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「ブランデージの贈り物?」

 二〇〇四年のアテネオリンピックは史上空前のメダルラッシュで幕を閉じました。獲得したメダルの総数は三十七個、二十三回のロサンゼルス大会の三十二個を二十年ぶりに更新し、中でも金メダルは東京大会の十六個に四十年ぶりに肩を並べました。とりわけ、十六個の金メダルのうち八個までが柔道というのは、講道館関係者にとってこの上もない喜びであったことでしょう。柔道だけのメダル数で東京大会と比較すれば、東京が金三、銀一に対してアテネは金八、銀二で、男子は金銀同数なれど東京では種目になかった女子が大活躍して金五、銀一を上積みしてくれたというわけです。

 四十年前とはいえ、私たちの年代はアジアで初めて開かれた東京オリンピックを、まるで昨日のことのようにおぼえています。昭和三十九年十月十日、「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、すばらしい秋日和でございます」という北出アナの名調子で始まった開会式のテレビ中継は、「戦後」が終わったことを確実に感じさせてくれました。女子バレー、男子体操、重量挙げ、レスリング、柔道などで獲得した米ソに次いで第三位の金メダル数は、国民に自信を植え付けてくれました。大会に備えて開通した名神高速道路、東海道新幹線、羽田モノレールなどのアクセス施設によって一変した国土風景は、豊かな時代への幕開けを信じさせてくれたものでした。

 しかし、全国民が熱狂したあの東京オリンピックに先立つ二十四年前に、戦火の蔭に消えた「幻の東京オリンピック」があったことは、今や遠い記憶の底に埋没されそうになっています。
 皇紀二千六百年を記念して日本が総力を挙げて招致に邁進したこのアジアでほんとうに初めてのオリンピックの最大の功労者は、嘉納治五郎(以下、師範と敬称)でありました。
 柔道家としての功績、教育家としての功績のほかに、師範がIOC(国際オリンピック委員会)委員として偉大な功績を残したことを忘れてはなりません。

 明治四十二年(一九〇九)、四十九歳でアジア最初のIOC委員に選ばれた師範は、当時オリンピックには無知で無関心なわが国体育界を説得して、早くも三年後の第五回ストックホルム大会に参加することを決意させます。かかる師範の獅子奮迅の活動については、講道館図書資料部長の村田直樹氏『嘉納治五郎師範に学ぶ』十四章「五輪招致に捧げた後半生」(〇二年ベースボールマガジン社刊)に詳述されています。以来、師範は、船とシベリア鉄道しかない時代に、ほとんど毎回のオリンピック大会に団長としてあるいは代表として参加し、合間に開催されるIOC総会に出席するのです。

 師範は昭和十三年(一九三八)五月四日、バンクーバー出航の日本郵船氷川丸船上で急性肺炎のため亡くなります。それはエジプトのカイロで行われたIOC総会で、二年後の第十二回オリンピック大会を東京に招致することを確定させた帰路のできごとでした。
 享年七十八歳、欧州諸国がこぞってヘルシンキ開催を推す中で、東京招致に成功したのは、まさに師範が老骨に鞭打って奔走したおかげでした。
 師範の死後、僅か二か月のちの七月に、日本政府はオリンピックの中止を表明します。
 こんな残酷な結末を知らずして逝った師範はある意味で幸せだったのかもしれません。

 オリンピックとサッカーW杯の招致合戦については、現代でも水面下の駆け引きが盛んなものですが、当時、はるか離れた極東の島国へオリンピックを招致するには決定的に不利な材料が多々ありました。
 第一に航空機のない時代でまた国際航路もなく、ヨーロッパから日本に出かけるのは最低一か月は要し多大の経費がかかること、第二に近代ホテルが不足している上に外国語に堪能な人材が少ないこと、第三に日本特有の残暑と湿気は外国人選手には堪え難いと思われていたことなど、日本国内でも危ぶむ声が多かったのです。加えて昭和八年より日本は国際連盟を脱退し、国際社会から孤立状態にありました。

 これほどの不利な条件を抱えながら、昭和十一年(一九三六)七月のIOCベルリン総会に於いてIOC委員の投票結果が東京三十六票VSヘルシンキ二十七票、予想外の大差で東京に凱歌があがったのは、師範のスピーチが委員たちの心を打ったからでありましょう。
 日本中が歓喜に沸きかえり、「東京、遂に勝てり」という見出しが当日の新聞、号外を特大活字で埋め尽くしたことでした。

 しかし、翌昭和十二年七月、盧溝橋事件から始まった日中戦争は諸外国の対日感情の悪化を招き、東京大会に対する反対が高まります。IOC会長ラトゥールはかくなる状況を考慮して、一年後のカイロ総会で、東京大会の開催問題を再討議することにしたのでした。
 昭和十三年(一九三八)三月十三日、ナイル川を下る豪華客船ヴィクトリア号の船内で討議は開始されます。欧州諸国からの厳しい詰問と師範の懸命の抗弁……東京大会の開催が最終的に承認されたのは白熱した論議の末でありました。

 この間の事情は、先の村田直樹氏『嘉納治五郎師範に学ぶ』に詳述されています。同書によると、師範は総会後の感想をユーモアを以って次のように語ったといいます。
「今度の会議は、筏に乗っているような気持だった。突き飛ばしてくる人もあれば、足を持って引き摺り落そうとする者がいる。我々は水中に落ちないように頑張って、やっと対岸にたどり着けた」
 だが、軽口とは逆に、議場を出てきた師範はひどく疲れて見えたそうです。

 にも拘らず、師範は総会後、ギリシャに赴きアテネで前年死去したクーベルタン男爵の葬儀に参列し、米国シカゴに飛んでのちニューヨークからシアトルへ空路横断、車でバンクーバーへ移動し、四月二十三日出帆の日本郵船氷川丸に乗船するという強行日程をこなすのです。
 繰り返しますがこのとき師範は七十八歳、氷川丸船上での急死は会議の心労に加えて、この強行日程が命を縮めた一因であったことでしょう。
 
 クーベルタンは東京大会が決まった時、
「第十二回オリンピックが東京で行われることは、日本の使命が、これまでのどの国に与えられた使命より、遥に重大なことである。……東京オリンピックは、単にオリンピックの火が世界を照らし、アジアでオリンピックが普及する、ということだけではない。古代ヨーロッパ文明の最も貴重な遺産であるヘレニズムが、最も洗練されたアジアの文化と結びつくことである」
という、胸が熱くなるようなメッセージを送ってくれていますし、その上IOC葬ともあれば、委員としての師範がクーベルタンの葬儀に参列したのは当然の行動と思われます。

 しかし、そのあと、師範はなぜ米国へまわったのか? 
 村田氏の著書には「米国IOC委員アベリー・ブランデージ等に日本支持の感謝を表明し、東京大会へできるだけ多くの選手を派遣して欲しい旨を伝えた」とあります。
 意外なことに、英国と英連邦諸国が真っ先に東京大会反対を唱える中で、戦争とオリンピックは別物であると主張する日本の論理を支持し続けたのは米国であったというのです。
 カイロ会議の後、日本代表団が東京に打った電報は、「米国ヲ除キ辛辣ナル言説アリシモ大会東京開催ハ現状維持トナレリ……終始一貫協力シタルアメリカニ感謝ス」というものでした。

 これを読んだとき、仮説好きの私の胸中にざわざわと騒ぐものを感じました。
 もし、そうであるなら、昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックはIOC会長に栄進していたブランデージの師範に対する贈物だったのではないか、という仮説でした。とすれば、東京大会で初めて競技種目に認められた柔道もまた、師範に対する友情の発露ではなかったのか、と。
 わざわざ米国へ寄って謝辞を述べてくれた師範が、帰国の船中で亡くなったというニュースは、ブランデージにとって衝撃的なものであったことでしょう。ブランデージが日本を支持してくれたのは、アジアにおける初めてのオリンピックの意義を認識していたことにあるのでしょうが、師範の人となりとひたむきな情熱に魅せられたという一面があったに違いありません。(その2へ続く)


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