葭の塾

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    隠された素顔(続き)

 勘助は、夏目漱石に対しても、無礼ともいえる言辞を残しています。
 周知のごとく、無名作家の処女作品『銀の匙』が「東京朝日」に連載されたのは偏(ひとえ)に漱石の推輓によるものでありました。当時すでに大家であった漱石が激賞してくれた上に天下の朝日新聞に掲載を即決してくれたことは、執筆によって収入を得ることを何よりも望んでいた当時の勘助にとって天にも昇るほど嬉しいことであったことでしょう。
 もし漱石がいなければ、勘助は世に出ていなかったといってもいい……それほどの大恩人である漱石に対して、勘助はまことに一人よがりで失礼千万な文章を書いているのです。

 それは、漱石が亡くなって半年後に書かれた『夏目先生と私』という比較的長文の思い出話の中にあります。
 勘助は、『猫』が発表されて評判になったときに、「詩歌ばかりを愛読して散文というものは見向きもしなかった」上に、「作物のうえの諧謔滑稽に対しては嫌悪をさえもっていたので『吾輩は猫である』はその表題からして顔をそむけさせるに十分であった」、その後「大学へ入って……はじめて『猫』を手にとってみたが、はじめの百頁内外で厭きてしまったきりいまだにその先を知らない」、「先生が朝日に小説を書きはじめてから私は時どき気まぐれに拾い読みするほかには全く先生のものを読んだことがない」と述べているのです。
 そればかりか、「実は『銀の匙』は自分にはそれほど気に入っていない」と言ってのける場面があります。後編をほめられたときも、「自分にとっては一層気に入らないものだったので、この賞賛はかえって案外なものであった」というのです。

 漱石没後二十年目の雑誌「思想」の追悼号でも、勘助は、「あれほど評判だった『猫』も全部は読んでいないし、新聞小説を書かれるようになってからはまったく読まない。」と繰り返し、「近年俳句の選集をみて、私はつい知らなかったが なかなかいい句を作られたのだな と思った。」という冷淡さです(『黒幕』)。
 『黒幕』では、『夏目先生と私』ではなおざりにされた「先生の御尽力で朝日に載ることになったこと」、「掲載後不評だったにもかかわらず中止されなかったのは推薦者である先生のお蔭と想像していること」、「後編を書いたときは先生と朝日の関係も前とは違っていたため御厄介をかけて再度連載させてもらったこと」などが綴られています。
 しかし、「先生は私が不承不承にも原稿書きをしなければならなくなった事情を人からきいて知っていたのだろうと思う。なんだかよほど好意的、同情的に感じられた、誰に対しても親切だったらしいが。」とは、まあ何という恩知らずな表現でありましょうか。

 ついでながら、手賀沼畔に仮寓してからの勘助は志賀直哉と親交を結ぶようになります。なれそめははっきりしませんが、年齢も近かったせいか(志賀が二歳上)二人はいい将棋相手だったようで、たとえば大正十一年の志賀日記には二十九回、翌十二年は一月だけで実に八回も「中氏来る」という記録がみられます。(渡辺外喜三郎『中勘助の文学』)。
 「勘助が来るばかりではない、志賀のほうから訪ねた記録も十回ある。一緒に将棋も指し、雪の日に二人で上京し相模家で芸者遊びまでしている仲だ。人間嫌いで世間との付合いを絶っていた勘助としては異例のことで、志賀の人間的魅力を再認識するのではあるが、…これほどまでに付合いながら中勘助は何故志賀を『沼のほとり』にもう少し登場させないのであろうか」
と、渡辺氏は疑問を呈しています。
 事実、『沼のほとり』に出てくるのは沼の風景としての村人たちばかりで、志賀のことは小でまりの花をさした、腹の部分に京都御昆布松前屋と書かれた壷が「志賀さんの京土産だ。志賀さんは どんなにしてもここの家の昆布のような味が出ない といってゐた。」という記述と、自分の部屋の籐製の椅子が「これは志賀さんが京都へ引越す時の置土産で、もともと私にもお馴染みのあったものである。もしなんなら といふことだったので二つ返事で頂戴した」という記述だけしかありません。
 しかも、文中の志賀という部分は、大正十四年岩波書店版、昭和二十八年創元文庫版には□□となっていて、それがはっきり誰であるかわからないというのです。

 漱石といい、直哉といい、勘助の先輩に対する態度を垣間見るほどに、この人は持っている感情の分量がもともと少ないのではないか、とさえ疑わせます。
 私には、中勘助という作家は、写真で見る端正な顔の下にもう一つの隠された素顔を持っているように思えてなりません。
『郊外 その二』や『呪縛』、『遺品』、『夏目先生と私』などに顕わされた作家の顔は、『銀の匙(前編)』や『沼のほとり』、『蜜蜂』などの顔とはまるで違った形相を示しています。それは、喩えていえば、十一面観音菩薩像の正面の慈悲相の横に隠れた忿怒相でありましょうか?
 一般の読者には中勘助イコール『銀の匙』というイメージがあります。
 中学一年生で『銀の匙』を教材として刷りこまれた私には、なおさらその感があります。私はそのイメージをたいせつに持ち続けていたかった……私は好奇心にまかせて余計なことを知りすぎたのかもしれません。(完)

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僕は「銀の匙」しか読んでいないけど、この小論文で「余計なことを知りすぎた」ことになったようだ。
しかし、それで「損をしたのではなく、見方が豊かになった」と思う。

2007/10/27(土) 午前 11:14 [ yon**5544 ]


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