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「我孫子の嘉納治五郎」(その1からの続き)

 ところで、戸川幸夫氏『小説 嘉納治五郎』(読売新聞社一九九一年刊)の中に、師範の長男履正氏の「景色の良い場所を見付けるとすぐに買うのが父のくせだった」が、「しかし、それらの土地を嘉納一族の者たちの為に遺しておこうという気は微塵もなく、教育関係や柔道関係者の為に利用したいというのが楽しい夢だったのです」(昭和二十七年二月講道館創立七十周年大会での講演記録)という言葉がある。
 履正氏の言葉は、まず買って、使い途はあとで考えるのが師範のやり方だったという風にも受け取れる。とすると、手賀沼の風光に魅せられた嘉納はすぐに買ったものの、このときはまだ学園をつくるという構想はなかったという想像が可能となる。

 すぐに買った決め手となったのは、実は地価の安さではなかったか。というのは、志賀直哉の述懐からの想像である。直哉は『稲村雑談』の中で、「我孫子に来て間もなく、根戸といふ所の、沼を見下し、遠く富士などの松林を、安いので千四五百坪程買っておいたが、丁度その頃武者小路実篤が医者に胸が悪いといはれたというので……僕は僕の買った地所にうち家を建てる事を勧め、武者が其所へ住む事になった」と喋っている。直哉が我孫子に来たのは大正四年、師範の四年あとのことだが、その間、県営軽便鉄道野田線(現東武野田線)が明治四十四年に、常総鉄道(現関東鉄道常総線)が大正二年に相次いで開通し、流山軽便鉄道(現流山電鉄)も大正五年の開通を間近に控えていたから、師範が買ったときよりも地価は確実に値上がりしていたことだろう。

 それでも、用途も定まらないのに、安いので千四五百坪程買っておいたというのだから、この時代のお大尽たちは、景色のよい場所はできるだけ広く買っておくという風潮があったのかもしれない。
 二万坪余りほどの広さの土地を買うためには、師範ほどの分限者でも安いに越したことはないはずで、都心から等距離の区域の中では、我孫子の地価が著しく安かったのであろう。

『手賀沼年表』(平成十三年「美しい手賀沼を愛する会」刊)をひもとくと、明治四十三年八月の項に「利根川未曾有の大洪水」とあり、翌四十四年七月の項には「この月三度の台風あり、手賀沼は三年連続の水害となる」という記述がみえる。師範が土地を求めたのはまさにその年の十月末が最初であったから、或は度重なる水害の影響を受けて手賀沼周辺の土地が暴落していたという推測がゆるされてもいい。
こんなに安いのなら予算の許すだけ買っておこう、使い途はいろいろあるだろう、と師範は気楽な気持ちで行動したのではないか、私にはそう思えてならないのだ。

 その土地に学園の建設工事が進行していたことについては、前出・松本芳雄氏の証言がある。松本氏は、のちに嘉納後楽農園として転用された際、農園の経営を託された松本久三郎氏の長男であるから証言には重みがある。氏は、大正八年、父に連れられて農園を訪れたとき、「興陽寺裏から根戸下旧道までの高台一帯で約二万坪の耕地があった。校門にあたる左右入口には、ヒマラヤ杉と椎木を二本づつ植え、通路には石炭ガラを敷き、その両側には茶・桐・檜・欅の順に四重に植樹され、並木の幅は五十メートルほどあった。子供ながらに学園のことを耳にしている。……」と語っているのである(『我孫子市史研究第四号』兵藤純二「大正期・我孫子市在住の作家たち」より)。

 松本氏の証言の中で注目すべきは、校門予定地に続く四重の並木を目撃したのが大正八年とあることだ。大正八年という年は、師範にとって忘れられない年であったろう。というのは、師範はこの年、嘉納塾を閉鎖しているからである。嘉納塾は、講道館創立に先立つ三か月前の明治十五年二月、師範二十三歳の時に設立された。親類や懇意な人から預かった子供と、直接頼ってきた書生を集めて、国家に有用な人材を養うために、師範は塾生たちに、克己、勤勉、努力を身をもって教えた。嘉納塾は日本古来の美風良俗を植えつける目的だったが、ほぼ同時期に師範は弘文館という英語塾もつくっており、のち明治三十一年には善養塾、成蹊塾、全一塾をも開いている。学習院、一高、五高と名だたる名門校で教頭や校長の要職にあった師範が、一方ではこれほどの私塾を経営していたのは、師弟の肌が触れ合う塾生教育でこそ自分なりの教育思想が実現できると考えていたからに違いない。

 中でも嘉納塾は、大正八年、師範六十歳の時まで、三十八年間の長きに亘って継続するのである。嘉納塾の閉鎖と松本氏の目撃談との年号の一致は、師範が嘉納塾に代るまったく新しい構想の学園塾をつくりたかったのではないか、と思わせる。別荘に通ううちに、手当てしておいた広大な土地の使い途がはっきりと形をなしたのは、したがって、大正六年頃からではないかと推量される。

 嘉納塾に代るものであると思わせるヒントは、閉塾にあたって師範が『嘉納塾同窓会雑誌』第三十八号に発表した「嘉納塾関係諸子に告ぐ」の文中に見出せる。師範は、近年公務多忙のため塾生のために費やす時間が得難くなったこと、年齢的に(数えで還暦)二十歳前後の青年と起居行動を共にすることが困難になったこと、自分に代る指導役の先輩塾生も次々と社会人となり適当な後任者を得難くなったこと、の三つの理由をあげているが、その後で、
「しかし我が塾のごとき名誉ある塾の全廃は情においてとうてい忍び得られぬ、ゆえに無形の塾を(同窓会として)存しておき、他日旧塾生中より進んで塾生の世話をしようという篤志家が出た場合に再興し得る余地を存してもらいたい」
と、嘉納塾再興の思いを示唆しているのである。
 私は、師範はイートンスクールを再現したかったのではなく、嘉納塾を拡大発展させたかったのだ、と考えたいのである。

 しかし、建設工事はここで中断され、学園用地は「嘉納後楽農園」として転用されることになる。農園は、当初は困難を極めたものの、大正十二年頃には原野の開墾も終って安定軌道に乗り、昭和十三年師範逝去まで続けられた。作物の中では、品種改良で栗の風味を出した栗南瓜が有名で、一つ一つにラベルを貼って出荷して、わが国初のブランド野菜といわれている。

 それにしても、なぜ、学園が農園になってしまったか? 
 前出松本氏は、「それが如何して農園経営に方向転換なされたかは、現在にして何人も知る術もないのである」(『我孫子市史研究第四号』「嘉納後楽農園の想い出」)とした上で、「聞くところによれば、当時(持てる者)の風潮として、別荘を持ち農園経営投資によって生産される新鮮な季節の果樹、野菜等を自慢される、一種の(貴族趣味)ではなかったかと推量される次第である」と続けるが、そうであれば、最初から農園構想であってよいはずで、子供心に学園予定地であったことを知っていたという先の証言とは矛盾することになる。
 第一、師範はそんな貴族趣味におぼれるような人ではないはずだ。先の嘉納履正氏も、買った土地を嘉納一族の者たちの為に遺しておこうという気は微塵もなく、教育関係や柔道関係者の為に利用したいというのが楽しい夢だった、と語っているのだから。

 一方で、学園建設が挫折したのは文部省に反対されたためだ、という説がある。
 これは鳴海和彦氏が初出で(前出『郷土あびこ第三号』「幻の学園」)、「嘉納の構想を文部省の連中は理解しなかった」と述べている。
 最新では、山本鉱太郎氏が「不景気な時代に、なにも我孫子のような辺鄙な田舎に大学など作る必要はない」という理由で「文部省が強硬に反対してその夢もつぶれた」と書いている(『手賀沼と白樺派の文人たち』「東葛文学なんでも事典」二〇〇三年三月刊)。
 山本氏は、著書『新利根川図志』の中で、小熊勝夫氏の「いよいよ校舎建設の段になると文部省が強硬に反対してその夢もつぶれた」という談話を紹介しているから、これを根拠にされたと思われる。
 しかし、永年文部省の要職をつとめ、歴代文部大臣とも懇意であった師範が、文部省の反対にあったなどとは考えにくい状況である。万一、そうであったとすれば、学習院の三浦梧楼院長との対立や森有礼文相への批判などを自伝で書き残している師範が、何らかの憤懣を語らないわけがないであろう。(その3へ続く)

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