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「嘉納治五郎 書号と書額」

 嘉納治五郎という人は書家としても一流を究められた人で、雄渾闊達の書風に揮毫の依頼はひきもきらず、その書額は今も全国に残されています。

 嘉納の書額と書号については、横山健堂氏(『嘉納先生伝』昭和16年4月刊)と森本角蔵氏(『嘉納先生揮毫の語句の解説』雑誌「柔道」昭和26年5月〜27年11月号掲載)に詳しく、両氏によると、揮毫の語句の一部だけでも50余り、戦争前に全国の道場、学校に掲げられていた書額は合計226面を数えたといいます。「順道制勝」(81面)、「精力善用」(66面)が圧倒的に多く、以下「力必達」(21面)、「心身自在」(12面)、「盡力」(11面)と続き、「精力善用」とともに嘉納が後年座右の銘とした「自他共栄」は意外に少なく5面と記されています。いずれも易経、書経、また孔孟語録から出たものが多く、時として嘉納自身の造語によるものもあります。

 用いた書号(雅号)は三種類で、60歳までは「甲南」、60代は「進乎齋(しんこさい)」、70代は「歸一齋(きいちさい」と断定するのは横山氏で、このうち「歸一齋」については、一度、20代の時に用いられてその後は用いられなかった、と注釈があります。このことは、講道館草創期の四天王といわれた者のうち、保科(西郷)四郎、山田(富田)常次郎、山下義韶の三人に贈られた「本體証書」の写真(『写真図説・柔道百年の歴史』講談社1970年11月刊に掲載)によって証明されます。証書の日付は前から明治18年6月、同9月、明治20年1月とはっきり記され、それぞれに「歸一齋 嘉納治五郎」という署名が読まれます。明治18年6月といえば嘉納は24歳、つまり「歸一齋」という号はすでに20代から使用していたことになるからです。

 森本氏は、「甲南」は「わかいころに」、「進乎齋」は「60ごろから」、「歸一齋」は「70歳ごろから」用いられた、と幅のある表現をします。それぞれの意味は、「甲南」は六甲山の南、出生地を現わし、「進乎齋」は出典はよくわからないが易経ではないかと想像、「歸一齋」はやはり出典はわからないが荀子「百王之法、不同所歸一也(同ジカラザルモ帰スル所ハ一ツナリ)」ではないかと想像する、と記しています。

「歸一齋」については「歸一」という字句があるから荀子で間違いないとして、「進乎齋」で森本氏が挙げた易経には「進乎」の字句はなく、意を汲んだというに留まっています。出典不明とあらば調べてみたくなるのが私の性分で、暇に任せてネットを検索していたら、荘子の『養生主篇』の中に次のような言葉が見つかりました。
「臣之所好者道也。進乎技矣。(臣ノ好ム所ノ者ハ道也。技ヨリ進ム。)」

 これは魏王・文恵君に牛の解体の妙技を誉められた料理人が答えた言葉で、「私が好むのは道であり、技は二の次である」という意味です。牛の解体を始めた頃は、牛しか見えなかったが、3年すると、牛の各部分が見えてきて、牛刀を入れる場所がわかってきた。今では、心で牛を捉え、目で見なくなった。刃を入れるべき筋に沿って、牛刀を動かしているので、決して無駄な力を使わない。従って、19年解体を続けても、牛刀の刃こぼれは一つもない、と料理人は答えたといいます。

 この故事より荘子は、道(天の理)を知り尽くした行為こそが、無駄な動きのない行為(無為)となる。道を悟るには技を究める精進が必要だが、技を超える域に達しないと無為には行き着けない、と説いたのです。
「技を超える域に達して初めて道を悟ることができる」というのはまさに嘉納の信条にぴったりで、「進乎齋」の書号はここから来ているものと考えていいでしょう。

 それにしても用いた語句といい書号といい、嘉納治五郎の漢籍の素養の深さは尋常なものではありません。それも道理で、嘉納の父・次郎作まれしば希芝は、近江国坂本日吉大社の神官で且つ和漢洋に通じた学者であった正三位しょうげんじ生源寺まれたけ希烈の四男(一説には次男)で、父から十分に学問を仕込まれ、絵画も良くした教養人でありました(戸川幸夫『小説嘉納治五郎』)。

 しかし嘉納家の養子に迎えられたこの父親は、公私頗る多忙で家のことはほとんど顧みる暇がなく、嘉納六歳の時に山本竹雲なる画家、あるいは山本なる医者の家に通わせて習字や漢学を学ばせます(嘉納治五郎『回顧六十年』)。10歳の時、母親が死亡して東京の父親に引き取られた嘉納は両国の成達書塾に入り、うぶかた生方桂堂のもとで書道と漢学を修めます。桂堂は嘉納の人物の卓越性を見抜いて特別に心を用いて訓育し、四書五経の素読は既に国許で習得していたので、国史略、日本外史、十八史略、日本政記と順を追うて素読を授け、書の方は一日必ず3帖(半紙60枚)は丁寧に習字せしめたといいます(前出『嘉納先生伝)』)。
 嘉納の書の巧さと漢籍の素養は、これら少年時に育まれたものなのです。

 嬉しいことに、嘉納が別荘を構えたわが我孫子にも、嘉納書額は次の5面が残されています)。
一.「力必達(チカラヒッタツ:ツトムレバ必ズ達ス)」 
  書号は「進乎齋」で、我孫子第一小学校の体育館に懸架されています。
  語句の意味は森本説によれば、中庸の20章の要約をした嘉納の造語と思われます。学習院柔道部と京大柔道部の道場には同じ額が架かっています。嘉納の高弟・西郷四郎がモデルといわれる富田常雄『姿三四郎』(下巻「不借の章」)の中にも、三四郎が矢野正五郎(嘉納治五郎)の書いた『力必達』という額を掲げた紘道館(講道館)道場を懐かしむ場面があります。

二.「以人為鏡(イジンイキョウ:人ヲ以テ鏡ト為ス)」
  書号は「歸一齋」で、我孫子第一小学校の玄関に懸架されています。語句の意は、ネットの検索により、中国唐時代唐高宗の名相魏徴の名言「以銅為鏡 可以正形 以人為鏡 可以正身」(銅ヲ以テ鏡ト為セバ形ヲ正スベシ、人ヲ以テ鏡ト為セバ身ヲ正スベシ)に基いていることがわかりました。

三.「擇道竭力(タクドウケツリョク:道ヲエラビテ力ヲツクス)」 
  書号は「歸一齋」で、市役所の市長室に懸架されています。最初の二文字が判読できず、いろいろ識者に当って最後に秘書室よりメールで教えていただきました。この語句の出典は検索不能で、嘉納の造語と思われます。

四.「従善如流(ジュウゼンジョリュウ:善ニ従フコト流ルルガ如シ)」 
  書号は「歸一齋」で、角松旅館の客室に懸架されています。語句の意は、「善いことに従うのが水の流れのように速く、自然でとどこおることがないこと(『成語林』)」で、平安時代初頭に源為憲が道長の子・頼通のために書いたといわれる『世俗諺文』ということわざ辞典の元祖に登場します。『世俗諺文』には、現在のことわざ辞典にも載っている「良薬口に苦し」「千載一遇」などがすでに記載されていました。出典を辿れば『春秋左氏伝』で、斉の桓公がそういう人となりであったといわれます。

五.「三樹荘(サンジュソウ)」 
  書号は「歸一齋」で、三樹荘跡、村山正八氏邸の玄関階段上に懸架されています。「三樹荘」とは柳宗悦の旧邸、邸内に椎(スダジイ)の古木が3本屹立しているところから嘉納が命名して、書額に仕立てたものです。(その2へ続く)

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