葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

全体表示

[ リスト ]

「我孫子の嘉納治五郎」(その4からの続き)

 私の仮説を整理してみると、以下のようになる。
 
 誰かに勧められて我孫子を訪れ、ひと目で手賀沼の風光に魅せられた師範は、地価の安さに惹かれて手持ちの資金の許す限り二万坪強の山林原野を買い求める。少し離れたところに手ごろな別荘用地があったので、これも買うことにする。このとき土地の使途はまだ漠然としたものであったが、別荘を建てて住んでみると、教育者の自然な発想として、理想の学園をつくりたいという気持ちが高まった。

 師範の頭にあるのは、当然、嘉納塾のことで、そのころから負担になり始めていた嘉納塾を環境豊かな我孫子に移して発展拡大できればいいなと考えたのだ。還暦を迎えて、師範は遂に嘉納塾を閉じる決断を固め、同時に学園建設の工事に着手する。校門予定地まで並木道が出来あがったところで公務はますます多忙を極め、師範は計画の順序を変えて農園の建設を先行させる。師範が理想としたのは、勤労の貴さを教えるために、校内に農園を持った学園だった(勿論、学園内には広い柔道場が設計されていたに違いない)。

 激務に追われている師範に、突然、灘の本家筋から私立中学校を創設したいのだが力になってくれないか、という依頼が舞い込んだ。かねて中等教育に一家言あった師範は快諾し、公務の間隙を縫って灘中学校創設に奔走する。既に亀岡女学校の校長職に在った教え子の真田を口説いて校長に据え、晩年もっとも好んだ造語である「精力善用」「自他共栄」の書額を寄贈し、開校式には自ら望んで講演を行う。以後、師範は、折にふれて灘中を訪れて、まるで我が子のように成長を見守る。

 師範は、灘中をもって、我孫子の学園のモデルケース試金石としたのである。灘中創設で得たノウハウは、必ず我孫子で活かすことができると考えたのだろう。創立後十年を経て、灘中は師範の理想とした中等教育の場として成長を遂げる。カイロで東京オリンピック招致の大仕事を終えた師範は、帰国したら人生最後の大業として我孫子の学園建設にとりかかろうと思っていたのかもしれない。今度は真田校長に新設校の校長の人選を依頼するつもりだったのではないか、というのは私だけの秘めやかな想像である。

 以上、近在の郷土史家たちが伝えてきた師範の我孫子に残した足跡を、私なりのアプローチで辿ってきた。師範と我孫子のつながりを知る人は、講道館関係者の中でも少なくなった。この一文を読んで、嘉納別荘跡や嘉納後楽農園跡を訪ねてみようと思われる方が増えれば、私にとってこれに勝る喜びはない。ご一報いただければ、進んで案内役をかって出る所存である。

 因みに、私は昭和二十四年から一年間、灘中学校で学んだ。当時の講堂には、「精力善用」「自他共栄」という大きな二枚の横書の書額がかかっており、生徒たちはその意味と併せて、それが本校を創立した嘉納治五郎先生が柔道の精神を校是として定めて自ら揮毫されたものであることを教わったことだ。
元より、本稿の動機は、この記憶から出発している。(この稿完  平成十六年二月記)

   
                           

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事