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「我孫子の嘉納治五郎」――別荘跡と幻の学園構想――

 第五回我孫子市景観賞を受賞した天神坂は、どこか京都を思わせるまことに風情のある一画である。左に椎の巨木を仰ぎ右に竹林の緑を見て昼なお暗い石段を登りつめると、柳宗悦の旧居と旧嘉納別荘が細い道を隔てて左右に建っている。
 さいわい両屋敷とも跡を譲り受けた住人がいまも居住中で、家は改築され敷地もかなり狭くなったとはいえ、手賀沼を眼下に見おろす当時の幽玄な雰囲気を充分うかがい知ることができる。

 天神坂は現在我孫子の史跡文学散歩の名所となって、週末には市の内外から見学者が訪れる。嘉納治五郎(以下、私稿では師範と呼ぶ)はこの別荘を特に晩年はたいそう気に入っていたようで、年譜(『嘉納治五郎大系第十三巻』)には大正十四年頃から亡くなる前年まで、「我孫子で静養」「家族と共に我孫子へ」「夫人同伴で我孫子へ」「孫たちが我孫子に来訪」「我孫子で越年」という記述が各年数回の頻度で現れる。

 師範が別荘地を購入したのは、当時の土地台帳によれば明治四十四年十二月二十一日が最初で、以後大正二年まで逐次買い増しを行なっていることからみれば、別荘建築はその前後であろうと推測される。道一本隔てた隣地に姪(師範の姉・勝子の娘)の柳直枝が住むことになったのは、師範が呼び寄せたのであろう。夫に死別した直枝が転居したあとに、直枝の弟(師範にとっては甥)の柳宗悦が新妻の兼子を伴って移ってくるのは、大正三年秋のことである。喜んだ師範は、椎の三本の大木があることに因んで、柳邸を「三樹荘」と名づけて書額を贈っている。

 その柳が志賀直哉を誘い、志賀が武者小路実篤を誘って、我孫子に白樺派のコロニーができた。柳はまたバーナード・リーチを誘って自邸の庭に窯を築かせ、リーチの友人の浜田庄司らが集い来て、民芸運動が生れた。志賀直哉に私淑した瀧井孝作が、「嘉納治五郎という人は(あの人がいて柳さんを呼んで、柳さんが志賀さん武者さんを呼んだのだから)、我孫子の大事な人じゃないかな」と語っているように、もし師範が我孫子に住まなかったら、白樺派も民芸も、どこかよその地で発展したことであろうと思われる。

 それほどの「大事な人」でありながら、師範については、郷土史家にとってまだまだ知られざる部分が少なくない。もっとも大きな謎は、幻の学園構想にまつわるものである。
 師範は、教育者の夢として、別荘の近くに理想の学園を建設する構想を抱いていたのだ。
 別荘地を購入する二か月前に二万余坪の用地を手当てし始めたことは、当時の土地台帳に記録されている。学園建設工事も進められ、校門予定地に到る並木道までが完成したことも目撃されている。しかし工事は中断され、学園は農園に転用されたまま、師範の没後は手放され住宅地として分譲された。いま、閑静な住宅地となった白山地区で、往時の農園はおろか学園の痕跡を偲ぶものは何一つ残されていない。
 なぜ我孫子に? どんな学園を? どうして農園に? ……謎が多い理由は、師範自身がこれらについて語った記録が見当たらないためだ。我孫子市立図書館には『嘉納治五郎大系』全十五巻が揃っているが、その中のいずこにも師範自らの言葉を見出せなかった。
 それゆえ、郷土史家の間ではこれまで様々な推論、想像、憶測がなされてきた。それらを紹介しながら、私なりに謎解きに挑んでみたい、というのが本稿の狙いである。

 まずは、なぜ師範が我孫子に学園をつくろうと思い立ったのか、ということから始めよう。
 これについては、地元では「イートンスクール再現説」が根強く支持されている。
 初出は秋谷半七氏で、「嘉納は訪英の折、イートンスクールの環境に魅せられ、これがロンドン郊外三〇キロ、テームズ河畔にあることから、東京とほぼ同距離の我孫子手賀沼をテームズ河になぞらえて、ここにイートンスクールを再現しようと企てたのだろう」と、推測する(『手賀沼と文人』一九七八年八月刊・崙書房)。

 一九八一年に、松本芳雄氏が、「(かねて学園用地として我孫子の地形を具さに検討吟味していた師範が)たまたま訪れた或る日、予期せぬ霧につつまれた手賀沼の情景に接したのでより一層、我孫子への感が深まったといわれる。先生はかつてイギリス外遊の途次、霧の都と名高いロンドンテームズ河畔の情景が胸中をよぎり、類似せる手賀沼の情景に魅せられたとの話を聞かされた事がある。」と、述べる(『郷土あびこ第三号・北総我孫子の歴史散歩』)。
 松本氏はイートン校には言及していないが、同じ『郷土あびこ第三号』に鳴海和彦氏が「幻の学園」と題して、「嘉納は、先年、イギリスの教育施設を視察した際、全寮制のイートンスクールをみて、深い印象を受けた。歴史のある校舎、厳格な教育、次代を背負ってたつ俊秀を集めたハイレベルの教育ぶりをみて、いつの日か日本にもこのような学校をつくってみようと考えていた。」と、出典は不明ながらイートン説を再現する。

 一九九〇年になって大井正義氏が、秋谷氏の書を引いて、「嘉納は教育には美しい自然環境が必要と考えていた。テムズ河の美しさとイートン校に魅せられて嘉納が学園都市構想を抱いたとすれば、手賀沼を熟知している血脇(守之助)が嘉納を誘ったという想像は可能である。」という論法を展開する。

 しかしながら、「イートンスクール再現説」を採用するには、何よりも、師範がイートンスクールを視察した事実が必要となる。
 年譜によると、師範が最初の外遊に出帆したのは明治二十二年九月で、このときは翌二十三年十一月二十三日から十二月十三日までロンドンに滞在したことが記載されている。二度目は大正元年末のストックホルム五輪であるが、帰途に欧米教育事情を視察したという記述だけで、英国に滞留した時期と期間は不明である。

 師範は克明に英文日記をつけていたので、もしイートン校を訪ねたとすれば日記に記載されているはずだが、不幸にして現在は日記の閲覧が許されていないため、この事実は検証できないでいる。余談ながら、日記が公開されれば謎のいくつかは解明されるやも知れず、貴重な歴史文献としても公開が望まれるところである。

 二度の訪欧はいずれも官命による出張旅行であるから、或は宮内庁や文部科学省に調査報告書が残っているのではないかと思って問合わせをしたが、古いこととて不明とのことであった(平成十五年五月「メール回答」)。

 たとえどちらかの訪英で師範が実際にイートン校を視察していたとしても、時間的にはいささか無理があると言わざるを得ない。すなわち学園用地の取得開始は明治四十四年であるから(前述)、視察時期が最初の訪英であれば二十年も前の体験であり、動機とするには古すぎる。二度目の訪英で視察したのであれば、土地を取得したあとの体験になって動機にはならないからである。(その2へ続く)

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