葭の塾

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「毛沢東の賛辞」(その2からの続き)

 しかし、それよりのち明治三十五年『国士』四十四号に発表した一文で師範は、清国が覚醒することは「実に清国の為に慶すべきのみならず、世界の為に亦慶すべき事なり」と断じます。清国が欧米列強に分割されるのは世界騒乱の元になる、清国が保全発達することはわが国をして騒乱の渦中に投ずる不幸を免れしめることにもなるのだ、という論旨の背景には、その前年に起こった北清事変によって列強に分割されかかった清国の憂うべき情勢があります。事ここに至れば、喫緊の課題として、時勢に目覚めた留学生たちがたとえ急進的であろうとも母国の覚醒を促す速やかな行動に出ることを、師範はむしろ期待しているように思えないでもありません。

 この一文の中で、師範は続いて、このため留学生にはより高度の専門教育を施したいから、今後は本国で普通教育を済ませた者を派遣されたい、と要求しています。師範の要求に応えたのか、清国政府は、本国の中学堂、師範学堂を卒業後に留学先の語学を修得したものでなければ留学を認めないことに方針変更します。不幸なことに、この方針変更は逆効果を呼びます。以前から清国の留学生派遣先が日本に独占されていることに不満をもった欧米諸国から招致運動が行われたせいもあって、その後の日本留学生は急激に減少するようになり、経営が立ちゆかなくなった宏文学院は明治四十二年七月に閉鎖に至ります。
学院の閉校式にあたって、師範の述べた挨拶は「清国からの依頼によって清国人教育の学院を設立したが、今日その依頼が無くなったので閉鎖する」という趣旨のものでした。この淡々たる語調の中に、「事、志と反した」という師範の無念の心情が垣間見えるような気もするのです。

 さりながら、師範がひたむきに留学生教育にあたったことは紛れもない事実でした。
 のちに日本へ留学した周恩来も学んだ松本亀次郎をはじめ、野の逸材を発掘しては教員に招きました。学院の教育には様々な工夫をこらし、日本語の授業と併せて日本の国情を知るために、教員に学生を連れて近郊の名所を巡らせました。体育を重視して秋には運動会を開き、寄宿舎では中国人向けの食事を配慮しました。
 授業内容は、日本語と英語、日本が摂取した西洋自然科学、地理歴史や世界情勢、さらには修身を加えました。国家の隆運を進める基礎となるものは国民教育である、その目的は国民全体の智力を進め、徳性を養い、体力を練らしむことにある、というのが師範の信念でありました。

 学院閉校より二年後の一九一一(明治四十四)年に辛亥革命が勃発し、宮崎滔天、頭山満らの援助を得た孫文が初代臨時大総統にかつがれて、清国は滅亡し、中華民国が誕生します。この辛亥革命の武装蜂起に真先に呼応した将校二十一名のうち十九名は日本士官学校留学生であり、各地で統一行動を指揮した将校や活動家も十九名中の十四名は日本留学生でありました。孫文はやがて袁世凱に追われますが、新生中華民国初の国会議員選挙で当選した両院議員八七〇人のうち、日本留学経験者は二三四名、宏文書院出身者は二〇名の多きに上ったといわれます(前出・鈴木明氏著作)。清国再生を託された留学生たちは、清国を倒して新国家を樹立する道を選択したのでした。

 以降、中国大陸は幾多の合従連衡と内戦を繰り返したのち蒋介石が台頭し、第二次大戦後、蒋介石を台湾に追い落とした毛沢東の共産中国(中華人民共和国)が生まれます。それから五十年、現代中国はアメリカと対峙できるほどの超大国に成長しつつあります。
 清国は滅びても中国人民は外国の侵略をはねのけることに成功したのです。師範の真摯な教育は、欧州諸国や日本に肩を並べる国家にしたいという清朝の切なる要望に見事に応えた、といっていいのでしょう。

 残念なことに現代中国では、師範が新生中国に果たした功績などはまったく伝えられていません。中国各地の展示では、孫文すら彼の日本時代は「国父」が日本と関係があってはならないかのように故意に抹消され、魯迅記念館でも日本留学の事実は一行で片付けられていると、宮崎正弘氏は述べています(平成十六年十二月一日付産経新聞「新地球日本史」)。

 実は、師範は、千九百八十年代の中国人にもっとも親しまれた日本人の一人であったといいます。それは一九八一年の春から約一年間、全国ネットで放映されたテレビドラマ『姿三四郎(ツーサンスーラン)』(一九七〇年日本テレビ製作)で、竹脇無我のカッコいい姿三四郎とともに、矢野先生こと師範の沈着剛毅なイメージが中国観衆に深い印象を与えたのでした。
「放映当時の人気はまったく凄いもので、番組のある夜には、街の不良もいっせいにどこかのテレビにかじりついているので、おまわりさんは大喜びとか冗談めいた噂がとんだほどだった」といわれます(前出・厳氏著作)。

 しかし、これはあくまでドラマの俳優としての人気で、その矢野先生がのちに魯迅も学んだ嘉納治五郎という人物であることなどは知ろうとする人もなかったことでしょう。厳氏は同書の中に続いて、「(中国側が)嘉納治五郎という人をもっと紹介したければ、その留学生教育の功績と草創期の中国近代教育への影響を世にひろめればよかろう」と嬉しいことを書いてくれています。

 因みに厳氏は、戦後久しく途絶えていた中国からの留学が再開されてすぐ日本に学び、東大大学院で今世紀初頭の清国留学生の軌跡を研究テーマとした、まことにわが国にとってありがたい人物で、流暢な日本語で書かれた『日本留学精神史』は大佛次郎賞を受賞しています。氏は執筆時は北京外国語大学の中に置かれた日本研究を中心とする大学院である北京日本学研究センター長の職にありました。

 まこと、師範は根っからの教育者でありました。それは、東京帝国大学の政治・理財科を卒業したときに、出世高禄を保証された官吏への道を一点の迷いもなく断り、さらに一年哲学選科にとどまって在学して学習院の教師に奉職したという経歴に現れています。
 師範は、政治・産業・軍事、どれをとっても、またそれがいかにすぐれたものであっても、五十年、百年をまたずしてその形を変えてしまうのであるが、しかし、教育は違う、「一人の人のなせることが、その一生の間にさえ何万人にもその力を及ぼし、さらにその死後、百代ののちまでその力を及ぼすことが出来る」と言うのです。その意味を師範自ら漢語にあらわした「教育之事天下莫偉焉 一人徳教広加万人 一世化育遠及百世(教育ノ事天下之ヨリ偉ナルハ莫シ 一人ノ徳教広ク万人ニ加ハリ 一世ノ化育遠ク百世ニ及ブ)」という有名な言葉は、そのまま、師範の墓所である東京都立八柱霊園の頌徳碑に写されています。

 師範が施した徳教には、日本人ばかりではない、中国人までが広く万人に加(くわ)わったのでした。
古来、隋唐の時代から日本は中国を師と仰ぎ、数限りない文物・制度を採り入れてきました。近代になって清国がはじめて日本に学ぼうとしたとき、師範が率先してこれに応えたのは、教育者としてのごく自然な行動であったことでしょう。

 近年、なにかと軋轢を増してきた日中両国の関係の中で、百年も前に、中国の発展に力を注いだ師範のような純粋な日本人がいたことを、私たちは語り継いでいかなければならないのです。(この稿完 平成十七年十月記)

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日中戦争時代の毛沢東の言葉
「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。

日本社会党訪中団との会見における毛沢東の発言
1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は
「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」
と返した。
この発言をした1964年は大躍進政策の失敗後であり、文化大革命の前夜であった。

2012/10/28(日) 午後 0:44 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ] 返信する

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