお察し願います。私は謹んで貴下の御厚情に浴します。そうして貴下が私のために取って下すった御企画の結果に対しては、私の智慧の及ぶ限りで最も有効な使い方をしたいと考えています。」

 第三通は一月三十一日付でお金を受け取ったお礼の手紙です。
「拝啓。一昨日佐藤さんがお出でになり、お集め下すった皆様の厚き思召のお金、正に頂戴いたしました。何とも有難い次第で御座います。お蔭様で当分安心して寝ていられる事になりました。
 取分け重病の母に薬価や滋養品の事について余計な心配をさせなくても済む事になったのが、有難くて仕方がありません。あの幾枚もの紙幣を見せてワケを話した時には母は泣き笑いして有難がりました。」
 楚人冠が「如何にも啄木式」といったのは、続く文面で、
「それから止そうか止すまいかと何度も考えた末にとうとう昨日本を一冊買いました。クロポトキンの、Russian literature これは病気になる前から欲しい欲しいと思っていた本の一つでした」
と報告しているところです。
 これより二か月半後の四月十三日に啄木は亡くなるのですが、死の床から出されたこれら三通の手紙を読むと、楚人冠が啄木を常に温かく見守ってきたこと、啄木が楚人冠に対していかに敬愛と感謝の情を抱いていたかということ、が伝わってきます。(続く)

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