葭の塾

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石川啄木の章の弐

 啄木ワールド

 啄木を訪ねる旅に出た前後に、あらためて啄木歌集を読み直してみると、いまさらながら啄木の国民歌人としての存在感の大きさに気づいたことでした。
 それは、ごく普通の日本人であれば、教養の程度に拘らず、短歌の素養のあるなしに拘らず、啄木短歌の五つや六つは暗誦しているという事実が物語っています。私のような記憶力の悪い輩(やから)でさえ、次の十首くらいはすらすらと口をついて出てくるのです。
  東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる
  いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ
  たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽(かろ)きに泣きて/三歩あゆまず
  はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢっと手を見る
  友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ
  ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく
  かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川
  やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに
  ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな
  函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花
 古来、名歌人は数々あれど、啄木ほど多くの作品が人口に膾炙(かいしゃ)している歌人はほかにないといっていいでしょう。

 詩歌に限らずあらゆる文学作品は、それを読んだときの年齢によって、わかるものが異なってきます。俗に、作者が書いたときの年齢で読むのが一番理解できる、といわれますが啄木は例外です。いくつになって読もうが、啄木にはそれを書いた年齢に読者を引き戻させてしまう魔力があるようです。啄木の歌を音読すると、私はいつだって一瞬にして青春時代の私に戻ってしまうのです。たとえば、
  やはらかに積れる雪に/熱(ほ)てる頬(ほ)を埋(うず)むるごとき/恋してみたし
  何がなしに/頭のなかに崖ありて/日毎に土のくづるるごとし
  たんたらたんたんたらたらと/雨滴(あまだれ)が/痛むあたまにひびくかなしさ
  あたらしき心もとめて/名も知らぬ/街など今日もさまよひて来ぬ
  人といふ人のこころに/一人づつ囚人がゐて/うめくかなしさ
  わがこころ/けふもひそかに泣かむとす/友みな己(おの)が道をあゆめり
  ゆゑもなく憎みし友と/いつしかに親しくなりて/秋の暮れゆく
  誰か我を/思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。/何の心ぞ。
  人がみな/同じ方角に向いて行く。/それを横より見てゐる心。
という歌などは、多感な高校時代の日々に私が何度となく味わった心理状態でありました。

 その一方では、現在の私があらたに共感を覚える歌もありました。
  かの時に言ひそびれたる/大切の言葉は今も/胸に残れり
という歌は、私の拙句「言ふ言葉言はずに長き熱帯夜」という心境にそっくりです。その夜は暑さに眠れぬまま、私は「なぜあの時ああ言わなかったんだろう」と一晩中輾転と寝返りを打ちながら朝を迎えたのでした。
  朝の湯の/湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載せ/ゆるく息する物思ひかな
という歌は、私の好きな山頭火の句「朝湯こんこんあふれるまんなかのわたくし」を思い出させます。温泉の大浴場で朝湯に入るとき、私はそれまで啄木風に湯船に寄りかかっていたのですが、山頭火の一句を知ってからは浴槽のまんなかに入って自宅の風呂では望めない大きさを楽しむことに改めたのでした。でも山頭火スタイルは身体を支えるところがないので、ゆらゆらしてどこか頼りないのが欠点です。この歌を知って私は再び、ゆるく息して物思いにふけるのなら、啄木のようにうなじを湯船に載せるほうがいいと思い直したことでした。
 歳とともにめっぽう抹香臭くなり毎朝お経を唱えるようになった私にとって、
  神有りと言ひ張る友を/説きふせし/かの路傍(みちばた)の栗の樹の下(もと)
という歌は、啄木は無神論だったのか、と一抹の寂しさを感じさせます。

 啄木には他に、
  わがために/なやめる魂(たま)をしづめよと/讃美歌うたふ人ありしかな
  クリストを人なりといへば、/妹の眼が、かなしくも、/われをあはれむ。
という歌もあり、少なくともキリスト教には懐疑的だったことがわかります。
 啄木は晩年クロポトキンの無政府主義に共鳴し幸徳秋水の大逆事件にも共感を示して、
  やや遠きものに思ひし/テロリストの悲しき心も――/近づく日のあり。
という歌を詠んでいますから、やはり神を(仏も)信じなかったのでありましょう。

 興味深かったのは、啄木にサラダを歌った歌が二首あることでした。
  新しきサラドの皿の/酢のかをり/こころに沁みてかなしき夕(ゆうべ)
  あたらしきサラドの色の/うれしさに/箸とりあげて見は見つれども――
 まだ体調のよかった明治四十三年八月に発表された一首目がかなしさを詠い、すっかり体調を崩した明治四十四年七月に発表された二首目が逆に、一瞬ではあるが、うれしさを詠っているところに、啄木ならではの感性が感じられます。

 サラダを詠った短歌といえば、俵万智の衝撃的デビュー作、
  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
がすっかり有名になりました。「サラダ記念日」は流行語にもなりましたが、今でこそサラダはごくポピュラーな料理であるものの、啄木の時代にはさぞかし贅沢なものであったことでしょう。ドレッシングに酢と合わせて使う上質の食用油は高価だったろうし、明治末年には野菜をなまで食べる習慣もなかったでしょうから。

 実は、啄木は一首目を詠んだ三か月前にも、こんなハイカラな食べ物歌を発表しているのです。
  ひとしきり静かになれる/ゆふぐれの/厨(くりや)にのこるハムのにほひかな
  コニャックの酔(ゑ)ひのあとなる/やはらかき/このかなしみのすずろなるかな
 ハムとコニャックとサラダ、いずれも極貧の啄木が家庭で口にできるものではない……啄木はおそらく外でグルメを楽しんでいたのです。岩城之徳氏によれば、ハムの歌の「厨」は「客がひとわたり去って静かになった酒場の調理場にただようハムのにおいを歌ったもの」と言います(『啄木歌集全歌評釈』)。

 同氏は一首目のサラダ歌についても、矢代東村がこれとハムの歌とを「異国情調(エキゾチック)なところがある」と評したことを引いて「夕暮れ時の都会の憂鬱」を歌ったと解釈していますから、このサラダはレストランで食したものでしょう。ハムとコニャックに続いて一首目のサラダ歌を詠んだ明治四十四年五月〜八月といえば、啄木にとっては編集に携わった『二葉亭全集』第一巻が刊行され、大逆事件の報道に接して「思想に一大変革」を来した時期でもありましたから、仕事先で外食する機会が多かったと想像できるのです。

 ところで一年後に詠まれた二首目のサラダ歌は、自宅療養中で高熱に苦しんでいたころの作ですから、家で妻に無理を言ってつくらせたものかもしれません。しかし、年譜によると、この年六月には妻の帰省をめぐって大トラブルが発生しているので、そのさなかに妻が手のかかるサラダをつくるというのも不自然です。やはり、啄木は誰かにサラダを食べたいとせがんで、痩せた病身を引きずりながらレストランへ出かけたのでしょう。サラダを食べれば、栄養がついて熱がとれると思ったのかもしれない。だが、出されたサラダにうれしさのあまり箸はとったものの、もはや食べる気力がなかったというのです。

 話がへんなほうに逸れました。サラダを家で食べたか、外で食べたかなどはどちらでもいい……私は、俵万智より七十年も前に啄木がサラダを短歌に詠んでいることを言いたいのでした。サラダばかりではない、ハムもコニャックも、短歌に詠んだ人は啄木が最初だったのではないでしょうか。(続く)

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Yahooで記事をアップしたらここのブログへのリンクがあらわれました。サラダの話面白く読ませていただきました。tbさせてもらいます。

2008/1/25(金) 午後 9:28 [ - ] 返信する

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石川啄木の短歌が大好きです 削除

2017/7/22(土) 午後 9:57 [ そら ] 返信する

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