葭の塾

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 『杉村さんがあゝ言って下すった。』(続き)

 ここまで書いてきたら、啄木をもっと知りたいという思いがにわかに高まってきました。ひとたび筆を置いて、衝動的に啄木の故郷を訪ねる旅に出たのは平成十六年六月のことでありました。ついでに、並行して書き進んでいた柳田国男の章の『遠野物語』の原郷である遠野も見ておこうという欲張りな企画でした。
 ある人物を理解しようとするときは、その人がもっとも愛した場所、もしくは人生のもっとも重要な時期を過した場所に立つことが何よりの近道である、と私は考えています。その人と同じ空間に身を置いて、同じ光景を目にし、同じ空気を吸うことを心がけているのです。
 朝盛岡を発って、啄木がこよなく愛した鶴飼橋(つるかいばし)の上に立ったのは午前十時ごろだったでしょうか。渋民村は訪問時は玉山村、平成十八年に盛岡市へ編入されて盛岡市玉山区になりましたが、村への最寄駅は「渋民」で、うれしいことに今は存在しない村名がそのまま残されています。
 しかし、「渋民」駅は啄木の時代は信号所で汽車は停まらず、啄木は少し遠い「好摩(こうま)」駅から乗り降りしていたのでした。冬は雪道、春は雪解けの泥道となるだろうに、この道を啄木は足袋に下駄で歩いていたのでしょうか。啄木を知るためには、何としても啄木が通(かよ)った道を辿らなければならないと思って、私は三十分余もかけて、「好摩(こうま)」駅からの道を歩いて来たのでした。

 その甲斐あって、鶴飼橋で感動がやってきました。啄木の頃は木製の吊り橋だった鶴飼橋は鉄製に代ったものの、今でもありがたいことに往時の雰囲気を残した吊り橋のまま保存されています。橋に立つと、このあたりすっかり川幅を狭めた北上川の、川上には姫神山、川下には岩手山が、初夏の空をくっきりと隈取る風景がひろがります。
 岩手山はあくまでも男性的に屹立し、姫神山は端正な三角形を女性のフレアスカートのようにゆったりと広げています。
 ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな
という歌が自然に浮かんできます。
 いま啄木が見た同じ風景の中にいるのだという感動と、こんな美しいふるさとを持った啄木への羨望とがないまぜになって、私は声もなく立ち尽くしているばかりでした。
 詩や小説、手紙の中で、啄木は何度となく鶴飼橋の情景をいとおしげに書き綴っています。私は小説『鳥影(ちょうえい)』の「此処は村での景色を一処(ひとところ)に聚(あつ)めた」という表現が好きです。村ばかりではない、ここはまさに日本中の景色を一処に聚めた絶景といっていいでしょう。

 鶴飼橋を渡って坂を登ると、啄木最初の歌碑が建つ渋民公園に出ます。 
 やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに
 この高みから見下ろすと、北上川の川面を蔽う歌のとおりの柳が、折からの初夏(はつなつ)の風にやわらかにそよいでいます。あらためて、
 かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川
の歌が口をついて出ます。
 渋民公園から東へものの三分も歩くと国道四号線で、牧歌的な風景は一変します。角には「啄木ストア」なるスーパーが建ち、国道はトラックの激しい往来で信号のないところの横断は命懸けです。明治末期に早くも
 ふるさとに入りて先づ心傷むかな/道広くなり/橋もあたらし
という歌を詠んでいた啄木がこの光景を目にしたら、さぞや驚くことでしょう。

 国道を渡ったところが「石川啄木記念館」です。この記念館は、啄木の文学と生涯を年代別に紹介するとともに、啄木直筆の書簡やノート、遺品などを展示しています。これら館内の展示品の夥しい文字情報を吸収するより先に、鶴飼橋と渋民公園を訪ねたのは啄木を理解する上で願ってもない財産になりました。私は啄木を「知」で理解する前に、「情」で啄木の感じたことがわかったのでした。 
 構内に移設された渋民尋常高等小学校は、粋な計らいで、教室の黒板にチョークで「雲は天才である」と書かれてありました。私はしばし小さな木製の椅子に坐って、代用教員として教壇に立つ啄木の幻影を追い求めていました。すぐ裏の宝徳寺はあいにく法事の最中とて、啄木が育った部屋は見られなかったものの、啄木がよく遊んだという愛宕山をひとめぐりしてきました。

 それから盛岡へ帰って、啄木新婚の家を訪ねました。幸いにも見学者は私一人だったので、「室は共有なれども、この机のみは我が独占也」という机に正座して、筆で手紙をしたためる動作などをしてみました。そうしていると、すぐ右横の《方一尺五寸に切りたる炉》に昼も夜も懸けられた《五合入りの古鉄瓶》から、《そうそう嘈々として断続調を成す松風の楽》が聞こえるような錯覚を覚えたことでした。
 岩手公園では、
 不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心
の歌碑の横の草に寝ころんで、六十七の心を空に吸わせてもきました。
いまはビルに阻まれてここから岩手山を望むことはできなくなったものの、寝転べば啄木が見たのと同じ空を仰ぐことができます。
 教室の窓より遁げて/ただ一人/かの城址に寝に行きしかな
 その教室があった旧盛岡中学校は、ここから三百米ほどの至近距離でした。現岩手銀行の敷地の一角に刻まれた「旧盛岡中学校跡」というレリーフには、
 盛岡の中学校の/露台(バルコン)の/欄干(てすり)に最一度(もいちど)我を椅(よ)らしめ
という歌が刻まれています。
 この歌だけだと、啄木は中学時代の学業生活を懐かしがっているようにみえますが、実際は高学年になると授業をばかにしてほとんど出なかった……四年生の欠席時数は二八七時間で全生徒中八番目の悪さ、五年生になると一学期だけで(二学期に退学)欠席時数は二〇七時間を数え、出席時数一〇四時間の倍になっていたことが当時の成績表に記録されています。啄木は、授業をさぼっては、城址に寝ころびに来ていたのでした。

 私もそうだった……この日も抜けるような青空を仰ぎながら梢を揺らす東北の薫風にうたれていると、半世紀も前の高校時代の日々が昨日のことのように甦ってきました。
 私も授業はさぼってばかりいた……天才啄木のように自分のレベルに合わない授業を忌避したわけでもなく、文学的野心をもっていたわけでもなく、強いていえば、東大合格者の数を誇る受験校の雰囲気になじめなかったのでした。
 高校は新宿御苑に隣接しており、塀を乗り越えると無料で入れるという誘惑もあって、授業をさぼって寝ころぶのはきまって御苑の芝生でありました。
思えばこの旅の間中、私は私のうちなる啄木と対話を重ねてきたのかもしれません。(完)

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