葭の塾

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「我孫子の嘉納治五郎」(その2からの続き)

 あるいは経済的な理由だったのか? 
 秋谷氏によれば、「オリンピックの都度、委員として団長として、多くの選手を引率して海外出張を重ねた裏には隠れた出費があったはずで、死後かなり莫大の借財があったようだ」(『手賀沼と文人』前出)と、資金不足を匂わせる。鳴海氏も、これを受けてか、「環境は整備したが、校舎づくりの段になって、資金不足に悩んだ。」(『郷土あびこ第三号』前出)と述べている。鳴海氏の十一年後、一九九二年(十月)に柏高島屋で開催された「手賀沼を愛した文人展」の解説書の「嘉納治五郎」の項に、高田明英氏が「二万坪の用地を取得した学園構想も資金難から壮途半ばで方向転換を余儀なくされる。」と記しているが、鳴海・高田両氏とも、何分古い話で出典については記憶が薄れているとのことであった。

 私は、師範は公務多忙で学園建設どころではなかったのだ、と考えている。
 大正八年(一九一九)といえば第一次大戦が終った翌年のことで、パリ講和会議で戦勝国日本の地位は高まるが、三年後にはワシントン軍縮条約で屈辱的な比率を呑まされる。柳宗悦の同情を呼んだ朝鮮独立運動「万歳事件」に悩まされたのもこの年で、翌大正九年には経済恐慌から日本最初のメーデーが、大正十年には川崎、三菱造船所の大争議が起る。同年、平民宰相原敬が暗殺され、高橋是清内閣が発足し財政再建に邁進する。そして、大正十二年九月には関東大震災……内外ともに混沌とした世情は、師範の身辺にも怒涛の如く押し寄せたことであろう。

 加えて、忘れてならぬのは、大正七年から八年にかけて猛威をふるったスペイン風邪のことである。これによる死者は世界中で二千万人とも四千万人ともいわれ、日本でも罹患者二千五百万人、死者三十八万人余という惨禍をもたらした。当時のわが国の総人口は約五千五百万人であったから、実に国民の半数近くが罹患したことになる。
 師範の広汎な人間関係……親戚、友人知己、教え子の中に患者や死者が一人もいなかったことは想像できない。そうでなくとも、師範は東京高等師範校長として、また講道館総帥として、スペイン風邪の防御に必死で取り組んでいたに違いない。

 大正七年十二月に公布された「大学令」もまた、師範の多忙をいや増した大事件であった。本令は、従来大学は複数の学部が必要であったものを、「特別ノ必要アル場合ニ於テハ単ニ一個ノ学部ヲ置クモノヲ以テ一大学ト為スコトヲ得(第二条)」と改正して、いわゆる単科大学(カレッジ)の設置を認めたものであった。それまで、帝国大学五校だけだったのが、これを機に、官立、公立、私立の専門学校などが次々に大学へと昇格していくのだが、師範が校長職にあった東京高等師範学校は取り残されされた。

 それは、「第二条ノ二 学部ハ法学、医学、工学、文学、理学、農学、経済学及商学ノ各部トス」という条項にあった。教育学という学問は認めない、認めたとしても教育学だけでは教員は養成できない、教科全体にわたる知識と研究が必要となる、そうすると総合的な研究を行う帝都大学を増設したことと同じになる、政府としては東京に同じような大学は二つも必要ない……というのがその理由であった。
このような状況のなか、昇格運動は学生、教官、校長までも加わり、昇格か廃校かをかけた運動は昭和四年の「東京文理科大学」の設置まで続くことになる。
 解決の鍵は「文理科」という言葉にあった。帝都大学では文科と理科とは別の学科になっていたのである。教員は、文科、理科をあわせ持った視点が必要との理屈から、「文理科」を内容とする単科大学としてようやく昇格を果たしたのである。(社団法人 茗渓会HP)

 校長たる師範が、大学昇格運動の先頭に立って文部省へ激しく働きかけたことは年譜(『嘉納治五郎大系第十五巻』)にも記されている。
 大八・十二・三  東京高等師範学校で「昇格運動」が起こり、この
           日夕刻生徒大会行われる。
    十二・十五 学校長として「昇格運動」について中橋徳五郎文
           部大臣と会見、一応の諒解に達する。
    十二・十八 昇格問題報告会で演説、学校長として態度を述
           べる。
 大九・一・九   高等師範学校長の辞表を提出。
    一・一六  高等師範学校長を免ぜらる。   
    二    「有効の活動」誌上に「東京高等師範学校昇格問題
          の真相と拙者辞職の理由とについて」を発表。

 年譜の記述からは、結局文部省に拒絶されたため憤然とした師範が辞表を叩きつけたように窺えるが、「昇格問題の真相と拙者辞職の理由」を読むとそうでもなさそうだ。
 師範はこの一文で、昇格は多年の宿望であったが文部省は認めなかったとした上で、
「私自身は大学という名称には必ずしも拘泥せぬという声明を出していたから、名よりも実を取りたいと考えたが、職員生徒の多数は名にこだわったので、学内不一致を避けるために、職員生徒の要望をそのまま文部大臣に伝えることにした。大臣は希望的な返答をした。従って、私の辞職は昇格問題とは関係ない」と述べているのである。

 師範の多忙ぶりは、その他の年譜にも窺い知ることができる。
 師範は、大正九年六月から翌十年二月にかけて、八か月にわたる三度目の外国旅行を行い、八月にアントワープで第七回オリンピック大会に出席した後、大戦後欧州の教育事業を視察して帰国。大正十一年には、国民思想の善導と社会生活の改善を企図するための「講道館文化会」を創立し、以後各地支部作りに奔走する傍ら、貴族院議員に勅撰されている。翌大正十二年の関東大震災では、講道館は火災・倒壊を免れたものの、道場を開放して罹災者収容に傾注してもいる。
 嘉納塾閉塾にあたって、師範が述べた公務多忙と年齢的にきつくなったという二つの理由は、その後ますます激しくなっていたのである。師範は、学園構想を進めたくとも、時間的にも体力的にも、まったく余裕がなかったのではないだろうか。

 貴族趣味などではない、文部省の反対があったわけでも資金不足でもなく公務多忙のために学園建設が中座していたのだ、という類推が許されるとすれば、師範の学園構想は決して挫折などしなかった、という仮説が成り立ちそうである。
 ここに、仮説を裏付けてくれそうな、一つの材料がある。
 それは、神戸市の灘中学校・灘高等学校が、師範の尽力によって創立されたという事実である。灘中・灘高のホームページには、
「灘中・高等学校は昭和二年十月二十四日、灘五郷の酒造家両嘉納家及び山邑家の篤志を受けて旧制灘中学校として創立されました。
 創立に当たっては、嘉納家の親戚で、当時東京高等師範学校(現筑波大学)校長兼講道館館長であった嘉納治五郎先生を顧問に迎えて尽力いただき、校是にも柔道の精神『精力善用』『自他共栄』を採り翌三年に開校の運びとなりました。
 灘校の教育の基本を確立したのは、嘉納先生の愛弟子として初代校長に就かれた眞田範衞先生で、先生は灘校の『教育の方針』を定めるとともに、自ら校歌・生徒歌も作詞されました。」
と書かれており、事実、校歌の二番には、「『精力善用・自他共栄』の 校是に心の鏡を開き」という歌詞が取り入れられている。(その4へ続く)


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