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中勘助の章の参

    仮託したものは?

 勘助三十七歳の年に書かれた『犬』は、まことにもっておどろおどろしい小説で、中の作品中では異臭を放っています。
 『犬』は、インドの古都の町外れの森で苦行にいそしむ婆羅門(ばらもん)僧が、その前を願かけに通う町娘を凌辱する話です。娘は町を侵略した異教徒の若い隊長に犯されて子供を身ごもったのですが、その子の父親にもう一度会いたいという願いを聞いた僧は、嫉妬にかられて娘をだまして関係を結びます。人間の姿のままではとうてい娘が慕う若い隊長にかなわないと知った僧は、呪法で隊長を殺し、自分ともども犬の姿に変身させます。後半では畜生道に落ちた僧犬と娘犬との獣欲生活が綴られるのですが、問題はその描写です。

 たとえば、
 「そして彼女は胎児をばくりと口にくはえた。で、舌を手傳はせながら首をひとつ大きくふって奥歯のはうへくはへこんだ。そして二つ三つぎゅっと噛んでその汁けを味ったのちごくりと呑み込んでしまった。」
というのは、犬に変身したのに産み堕した隊長の子は人間の形をしており、僧犬に殺されるのを怖れて娘犬が自分で食べてしまう場面の描写ですし、
 「それはぬらめいて渋みのある澁みのある、こりこりしゃきしゃきした物だった。彼女はあらまし噛み砕いて苦勞して呑みこんだ。むっとする噯気(げっぷ)が出た。残りの一つはどうしてもたべる気にならなかった。
『では養生にわしがま一つ食べよう』
僧犬はぺろりとなめ込んだ。さうしてそのわる臭い口で彼女の口をねぶった。」
というのは、娘犬が人間の睾丸を食べさせられる場面の描写です。
 交尾の描写になると、
 「……彼はひつゝこく尻を嗅いでは嗅いでは押す。彼女はたまらなくなっていやいやに身を起した。僧犬は満身獣欲に燃えたって彼女の背中にのしあがった。……彼女はきゃんきゃんと、悲鳴をあげた。口から泡をふいた。神意によって結ばれたる夫婦の交りは邪教徒の凌辱より遥に醜悪、残酷、且つ狂暴であった。……僧犬はやっと背中から降りた。彼女はほっとしたが、その時彼女の尻は汚らしい肉鎖によって無慙に彼の尻と繋がれてゐた。彼女は自分の腹の中に僧犬の醜い肉の一部のあることを感じた。それは内臓に烙鐵をあてるように感じられた。」
とか、また、
 「ながいことかゝってやっと僧犬は常の身體になった。彼は自分の局部をなめてからそろそろと寄ってきて入念に彼女の尻をなめた。」
「『彼奴はわしより先にこの女をたのしみをった。彼奴の血はこの女の體内をめぐってゐる』さう思ふと歯の鳴るほど忌々しい。彼はいやが上に己の血を彼女の體内に注入することによって憎い相手の血を消してしまはうとするやうな気持で根かぎりつるんだ。」
といった風に、とうてい中勘助のものとは思えない品格のなさなのです。
 『犬』は大正十一年四月に発表されましたが、掲載誌「思想」は当時のことゆえその内容から当然発禁処分を受けました。その二年後に岩波書店から単行本として出版されたときも、伏字が四千字をはるかに超えたといわれます。

 勘助には先に同じインドもので『提婆達多(でーばだった)』という秀作があります。提婆達多は『法華経(第十二章「提婆達多品(だいばだったほん)」)』および『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に登場する人物で、釈尊の従弟(いとこ)ともいわれ、やがて釈尊の教団を乗っ取ろうと策し、釈尊の生命を三度狙ったという悪人です。
 『法華経』では、こんな大悪人の提婆ですら釈尊は善智識と呼んで、提婆がいたからこそ私は衆生を救うことができるようになったのだ、と説かれます。
 『観無量寿経』では、提婆からそそのかされた阿闍世(あじゃせ)が、国王である父頻婆娑羅(びんばしゃら)からの王位奪還を企てる物語が展開されます。阿闍世は父王を捕縛して幽閉監禁しますが、母の王妃韋堤希(いだいけ))は秘かに蜂蜜を体に塗り首飾りの中に葡萄酒を隠して訪ね、夫に栄養をつけさせます。阿闍世は怒って母を殺そうとして、聡明な陪臣に戒められて断念し、今度は韋堤希を幽閉します。嘆き悲しむ韋堤希の願いに応じて、霊鷲山におわす釈尊が目連と阿難を引き連れて「身紫金色(しこんじき)にして百宝の蓮華に坐し」た姿を現わし、眉間から光を放って十万諸仏の浄土を見せるという、真宗信者にはおなじみの訓話です。

 『提婆達多』は、『犬』とはうってかわった格調高い文章表現が貫かれています。国賓を迎える都の興奮を伝える鮮やかな書き出し、時代考証を踏まえた衣裳や宴会の巧緻な描写は中勘助ならではのものでしょう。登場人物の間で交わされる会話も、思弁的な香りを維持しています。
 たとえば、阿闍世が父王につめよるシーンの、
 「父上、よくおききなされ、生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である。それは実に簒奪(さんだつ)よりも弑虐(しいぎゃく)よりも更に大なる罪である」
という台詞などは、富岡多恵子氏をして、「この一行を書くために、この物語は書かれたのではないかとさえ思わせる」と述べさせるほどの重みがあります。(『中勘助の恋』)。
 ところが『犬』になると、背景描写はほとんど消えて、僧犬と娘犬との閉鎖世界が延々と綴られるのです。

 『犬』は、と勘助自身が記している(昭和三十六年一月刊・角川版全集第二巻「あとがき」)ように、「『提婆達多』ののち頭の中で混沌としていたものが仏教辞典で偶然目に触れたきぎょう鬼形の挿画と、それから知ったビダラ法という呪法が触媒的にママ活いて一遍に纏った」作品であり、この意味では『提婆達多』の続編といっていいでしょう。
 事実、『提婆達多』には、
 「我々は単なる性欲によって結びつけられたる多くの人間の一対を見る。彼等は交尾期に於ける畜生が相互の好悪も適否も顧る暇なく、たゞ鼻をつく異性の臭気に盲目的にひきつけられるやうに互にひきつけられてゐる。そしてその性欲さへが牽引力を失った時にも、その性欲生活の記念物なる《子供》はなほ恐しい肉鎖となって無慙に、醜悪に、その生産者を一緒に縛して離れしめない。交尾せる犬が生殖器につながれて痴態をさらすやうに。」
という一節がありますから、それが先の『犬』の、
 「その時彼女の尻は汚らしい肉鎖によって無慙に彼の尻と繋がれてゐた。」
という描写に連なっていくのでありましょう。

 私が注目したいのは、勘助が『沼のほとり』を日記体で書いていた同じ時期に『犬』が執筆されていたということです。『沼のほとり』の水墨画を思わせる静謐な描写と、『犬』の性暴力の猛々しい描写と、二つの描写はまさに対極をなしています。
 年齢や精神構造の変化によって芸術家が作風を変えてゆくのは、ピカソや三岸好太郎、榊莫山や相田みつをの例を引くまでもなくよくあることですが、同時期にかくも異なる作風を試みた勘助には、よほどの事情(わけ)があったに違いありません。
 富岡氏によれば、勘助が我孫子手賀沼畔の高島家に仮寓するのは大正九年二月のことで、『沼のほとり』は同年三月四日からはじまっており、『犬』は和辻哲郎の妻宛に出された「人間が犬になる話をかきはじめました」という手紙の日付によって大正十年十月から書き出されたことがわかっています。しかも『提婆達多』の末尾には脱稿の日付「大正九年四月十七日」が記されているといいますから、勘助は『提婆達多』のわずか半年後に『犬』を書き出したことになります。
本来寡作な勘助がこうまで執筆を急いだ背景には、いったい何があったのでしょう。(続く)

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