葭の塾

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中勘助の章の壱

     「地獄の道づれ」

 「あはれな人よ。なにかの縁あって地獄の道づれとなったこの人を 兄さん と呼ぶやうに、子供の憧憬(しょうけい)が空をめぐる冷たい石を お星さん と呼ぶのがそんなに悪いことであったろうか」
 「地獄の道づれ」……『銀の匙』後篇の四節に出てくるこの一語に込められた兄への憎悪の表現に接したとき、私は呆然とさせられました。これは釣り好きの兄に付き合わされた帰り道で星にみとれていた勘助が、「なにをぐずぐずしてる」といわれて「お星様をみてたんです」と答えたら、「ばか。星っていえ」と怒鳴りつけられたときの描写です。いくらなんでもこれっぱかしのことで、血を分けた実の兄を「なにかの縁あって地獄の道づれとなったこの人」と呼ぶようなことは、私にはとうていできません。
 兄はそのあとの節にも登場します。
 五節では、棚機様(たなばたさま)の短冊に見とれている勘助に一喝を食らわしたり、「波の音が悲しい」という勘助を睨みつけて「ひとりで帰れ」と置き去りにしたりします。六節では、勘助が拾い集めた貝や石をみんな棄ててしまえといい、気に入った法螺貝だけは棄てかねていると拳固をふりあげます。 七節では、兄が網を打つところを見ずに白い石を拾おうとして叱りつけられた勘助は、ついに「兄さんが魚をとるのに僕はなぜ石をひろっちゃわるいんです」と、はじめて兄に反抗してその場を立ち去ります。

 いずれも兄の非道な仕打ちを物語る描写ですが、お星様の一件を除いては、感情を押さえて客観的な事実だけが述べられています。不思議なことに、『銀の匙』前篇では兄が登場するのはたったの一箇所(三十二節)で、高等中学で柔術をやっていた兄が、学校へ行きたくないと駄々をこねる勘助の衿くびをいきなりつかまえて、「さんざ畳へたたきつけたあげく続けざまに頬っぺたを打」つ場面があります。ずいぶん荒っぽい仕打ちなのですが、伯母さんがかばってくれる描写だけで、兄を怨む文言はありません。
 五節以降の一連の描写においても、それらがいずれもお星様のあとの節で書かれたにも拘らず、怨嗟の言葉どころか、生まれつき軟弱な「私」を鍛え直すための「厳しい教育」の一種であったろうと、好意的な見方すらしているのです。七節で兄と訣別する場面では、去り際に、「あんなにいふけれどきっとやっぱし寂しいんだらうとおもって」「兄さん、兄さん、居てあげませうか」と声をかけるが兄は知らん顔で、「それからは私たちは決していっしょに出かけなかった」と結ばれるのです。
 いったいに、『銀の匙』全編に流れるのは、中勘助特有の事実だけを淡々と述べる語り口です。ところが、お星様の一件では、突如「破調」して、憎悪の感情がむき出しにされます。しかも、「地獄の道づれ」という凶々(まがまが)しいまでの呼び方をもって。

 中勘助は、私にとって、忘れられない作家です。
 いつかも書きましたが、私は昭和二十四年から一年間、灘中学校で学びました。灘中の授業はまことに独創的なもので、終戦間もない時代とはいえ、先生方はみな市販の教科書などは採用されず、それぞれ手書きのガリ版刷りの教材を使われました。国語の担任のH先生は、読書と作文を合わせた読後文を書くことをことのほか奨励され、正読本として採用されたのが『銀の匙』でありました。
 いま、私が終の棲家と定めた我孫子市の手賀沼沿いの分譲地の地続きに、半世紀以上も前にその名を知った中勘助の仮寓跡があるというのは、まこと不思議なご縁というほかはありません。お互い手賀沼のほとりに住んだ奇しき縁(えにし)に惹かれて、私はこれまで未読だった『沼のほとり』を読むことにしたのでした。
 
 本編は大正九年三月から十二年十一月まで沼べりの高嶋家に身を寄せていた勘助が、沼の自然と素朴な村びとたちを綴った随筆ですが、その丹念な、まるで水墨画を思わせるような描写にいたく満足したことでした。特に、
 「粉雪がしんしんとふる。沼のむかう岸がときどきほんのりとみえてはまたかくれてしまふ。灰色の靄みたいなものが沼のうへにたちこめて重くるしく水が淀んでゐる。汀の枯葦もさびしい。渡し場の藁屋根もおもしろくなった。麦畑、葱畑も埋まってきた。(九年十二月三十一日)」
という冬景色の描写、また、
 「沼は鎔銀のやうにとろりと湛へ、森も畑も青白くかすんで、光に白む空を燕が声もなくとんでゐる。蝉があちこちに時を得がほにがざがざと鳴く。夏がきて雲はみな憑かれたやうにうごきだした。(十年八月九日)」
という夏の夕べの描写などは、工夫をこらした平仮名つかいの文体を得て、まことに美しいと感嘆させられました。

 それから『銀の匙』の再読にかかりました。
 読み出すと、たちまち懐かしい場面が次から次へと現われて、私は一瞬にして十二歳の少年に還りました。私たちの子供時代には駄菓子屋さんも健在で、勘助が親しんだ麦粉菓子や肉桂棒も味わいました。綾取りやかくれんぼうは遊びの定番で、《蓮華の花ひらいた》や《かーごめかごめ》の遊戯も経験しました。投げつけると着物にくっつく(ほーれ草)や(犬じらみ)は私たちでは(くっつき虫)と言って、悪さによく使いました。そして、勘助のほのかな初恋の人となったお国さんやお漾覆韻ぁ砲舛磴鵑砲蓮∋笋肋学校時代に好きだった女の子の面影を投影していたのでした。
 とりわけ、虚弱で智慧遅れで自閉症気味の勘助をどんな場合でも守ってくれる伯母さんの描写が素晴らしい。勘助が加藤清正、伯母さんが四天王但馬守になって、《長い廊下の両はじに陣どって戦ごっこ》をする場面などは前編のクライマックスといっていいでしょう。
 
 しかし、後篇に入るとどこかに違和感を覚えます。勘助の「私」はにわかに増上慢になって、級友たちをばかもの呼ばわりしはじめるのです。その挙げ句に、兄への憤懣が語られる。
 たとえば、四節の出だしは、
 「兄はその年ごろの者が誰しも一度はもつことのある自己拡張の臭味をしたたかに帯びた好奇的親切……から生まれつき自分とはまったくちがった風に形づくられて西と東に別れゆくべき人間であった私をまことに行きとどいた厳しい教育の力によって否応なしに自分のほうへ捩じむけやうと骨を折った。」
という、もってまわった憎しみを秘めた言いまわしではじまります。

 『銀の匙』岩波文庫(二〇〇三年十月十日改版第七刷)には、昭和十年に書かれた和辻哲郎の解説が付せられています。和辻はその中で、
 「『銀の匙』には不思議なほどあざやかに子供の世界が描かれている。しかもそれは大人の見た子供の世界でもなければ、また大人の体験の内に回想せられた子供時代の記憶というごときものでもない。それはまさしく子供の体験した子供の世界である。子供の体験を子供の体験としてこれほど真実に描きうる人は、(漱石の語を借りて言えば)、実際他に《見たことがない》。」
と書いています。
 だが、私は敢えて異論を唱えます。
 「あはれな人よ。なにかの縁あって地獄の道づれとなったこの人を 兄さん と呼ぶやうに、子供のしょうけい憧憬が空をめぐる冷たい石を お星さん と呼ぶのがそんなに悪いことであったろうか」
という表現が「子供の体験した子供の世界」といえるでしょうか? それはまさしく、大人になった勘助が回想して感じたものでありましょう。
 たしかに、前篇では勘助は「子供の体験を子供の体験として」「真実に」描いてきました。子供の感情なんてものは、うれしい、たのしい、かなしい、さびしい、こわい、おそろしい、すき、きらい、きれい、きたない、などなど、いわゆる原始的表現でこと足れるのであって、勘助はそれを忠実に守っていました。それが『銀の匙』の持ち味であったのに、ここで作者は、突然、大人の眼で兄を眺めるのです。(続く)

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久しぶりに再読開始です。
懐かしい読書家の文章を嬉しく味わっています。
勘助の「子供の眼」から「大人の眼」への記述視点の転換の指摘は見事で参考になる。

2007/10/27(土) 午前 10:52 [ yon**5544 ] 返信する

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ここで言う地獄とは、ヌルヌルした魚や汚い道など、勘助にとって嫌でたまらないものを指す勘助の地獄であり、その地獄に無理やり連れて来た人を、地獄の道連れと呼んでいるのです。哀れな人よ、は憎悪ではなく同情です。 削除

2009/10/12(月) 午後 10:17 [ 下田 ] 返信する

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