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中勘助の章の弐

    隠された素顔

 勘助と兄との不和確執はよく知られた話で、『銀の匙』以降も数々の作品の中で、勘助はしつこいほどに書き続けます。
 兄金一は勘助の十四歳年上で、東京帝国大学医学部を卒業、ドイツ留学を経て三十四歳の若さで福岡医科大学(のちの九州帝国大学医科)の教授に就任します。しかしその四年後(明治四十二年七月)、金一は脳出血で倒れ言語機能をおかされて失職、以後七十一歳で亡くなるまで妻末子を扶けて勘助が面倒を見ることになりました。
 因みに金一は中家の次男で、長男、三男、四男が夭折したため、金一の再起不能後は五男の勘助に一家の責任が付託されたのです。
 思考能力が減退し片言しか喋れなくなったといえ寝たきりというのではなく、金一はもっぱら釣と碁を趣味として、妻末子と弟勘助に過大な奉仕を強要します。毎日毎晩、釣道具の手入れや製作を命じられ、碁の相手をさせられ、何かといえば怒鳴りたてたといいます。
しかし、これらはすべて勘助の記述によるもので、反論能力を失った人を相手に一方的に弾劾するのはいかがかと思わせます。勘助が『銀の匙』(後篇の四)で、兄を「地獄の道づれ」呼ばわりしたとき、兄金一はすでに廃疾状態にあったのです。

 看病疲れがたたってか、末子は昭和十七年四月に蜘蛛膜下出血に続く冠状動脈閉塞症で死亡(五十九歳)、金一もその半年後に七十一歳で生涯を閉じます。
 末子の死の直後から日記体で書き継がれて昭和十八年五月に刊行された『蜜蜂』は、彼女に対する鎮魂の書というよりは密(ひそ)かな愛の告白書といっていいでしょう。ここでも、末子を追慕するあまり、兄の彼女に対する暴虐ぶりが散々語られるのですが、終章には、
 「私は兄さんを心から気の毒に思ひます。兄さんはあなたの後を追っていったのでしょう。もし兄さんに出逢ったらこれまでのことは水に流してやさしく迎へてあげてください」
という、まことにやさしい言葉があります。
 亡くなるすぐ前の幾日かに兄と筆談を交わす場面は感動的で、何遍も頭をさげてすまなかったと詫びる兄を、
 「この一面甚だ小心且つ善良な人を或は暴君にし、邪悪の人にし、屡ば悪鬼羅刹のごとき形相をとらせたものは一つには家族制度とその道徳の欠陥だと思ひます」
と、恕してやっているのです。
 (救われた)と思った私は、しかし、兄の没後二年足らずで(昭和二十年六月二十五日)書かれた作品の『遺品』を読むに及んで、愕然とさせられます。そこには、
 「功名利達を人生唯一の目的とする明治初年人の典型だった兄は、……陰に陽に人びとの前に私を恥かしめ貶めることに骨を折った。」
とか、
 「気の毒な兄はその因果な性格のために五十幾年私に対するいはれのない敵意から開放されることができなかった。といふよりはその毒を含んだ性格がいつでも噛みつけるやうに鎌首を立てて機会をうかが覘ってゐた。……兄はその年齢、腕力、家族的、社会的地位等自分に有利なそれぞれの条件を悪用して殆ど手段と場合とを択ばず私を誹謗し、侮辱し、嘲笑し、冷遇し、虐待した。」
とか、
 「低能になった不治の病人に下卑た狡さばかりが健全に残ってゐることに対して情けないいやな思ひをしながら……」
とか、勘助はありとあらゆる語彙を動員して兄を罵り続けているのです。
 『蜜蜂』であれほどやさしい心になって兄を恕した勘助が、その舌の根も乾かない二年後に一転して悪罵をぶつけるというのは、どう考えても尋常ではありません。ましてや死ねばみな仏になるという日本的精神風土の中で、こうまでして死人に鞭打つことはあるまい、と私などは思ってしまうのです。

 ひょっとして中勘助という人は二面性をもった人ではないか……そう思った私に絶好の材料を与えてくれたのが、前章で挙げた富岡多恵子氏の労作『中勘助の恋』でありました。
 同書の冒頭で紹介される勘助の作品『郊外 その二』の中で語られる友人の娘・江木妙子に対する感情とその行動は、読んでいて背筋が寒くなるほどの異常さです。勘助は八つか九つの幼女を「妙子さん」と呼び、妙子には「中ちゃん」と呼ばせます。可愛くてしょうがない勘助は毎日のように友人宅を訪問して、両親の前で抱き上げキスを繰り返し、求婚までするのです。 三十過ぎの独身男と八つか九つの幼女とのこの関係はまさしくロリコン以外の何ものでもありません。
 勘助はその二年後に、和辻哲郎の五歳の娘京子へも片仮名の長文の恋文を送っています。
 「京子チャンナカオヂサマワアナタノオカオガミタクテタマリマセン ダケレド……アソビニユキタクテモアンヨガイタクテアルケナイシカナシクナッテシマイマス ナカオヂチャマガオオキナコエデナイテイルノガキコエルデショウ (中略) デモジュウハチニチニワアソビニユキマスヨ ソノトキワナカヨクシテチョウダイ アタシバッカリニ ホカノヒトワドウデモイイカラ サヨウナラ オヤスミアソバセ      ナカオヂ」

 富岡氏は、勘助のこの異常性癖を精神医学でいう「小児愛(ペドフィリア)」と断言することは避けながらも、不思議なことに妙子や京子の両親はもとより『郊外 その二』を読んだ友人たちも、またのちの批評家、研究者もだれひとりとして問題視していないことを指摘します。勘助自身が「子供に対する私の愛は殆ど病的であり、また狂的である。(『街路樹』)」と告白しているにもかかわらずです。
 同じ症例を『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルに見出した富岡氏は、キャロルが六十六歳で死ぬまで独身だったのは、彼が成人した女性と関係できぬ「小児愛」者だったからだと、暗に勘助が五十七歳まで結婚しなかった理由を推察しています。

 昭和三十二年の「新潮」一月号に、七十一歳になった勘助は『呪縛』という小文を発表して、ロリコンの相手であった江木妙子の母親万世(ませ)から、思いを寄せられていたことを暴露します。万世は勘助の一高時代からの友人江木定男の妻で、のちにかの鏑木清方のモデルにもなった「輪郭の鮮明な彫刻的美人」でした。
 勘助は万世にひそかな恋心を抱きつつも、定男と万世の「一途な恋愛」が始まると「心から成功を祈」り、結婚後の彼女は「別人のごとく明朗快活」になり、「完全にうまの合った夫婦であり、申し分のない伴侶」となりました。
 その万世が谷中の寺で世間と絶った生活をしていた勘助を訪ねてきて、「初めから私を思ってた」と告白をしたというのです。谷中の寺とは、年譜によると大正元年十月から勘助(二十七歳)が寄宿していた上野寛永寺真如院のことで、夫定男はもちろん存命中で、万世は結婚六年目の若妻でありました。
 そればかりではない、定男はそれより十年後の大正十一年に病死するのですが、そのため「世間的にも家庭的にも急に淋しく頼りなくなった彼女の私に対する感情は飛躍的に亢(たか)まり、度たびそれを訴へて結婚を望んだけれども私はすげなく聞流した」「怨まれつつも彼女の心からの同情者、慰安者にとどまり…この美しい未亡人の心の支柱となるよりほかはなかった」などと、ぬけぬけと書いています。
 勘助は妙子についても、結婚前に「一生そばにゐて世話をしたい」と言われたことや、「お母様と結婚なさいよ」と勧められたことも書いています。
 
 惚れた話を書くのはいいとして、惚れられた話を書くのは男の沽券にかかわることだ、と私は思っています。富岡氏は、「勘助がこれを書いた『呪縛』は七十一歳の時であり、定男と万世は勘助二十一歳の時であるから、五十年後に復讐を遂げたのであろうか。」と述べています。
 いずれにせよ、妙子は昭和十七年に、万世は翌十八年に死亡しており、「死人に口なし」の譏(そし)りを免れません。(続く)

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