葭の塾

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   啄木を抜擢した人?(続き)

 これらの疑問を解くためには、玄耳談話が載っている『文藝日本』大正十四年十月号の全文を読む必要があります。朝日の社史に引用されているのは談話の断片に過ぎず、まずは玄耳が楚人冠に相談したことをほんとうに語っていないのかどうかを確かめなければなりません。
 ネットで検索してみると、求める『文藝日本』は幸いなことに国会図書館にマイクロフィルムで保管されていたので、私は早速出かけてコピーを手に入れました。
 朝日の社史が出典として記す吉田氏の「『朝日』時代の啄木」は「藝苑夜話(2)」と題する三段組五頁にわたる記事で、おそらく雑誌所有者の筆になるものか、無数の傍線と欄外の書き込みが残されています。
 玄耳との会見記は三頁目、
「『啄木についての思い出話をおききしたいが』という意味の手紙を送ったら、『今病気で床についているが、話位なら差し支えない』という返事が来たので、六月一日の夕方僕は初めて氏の閑居を代々木に訪ねた。」
という文からはじまります。
 そのあとに続く玄耳の談話はいずれも朝日社史が引用する通りで、ほかに選者の報酬は十円だったとか、『一握の砂』の序文を頼まれて書いたことなどいろいろ喋っていますが、楚人冠についてはひと言も触れていませんでした。
 なお、玄耳の話が終ったあと、吉田氏はその印象を、
「渋川氏の談話は徹頭徹尾、啄木を賞めもしなければ、けなしもしない、公平の観方を公平に話してもらったのが何より嬉しかった。」
と記しています。
 吉田氏にとって、楚人冠の手紙は、玄耳談話の公平さをも否定されたことになるのです。

 碓田のぼる氏の著作『石川啄木の新世界』(「石川啄木と杉村楚人冠」の章)によれば、楚人冠と玄耳とは両人とも明治五年生まれの同年齢で、親交があったといいます。玄耳は「国学院に学んで古事記や万葉集にも通じ、また奇しくも楚人冠と同じ英吉利法律学校(のちの中央大学)の出身であったから、忽ち意気相投じた」と自ら記し、楚人冠の処女随筆集『七花八裂』の序文を頼まれて書いた仲でもありました。玄耳は一身上の恋愛問題と朝日社内の紛争のため、啄木の死から半年後に退社するのですが、その折も楚人冠が奔走してやった、とあります。
 それほど親密な関係であるのなら、玄耳は楚人冠に相談したことを隠す理由は見つからない。にもかかわらず、玄耳は自分ひとりで啄木を抜擢したようなことを言っている……これはひょっとして、玄耳のほうがほんとうのことを言っているのではないか? とも思えてきます。
 いったい真実は、玄耳と楚人冠のどちらにあるのでしょうか?

 冷静に考えてみると、この楚人冠の手紙には納得できないところがたくさんあります。
 その一は、楚人冠は玄耳が言わなかったことをわざわざバラすような人ではない、と私は思っています。曾ての親友でいまは病の床にある不遇の友への惻隠の情として、玄耳が自分で決めたと言ってるのならそれでいいじゃないか、とする態度こそが、楚人冠に相応(ふさわ)しいというべきではないでしょうか? 
 その二は、楚人冠が手紙の最後に、「貴作を読んで昔を思い出して、こんなことを書いてしまいましたが、これは人に見すべきものに非ず、無論世に公けにすべきものにも非ずとご承知を願います。」と書いていることです。「人に見すべきものに非ず、無論世に公けにすべきものにも非ず」というのなら、最初から玄耳談話を否定すべきではなかったのです。
 参考までに、楚人冠の手紙の中略部分は、病床の啄木に「なけなしの財布の中から二十円ほど」送った話が書かれています。これもとりようによっては、玄耳の話と同様、言わずもがなの自慢話であって、他の諸々の挿話(エピソード)が伝える楚人冠の人柄とは著しく異なっています。
 その三は、楚人冠ともあろう人が、まだ一度も会ったことのない若い駆け出し記者に手紙で、いきなりこのような自慢めいた秘話を打ち明けるものだろうか? という疑問です。
 手紙の日付の大正十四年末といえば楚人冠は働き盛りの五十三歳、前年四月に我孫子へ移って心身ともにリフレッシュして名作『湖畔吟』を書き始めた頃でありました。『湖畔吟』の村人描写のあたたかさとこの手紙から漂う一種の傲慢さが同一人に属するとは、私にはとうてい思えないのです。
 そして第四は、楚人冠の手紙の中の、
「啄木が死んで文名とみに高くなると、生前さも親しく世話でもしたような顔をしたがる者が急に出て来ましたが、…」
という行(くだり)と、吉田孤羊氏の前掲「『朝日』時代の啄木」に書いた、
「近来、啄木の名声が高まるにつれ、さして啄木と深い交渉のなかった人々すら啄木を偶像化して無暗に賞めちぎったり親しい交わりをしたことなどを誇らかに語る人々の多いのは、多少苦々しさを感じないのでもないのであるが、…」
という一節とが、よく似た表現であるのが気になります。

《啄木を抜擢して世に出したのは玄耳なのか楚人冠なのか?》ということからスタートした私の「?(はてな)」の旅は、いつか、《玄耳と楚人冠のどちらがほんとうのことを言っているのか?》という「?(はてな)」に変り、最後に、《楚人冠はほんとうにこんな手紙を出したのか?》という、とんでもない「?(はてな)」に辿り着いたようです。
 この手紙は、楚人冠ファンの私にとっては、まことに後味の悪いものになりました。
 まさか著名な啄木研究家である吉田氏が、天下の朝日新聞にニセ手紙を発表することはないでしょう。といって、もしこの手紙がほんものなら、私が楚人冠に抱いていたイメージは壊れてしまいます。
 真贋を問うためには、この手紙の現物を手に入れて、それが楚人冠の筆跡によるものかどうかを見きわめる必要があります。でも、正直言って、啄木を抜擢したのは渋川玄耳でも楚人冠でも、どちらでもいい。私はただ、楚人冠にはこんな手紙を出してもらいたくなかった、という痛切な思いにとらわれているのです。(完)

(後記)一九九〇年七月に刊行された『朝日新聞社史 明治篇』が、その三十年も前の一九六一年(昭和三十六年)四月に朝日新聞に掲載された吉田氏のコラムを全く無視して、玄耳抜擢説を唱えているのはどういうことでしょうか? ひょっとして社史執筆者は楚人冠の手紙の不自然さを見抜いたのでしょうか?
 思い立ったが吉日で、早速朝日の読者相談室にこの旨問い合わせのメールを送ったところ、広報部からワープロ二頁の手紙が届きました。さすがは朝日と評価して開封しましたが、ピント外れの内容で、回答者の名前も記されていませんでした。(完)

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杉村楚人冠の章。ちょっとミステリアスで面白かった。石川啄木を世に出したのは、彼か渋川玄耳か?筆者は玄耳説。では吉田某に出した楚人冠の自慢話の手紙は本物?ココで終わっているのがもどかしい、天声人語三人組、楚人冠、如是閑、新垣秀雄フアンの私としてはー。

2007/9/8(土) 午後 3:18 [ rok*jin*9*6 ] 返信する

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