葭の塾

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「毛沢東の賛辞」(その1からの続き)

 中でも驚かされるのは、日本陸軍士官学校(以下、陸士と略記)に中国留学生を受け入れたことでした。『日本陸軍士官学校中華民国留学生名簿』(台北、文海出版者刊)によると、第一期(明治三十三年?)から第六期(四十年十二月〜四十一年十一月)までに実に四百名以上もの留学生が陸士に学んでいます。

 そればかりではない、陸士に入るための準備教育を施す、いわゆる陸士の予備校として、参謀総長・川上操六を校長にいただく「成城学校」や、のち、清国公使・蔡鈞が保証を拒んだために成城学校へ入学できなくなった学生たちのために「振武学校」が開校します。これらの卒業生から陸士に進んだ学生の中には大将・中将になったものもあり、以後二十年、中国軍隊の重要人物の姓名はほとんど両校の在籍名簿にその名を見出せるとまでいわれます。

 いかに日清戦争に勝利したとはいえ、いつまた戦火を交えることになるやも知れぬ隣国に、士官学校を開放して戦略戦術の要諦を学ばせるという、この時期明治政府の鷹揚さはどうでしょう。「遠交近攻」は『史記』以来の外交策の鉄則であるはずで、案の定、それから三十数年後に日中両国は不幸にも再び戦争状態に入るのです。

 その三は、師範の留学生教育に示した情熱とその教育精神の高邁さです。
 師範は明治二十六年九月に高等師範学校長に任ぜられています。それまで小学教員の養成所であった各地の師範学校が、新たに中学師範養成の機関「高等師範学校」として生まれ変わったのは明治十九年のことで、東京地区のそれは明治三十五年に「東京高等師範学校(東京高師)」と改称されたのを機に、翌明治三十六年に校舎を大塚に移転します。

 一方、明治二十九年三月に留学生教育を引き受けた師範は、同年四月に神田三崎町に一戸を借りて学校及び寄宿舎とし、学生数の増加とともに三十二年十月には同じ三崎町の新しい家に移ります。ここも手狭になったため、時の外相・小村寿太郎に勧められて牛込西五軒町に大邸宅を借り受けて弘文学院と称するのは明治三十四年十一月のことでした。この弘文学院が宏文学院と改められたのは三十六年、清国乾隆帝のいみな諱が弘暦であったため、留学生の一部に校名に弘の字を用いるのは好まないものがいたことによるといわれます(以後、宏文学院と記します)。

 宏文学院はその後もますます増加する学生に対応して、本院のほかに四つの分教場と、七つの外塾を矢継ぎ早に開校しています。
 これはすなわち、師範は高師の新任校長として早や三年目に西園寺公の命を受けて学院の土地校舎さがしに奔走し、高師の校舎を移転する大事業の傍ら、異国の留学生のために宏文学院の施設拡充に注力していたことになります。

 師範の教育精神の高邁さは、清国人を軽侮また敵視せず日本人と一視同仁とし、互いに相手を対等の人として信頼し合い、相輔けて世界の文化を進むべきことを教育方針として徹底させたことでありました。戦勝に酔って清国人を見下し、辮髪を指してチャンチャンボーズとあざわら嘲笑った当時の世相から見て、師範の示した方針は信じがたきものでありました。講道館図書資料部には、学院で学んだ後帰国した留学生たちが師範に送った感謝の手紙が多数保管されています。師範のこの寛容な態度こそが、のちに唱導した「自他共栄」の精神に引き継がれてゆくのです。

 その四は、宏文学院に入学した学生の数の多さと質の高さです。
 学院開学中の十三年間に入学した学生は七一九二名、うち卒業(修業)した者は三八一〇名の多きを数えました。最盛期の明治三十九年末には一五五六名の学生が在籍したといわれ、学院があった牛込東五軒町界隈はあたかも支那の学生町ともいうべき景観を呈したと伝えられます。

 卒業生の中で特筆すべきは、何といっても魯迅でありましょう。魯迅は明治三十五年(一九〇二)に入学し、二年間の学業(日本語及普通速成科)を終え三十七年四月に卒業したのち、医学を修めるため仙台医学専門学校へ入学します。しかし、医学では中国人民の精神状態は治せないと悟った魯迅は、文筆の力によって覚醒を促そうと決心して文学の道に入るのです。帰国後勃発した辛亥革命(一九一一)に密かな期待を抱きますが、革命は挫折し、数年に及ぶ絶望の沈黙の果てに最初の小説『狂人日記』(一九一八年)で半植民地と化した祖国の現実を鋭く暴き、続いて『阿Q正伝』を発表して漸く名を成します。この間中国の内乱は相次ぎ、国民党の残虐さを目撃した魯迅はマルクス主義に接近し、中国左翼作家聯盟の指導者となります。

 冒頭に記した毛沢東の論文を掲載した『新青年』の主筆、陳独秀も宏文学院で学んでいます。『新青年』(一九一五年創刊)は、打倒孔子を起点として一切の旧弊に反対することを謳った雑誌ですが、いわゆる「文学革命」、中国文章史上画期的な口語文体(白話文)を確立したことで知られ、魯迅の『狂人日記』が掲載されたのも『新青年』でありました。陳は魯迅と同年の入学ですから、多分二人は相知る仲で、『新青年』への掲載はその縁からだったかも知れません。

毛沢東は魯迅をもって「中国第一等の聖人」と評しました。上海にある魯迅記念公園の墓碑に刻まれた「魯迅先生之墓」の文字は毛沢東の筆によるもので、ここにおいて魯迅、陳独秀、毛沢東という中国近代史を彩る三大人物の輪が、師範を巡って繋がることになります。(参考までに、魯迅は陳より八歳、毛より十二歳、歳上でありました。)

 宏文学院の出身者には、もう一人、黄興という大物がいます。黄興は孫文の盟友としてともに辛亥革命を指揮した人物で、これまた魯迅と同じ年に入学しています。黄興は在学中に同郷の学生たちと土曜会なる反清結社を組織します。
 学業半ばに帰国した黄興は、早々と秘密結社を率いて一九〇四年に西太后七十歳の誕生日を期して挙兵を図りますが、事前に事が漏れて日本に亡命します。孫文と出会ったのは翌一九〇五年の夏、宮崎滔天の紹介によるものといわれます。余談ながら、滔天は黄興の風貌が西郷隆盛に似ているところを大いに愛し、西郷の墓参りに連れ出したりしています。

 現代中国の国歌の作詞者として名を留める田漢もまた、宏文学院で学んだ人物です。田漢は修業後、東京高等師範に進学しますが学業半ばで帰国し、のちに魯迅らの左翼作家聯盟に加わります。映画人でもあった田漢は抗日映画『風雲児女』を制作、主題歌として自ら作詞した「義勇軍行進曲」(作曲者は、左翼文化運動の同志だった音楽家の聶耳)は中国全土で大ヒットします。「もろびと心を一つに、敵の砲火をついて進め!」という力強く昂揚的なこの歌は、民族の解放を追求する決心を示したものとして再評価され、作詞後四十七年も経った一九八二年十二月の全国人民代表大会において中華人民共和国の正式の国歌と定められたのでした。

 しかし、歴史はまことに皮肉な展開をみせます。宏文学院の例ばかりではなく、日本で学んだ清朝留学生のほとんどが、時勢に目覚めて反政府運動に関わっていくのです。国家再生を託したはずの留学生たちは国家打倒を叫びはじめ、明治三十八年(一九〇五)には黄興が指導する湖南派学生を中心として「中国革命同盟会」が結成されます。革命運動の高まりを危惧した清国政府は日本政府に対し過激な留学生の取締りを要請、これを受けて文部省は留学生監督令を公布します。これに抗議した留学生たちは宏文学院を皮切りに七校でストライキに入り、この行動を批判した朝日新聞の記事に対して投身自殺をした学生が現れたため騒動は益々大きくなり、この年の末から二千人の留学生が一斉帰国するという事件が起ります。

 この間、師範の留学生たちを見る眼は、揺れ動いているようです。
 柴崎信三氏『魯迅の日本 漱石のイギリス』(日経新聞社)によると、
「弘文学院を開いた直後、中国を視察して帰国した嘉納は、留学生のリーダーでのちの袁世凱政権を支えることになる楊度と、留学の意義を巡って論争を繰り広げている。
 在野の志士や若者は開明的な思想で急進的な改革を進めようとしているが、目標実現のためには儒教倫理に基づく保守主義に凝り固まっているエスタブリッシュメントの連中の信用を勝ち取ることが必要だ、と戒める嘉納に対し、楊は『近代ヨーロッパ各国の歴史を見ても、どこの改革も進歩も外圧や騒動なしに勝ち取られたものはありません』と反論した」と、あります。

 師範は「目標実現のためには手段を選ぶことが肝要だ」と説いたのですが、幼年時より四書五経に親しんだ師範が儒教倫理を重く見ていたことは否定できません。一方留学生のほうは打倒孔子に凝り固まっている連中ぞろいで、「魯迅ものちに、いささか古めかしい中国的教養に裏打ちされた嘉納の教育方針と留学生たちの意識との行き違いを巡る弘文学院の空気を」こう記していると、柴崎氏は書いています。
「或日の事である。学監大久保先生が皆を集めて言うには君達は孔子の徒だから今日は御茶の水の孔子廟へ敬礼しに行こうと。自分は大いに驚いた。孔子様と其の徒に愛想尽かしてしまったから日本へ来たのに又おがむ事かと思って暫く変な気持になった事を記憶して居る(『現代支那に於ける孔子様』)」(その3へ続く)

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日中戦争時代の毛沢東の言葉
「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。

日本社会党訪中団との会見における毛沢東の発言
1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は
「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」
と返した。
この発言をした1964年は大躍進政策の失敗後であり、文化大革命の前夜であった。

2012/10/28(日) 午後 0:51 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ] 返信する

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