葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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「我孫子の嘉納治五郎」(その3からの続き)

 師範が灘中創立に尽力したことは、年譜にもはっきりと記されている。
 昭二.一〇.八. 神戸の御影で明年4月開校予定の灘中学校に
            つき関係者と協議
 昭三.一月末頃  二月にかけて御影・大阪方面へ旅行、講道館
            文化会および灘中学校新設の用務を果す
    四.九   灘中学校開校入学式に列席し、講演

 このあとも、灘中学校に関する記述は頻繁に登場する。
 昭四.五.三一   江田島海軍兵学校・灘中学校で柔道・攻防式
             国民体育の指導・講演
 昭五.五.二五   月末〜六月にかけて灘中学校を訪問
    六.二一   灘中学校を訪ねる
 昭九.一.一六   真田灘中学校長と晩餐
    一.一七   灘中学校の文化会において欧州旅行談
    二.六    灘中学校にて日高理事・真田校長らと懇談
    三.一    灘中学校の卒業式に出席
    九.三    未明神戸着。当日、灘中学校にて昼食後、講演   
 昭一〇.一.一九  灘中学校長らと面談
     二.五   灘中学校に至り、柔道の授業を見る

 特筆すべきは「昭九.九.三」の記述で、「未明神戸着」とあるのは、この年四月二十三日にアテネ国際オリンピック委員会に出席のため東京を発って、釜山→満州→モスクワ→ワルシャワ→アテネ→ベルリン→ロンドン→パリと、四か月半もの大旅行の末にマルセーユから船旅で帰国したのだった。このとき師範は七十四歳、長旅の疲れをものともせず、未明に着いたその足で講演に出かけるというのは、いかに灘中学校を愛していたかの証左であろう。

 師範は、決して自己の教育思想を実現する学園構想を諦めてはいなかった。我孫子で構想を抱いて土地を求めてから十七年、嘉納塾閉鎖から八年を経て、師範は遥か離れた灘の地に理想の学園を建てたのではないか?
 次第に昂ぶる思いを押さえて、私は灘中学校に手紙を認めた。
 師範と我孫子との関係を記し、私の仮説を紹介したのち、
「一、貴校創立に当っては、嘉納先生ご自身も篤志を提供なさったのですか?
 二、嘉納先生の年譜に「昭和三年四月九日 灘中学校開校入学式に列席し講演」という
  項目がありますが、この時の講演記録が残っていれば拝見させていただけますか?」
の二点を質問し、一の問いは、もし嘉納先生ご自身も篤志を提供されたのであれば、農園に転用されたのは財政的な理由でないことがわかること、二の問いは、もし講演記録の中に、嘉納塾に言及して、自己の教育理念に基く学校をつくるのは宿年の願いであったなどという文言があれば、私の仮説が証明されることを説明した。

 三日後の日付(平成十五年四月十一日)で、河合善造校長直筆の回答が届いた。
「お問い合わせの二点ですが、いずれも記録は残っておりません。講演の記録があれば私共も読みたいと思います。灘中の創立当初の事につきましては、初代校長の真田先生の遺稿集の中に詳しく書かれています。その中から真田先生と嘉納先生の交流を示す部分のコピーを同封します。以上、お役に立てず申し訳ありませんでした。」

 灘中学校が学園構想の終着点であったという師範自身の言葉は発見されなかったものの、同封されたコピーからは思わぬ収穫が得られた。コピーには、亀岡高等女学校校長の職にあった真田に宛てた師範の電報と手紙四点が紹介されており、京都駅二階の食堂で真田を口説く師範の情熱が伝えられていた。師範は、まさに、全身全霊で灘中の創立に奔走したのである。その恩にこたえてか、灘中学校の校内には「柔道開祖 嘉納治五郎先生 生誕ゆかりの地」と題した碑が建てられている。

 『嘉納治五郎大系』第五巻、「学校教育者に望む」という諸稿の中に「教育者と修養」なる一文がある。そこで師範は、今日の中等教育は知識の習得に力が注がれている反面、修身教育が疎かにされていることを嘆いている。この文は昭和二年七月発行の『中等教育』誌に発表され、時期は灘中開校の八か月前のことである。おそらく、師範はこの思いを灘中創立の精神としたのであろう。

 戸川幸夫氏『小説 嘉納治五郎』には、仮説に拘っている私に有利な記述がある。
 一つは師範のモットーは、「なにくそっ」であったというのだ。財界の梟雄と称された五島慶太は、高等師範学校長時代の師範の講義の思い出に触れて、「週に一回の嘉納校長の修身科の講義は、最初から最後まで『なにくそっ』の一点張りで他の事は何も説かない。私は最初は変な先生だな、と思っていたが、これを一年間繰り返し繰り返し講義されていると、なるほどそんなもんかな、と解るような気がしてきた。実際、学校を終えて世の中に出てみると先生の訓えが本当に解った。勉強したものの大方は忘れてしまったが、今日でも頭に残り、一番役に立ったのはこの“なにくそっ”だった。これさえ忘れなければ、どんな困難にぶっつかってもやってゆける、という信念が生じた。嘉納先生の訓えに嘘はなかった」と、記している(『事業を生かす人』)。

 二つ目は、師範自ら語った次の言葉である。
「技を掛けて、その技が成功しなかったとしても、必ず幾分かは相手の体を不安定にしていることは疑いのないところだから、途中で止めて万事新規にやり直すのは無駄骨というものだから、このような場合にも、それからそれへと働きかけて行かねばならない。……
 以上のことは柔道に止どまらない。人間が世に立って何事をするのも、みな同一原理に支配されているのである。学校で学生が学業を修める場合も、老成の人が社会で事業をする時でも、前に少しでも力を尽くしたことが無駄にならぬように、それからそれへと働きかけて行かねばならぬ。前にしたことが十分の結果をもたらさなかったからと言って、そのまま捨て置くと全く無駄になってしまう。前にしたことが、なるたけ後からすることの助けになるように、換言すれば後からすることは、なるべく前にしたことを利用して、その上に築き上げるように工夫していかねばならぬ」

 三つ目は、嘉納塾の塾則第三にある「永遠の計を立つべきこと(最後の勝利を望むこと、凡そ人間の目的は一生涯の長計を立てて掛らねばならぬ)」という訓えである。
これらの記述は、嘉納治五郎という人は、一旦ことを始めたからには決して諦めずに「なにくそっ」精神で完遂する人であることを現わしている。

 ひとたび学園構想を抱いた以上、師範はその夢を絶対に棄てなかった……師範は「それからそれへと働きかけて」、夢の実現を志したに違いあるまい。
 あるいは嘉納後楽農園も、そうした働きかけの一部であったのではないだろうか。つまり、学園予定地を農園にしたのではなく、札幌農学校のように、農園として始めたものを後に学園にするつもりだったと考えられないだろうか。
 嘉納塾の塾則の第一には「労役を尊ぶこと」、第二には「質素を尊ぶべきこと」とある。この塾則に従い、嘉納塾では午前四時四十五分起床、部屋、便所、外回りの清掃、風呂、ランプの掃除を申しつけ、粗衣粗食で冬でも火鉢を使わせない生活を送らせたという。日の出と共に始まり自給自足を旨とする農作業は、まさに「労役」と「質素」を満足させる絶好の条件であったと思われるのである。(その5へ続く)


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