葭の塾

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   「地獄の道づれ」(続き)

 生涯にわたって兄への確執が勘助にあったことは、多くの研究者によって語り尽くされています。そうであれば、兄に対する積年の鬱積した感情が執筆中に込み上げてきて、勘助は無意識のうちに大人の眼に戻ったといえましょう。
 しかし、後篇の十節には、
 「私は学校へあがってから『孝行』といふ言葉をきかされたことは百万遍にもなったらう。さりながら彼らの孝道は畢竟かくのごとくに生を享け、かくのごとくに生をつづけてることをもって無上の幸福とする感謝のうへにおかれてゐる。そんなものが私のやうに既にはやく生活の味をおぼえはじめた子供にとってなんの権威があらうか。」
という記述があります。
 勘助は、兄に対する描写だけではなく、一般論においても執筆時の作者の眼に基いた見解を述べているのです。

 『銀の匙』後篇は前篇とは明らかにちがう……はっきりいえば、《破調》しているのです。和辻の解説によれば、漱石は後篇を「前篇よりもいっそう高く評価した」とあります。和辻も漱石も、この《破調》に気づかなかったというのは、まことに不思議です。(嬉しいことに、富岡多恵子氏は私と同様の疑問を呈しておられます『中勘助の恋』)。
 後篇は当初『つむじまがり』という題で、前篇と同じ「東京朝日新聞」に連載されたといいます。いっそその題のままのほうがよかった、と私は思っています。『銀の匙』の後篇として収めるのであれば、少なくとも十一節の少林寺の遊び以降が適当でしょう。特に十六・十七節の伯母さん訪問と、十八節の友人の別荘滞在中の出来事(友人のねえさま姉様との出会いと別れ)は、後篇の中の白眉のシーンと評価していい。
 
 伯母さんがいなければ夜も日もなかった勘助が、十六歳の春休みに「老いさらばって見るかげもなく痩せこけた」伯母さんを訪ねる場面は、かの太宰治が『津軽』で、子守りのたけとの再会を果す場面に匹敵する感動を覚えます。
 十七歳の夏に友人の別荘の浴槽で、湯の表面に先に入った姉様の脂がうす白く光っているのに気がつく場面はまことに官能的で、その姉様と始めて顔を合わせるところの情景描写はため息が出るような名文です。
 こんな拙(つたな)いほめ言葉ばかりを連ねていてもしょうがないので、姉様が梨をむいてくれる仕種を綴った原文をお見せしましょう。
 「食器がさげられたあとに果物がでた。姉様は大きな梨の中から甘さうなのをよりだして皮をむく。重たいのをすべらすまいと指の先に力をいれて笙(しょう)の笛みたいに環(わ)をつくる。その長くそった指のあひだに梨がくるくるとまはされ、白い手の甲をこえて黄色い皮が雲形にまきさがる。ほたほたとしずくがたれるのを姉様は 自分はあまり好かないから といって皿にのせてくださる。それを切りへいでは口へいれながら美しいさくらんぼが姉様のくちびるに軽くはさまれて小さな舌のうへにするりと転(まろ)びこむのをながめてゐる。貝のやうな形のいい腭(あご)がふくふくとうごく。」
 エンディングの別れの場面もまた名画のワンシーンを見ているようで、このリリシズムこそが中文学の真骨頂といっていいでしょう。作者は、ひと言の感情表現も使わずに、挙措動作を述べるだけで、姉様へのほのかな恋情をみごとに描き切ったのです。

 それだけに、かえすがえすも後篇前半の《破調》が私としては悔やまれてなりません。
 『つむじまがり』は大正四年の新聞連載ですが、岩波文庫に『銀の匙』後篇として所載されたのは昭和十年で、その間作者は大幅の削除をしているというのに、この《破調》に気づかなかったのでしょうか?
 もし私が実力ある編集者であるのなら、後篇の兄に関する描写では大人の眼で書かれた部分を削除させ、七節の兄に初めて背く場面をもってすべてを表現させます。自己主張の強い一〜三章と十章も同様に削除させます。
 こうすれば、前後篇を通じて、香気の一貫性が保たれます。そうなると、わざわざ前篇後篇に分ける必要がなくなるのかもしれない。
 いずれにせよ、こうすることで、『銀の匙』は名実ともに日本文学不朽の名作になったことだろう、と私は不遜な思いを抱いているのです。(完)

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