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「ブランデージの贈り物?」(その1からの続き)

 講道館機関誌『柔道』昭和十三年八月号には「世界の嘆き」と称して各国から師範に寄せられた弔意が紹介されており、ブランデージは次のように語っています。
「嘉納さん急逝の報は今耳にしたばかりで驚いている。カイロでは連日の奮闘で疲労された模様であったが、数日前シカゴの私の事務所でお目にかかった折には非常に健康そうであった。何れにしても嘉納さんは立派な《サムライ》であり、典型的教育家であり、そのスポーツ界に対する貢献は長く追憶されるであろう。同氏の逝去により米国スポーツ界は友人を失った。私は心から哀悼の意を表する。」
 師範の死をかくも痛切に悼んでくれたブランデージが、二十四年後に追憶のしるしをかたちにしてくれたとするなら、これほどロマンチックな話はありません。

 高まる胸を押さえつつ、私は当時の新聞報道に根拠を求めました。
 講道館の資料部には、柔道が初めてオリンピックの正式種目に決定した喜びを伝える新聞の切り抜きが揃っています。私は、てっきり日本からの強い要望に対してブランデージ会長が快諾してくれた、と思い込んでいたのですが、事実は意外なものでした。東京大会に柔道を正式種目に加えてほしいという声は、むしろフランスをはじめ欧州各国から起って、これをオット・メイヤーIOC事務局長が組織委員会事務総長の田畑政治氏に伝えたというのです。これを報じた昭和三十五年四月十三日付の報知新聞には、「あまり突然な話でびっくりした」という田端氏の話と、「(正式種目に加えてもらう運動の)準備にとりかかるところだった。そういう話があるとすれば、さっそく手続をとりたいと思う」という国際柔道連盟・嘉納履正会長の話が掲載されています。

 これに対してブランデージ会長はむしろ慎重意見で、
「オリンピックに柔道が加わるとすれば正式種目かデモンストレーションかということになるが、競技種目として正式に採用するにはいろいろ問題がある。第一は柔道という競技を一般の人だけでなく、スポーツ人の間にも理解させる必要があること、第二はIOCのほかに種目を減らして大会の規模をもっと小さくしようという考えがあるので、ここでまた種目をふやすことに反対の声が出る可能性もある。さらに欧州でも柔道の選手は教師を職業としているためアマチュア資格についてもむずかしい問題があり、これをまずはっきりさせる必要がある」
と語っているのです(昭和三十五年八月十九日付読売新聞)。

 結局、柔道は同年十二月二十二日の組織委員会総会で全会一致で認められ、近代五種、弓、ハンドボール、カヌーの四種目を削って前五回の大会と同数の十八種目が定められるのですが、この間ブランデージ会長が積極推進派に変ったという記事は見出せませんでした。

 ブランデージには別に『近代オリンピックの遺産』という自伝的回顧録があります。
 この中で日本が一九四〇年にオリンピック大会招致の意思を明かにしたとき、二つの理由からこれを強く支持したことが述べられています。第一は、クーベルタンは「大会は全世界のものである」として世界各国で開催することを理想としていたので、遠く離れたアジアの端の日本で開催することになれば、クーベルタンの理想を実行に移すことになること。第二は、米国NOC委員長として一九三二年のロサンゼルス大会の際に、選手団長の岸清一氏をはじめ日本チームの幹部たちと知り合い、そのスポーツ人としての高い識見にすっかり感心したことの二つといいます。

 同著には続いて、大会開催能力の視察を兼ねて訪日したときの印象記を、
「教育の普及度では世界最高のレベルを持ち、友好的で丁重、そして控え目で親切な人々、細かいところまで綿密に手入れのゆきとどいた美しい国土、日常生活における自然や美への愛着、美術館に収められた素晴らしい美術品の数々――こういったことすべてが、私の日本に対する好意的な見方を一段と強いものとしたのである」
と、最大級の賛辞で飾っています。

 その後、日本文化及び日本人に対する礼讃は七頁にわたって続くのですが、師範に言及したのはたった一行半、
「岸清一博士や嘉納治五郎先生(講道館柔道の創始者で、私が一九一二年のストックホルムの第五回オリンピック大会に出場したときの参加者の一人であった)のあとを継いでIOCの日本代表となった人たちと、私は常に密接な連絡を保っていた」
という素っ気無い記述だけしか見当らないのです。

 オリンピックに関係した日本人の名前は、歴代のIOC委員のほか十三名も出てくるのに、ブランデージにとって最も忘れ難い人であったはずの師範が、ただの一言で片付けられているのは納得いきません。
 そういえば、昭和三十九年の東京オリンピックの経緯も、
「戦後、日本は直ちにオリンピック委員会を再発足させ……一九五二年のヘルシンキ大会には戦後初の代表チームが送られた。一方、東京(と札幌)のオリンピック開催の意欲は少しも弱まっておらず、国内情勢が安定し、大会を開催できるという自信が生れてくると、再びIOCに対して大会招致申請が出された。一九五九年に第十八回オリンピック大会の東京開催が認められた」
と、およそ当時のIOC会長であった人らしくない、他人事のような書きっぷりです。

 東京オリンピックと柔道の種目採用はブランデージの師範に対する二十四年越しの贈物だったのではないか、という私の仮説は、どうやら資料を見る限り、証明されそうもありません。
 でも、私は拘っています。IOC会長であったがゆえに、ブランデージは厳正中立を保たざるを得なかった、会長の恣意的な指示によって開催地を決めたり競技種目を新設するようなことは自ら固く戒めていた、と考えたいのです。

 とくに新種目として柔道が認可されたことについては、かねてより師範について聞かされていたオット・メイヤー事務局長が会長の意を体して、ひそかに欧州各国へ手を回して、当時もっとも柔道が盛んだったフランスから要請を出すように働きかけたという推測も可能です。フランス柔道育ての親は、かつてのNHK人気ラジオ番組「とんち教室」の石黒敬七氏ですから、のちにレジオン・ドヌール勲章をもらうほどの氏が舞台裏で活躍してくれたやも知れません。

 ブランデージは自分から指示するようなことはなかったけれど、開催地が東京に決まり柔道が新種目として認められた時に、おそらく「これで師範に恩返しができた!」と思ったことでしょう。
しかし、そう思ったことすら書き残さなかった。なんとなれば、ブランデージは(後世のサマランチ会長と違って)、クーベルタンの思想を信奉しアマチュアリズムを貫いた高潔な人だったからだ、と私は睨んでいるのです。

 国立競技場と東京体育館の間に細長い公園(明治公園)があります。 その明治公園の正面辺りに、向かい合って石碑が建っています。右側のレリーフは日本オリンピック委員会(日本体育協会)初代会長嘉納治五郎師範で、左側にあるのがクーベルタン男爵です。
 これらは東京オリンピックが開催された年に、IOC(国際オリンピック委員会)が創立七十周年にあたることを記念して建てられました。

 師範の碑文には、こう記されています。
「一九六四年 第十八回オリンピック競技大会は この地において華々しく開幕された 日本へオリンピックを持って来よう これは 日本人として最初に選ばれた国際オリンピック委員会委員であり 我国スポーツ界の先覚者である日本体育協会初代会長 故嘉納治五郎先生の多年の念願であった この碑は 先生の遺志を継ぎ そして実現した我々後輩が先生を偲び 併せて オリンピック東京大会を 記念して建立するものである
 昭和三十九年十月十日 
 財団法人 オリンピック東京大会組織委員会 会長 安川第五郎           
 財団法人 日本体育協会            会長 石井光次郎」
 講道館で柔道を学ばれる方の中で、この記念碑の存在を知っておられる方がいったい何人おられることでしょうか。

 思えば、アテネオリンピックを伝えるマスコミ報道の中で、師範がわが国のオリンピックに果した功績に言及したものはごく僅かでした。アテネばかりではない、ここ数十年来のオリンピック報道に遡っても、記者の勉強不足なのでしょうか、師範の名前はほとんど出てきません。私たちは、オリンピックといえば真っ先に師範を思い浮かべなければいけない……私の仮説がいささかでも師範に思いを馳せるよすがとなれば幸甚です。(この稿完 平成十六年十月記)


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