葭の塾

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       「小説の神様」?(続き)

 しかし、語彙の数は少なくても、志賀の文章は(武者とちがって)時にさすがと思わせるものがあります。
 たとえば『暗夜行路』の尾道の描写、
「六時になると上の千光寺で刻(とき)の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。其頃から、昼間は向い島の山と山の間に一寸頭を見せている百貫島(ひゃっかんじま)の燈台が光り出す。それはピカリと光って又消える。造船所の銅を熔かしたような火が水に映り出す。
 十時になると多度津通いの連絡船が汽笛をならしながら帰って来る。舳(へさき)の赤と緑の灯り、甲板の黄色く見える電灯、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んで来る。もう市(まち)からは何の騒がしい音も聴えなくなって、船頭達のする高話(たかばなし)の声が手に取るように彼の処まで聞えて来る。」
 同じく『暗夜行路』の大山の夜明けの描写、
「まちの灯も見え、遠く夜見ケ浜の突先(とっさき)にある境港の灯も見えた。或る時間を置いて時々光るのは美保の関の燈台に違いなかった。湖のような中の海は此山の陰になっている為め未だ暗かったが、外海はもう海面に鼠色の光を持っていた。」
 あるいは『焚火』のエンディング、
「舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかって居た。舟は小鳥島(ことりじま)を廻って、神社の森の方へ静かに滑って行った。梟の声が段々遠くなった。」
などは、私なんぞが逆立ちしても書けそうもない見事なもので、谷川徹三が「『焚火』は、その気品に於いて、その冴えに於いて殆ど芭蕉に肉薄している」と評するのは、むべなるかなと思わせます。

 以上の三つは自然の描写ですが、『城の崎にて』の蜂の観察、
「虎斑(とらふ)の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいから摩抜(すりぬ)けて出ると、一と先ず玄関の屋根に下りた。其処で羽や触覚を前足や後足(うしろあし)で叮嚀に調(ととの)えると、少し歩きまわる奴もあるが、直ぐ細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛立つと急に早くなって飛んで行く。」
『網走まで』の駅の描写、
「鈴が鳴って、改札口が開かれた。人々は一度にどよめき立った。鋏の音が繁く聞え出す。改札口の手摺へつかえた手荷物を口を歪めて引っぱる人や、本流から食(は)み出して無理に復(また)、還ろうとする人や、それを入れまいとする人や、いつもの通りの混雑である。」
なども、実にうまい。
 井上ひさし氏が、「なんの変哲もない言葉を使っているようで、じつはそれしかないという言葉で、目に見えるように書く天才」と賞め、阿川弘之氏が、「志賀直哉の文章は絵でいえば墨絵で、削って、削って、削って空白の部分をたくさん残して生き生きさせる」と感嘆していますが(前出『座談会 昭和文学史』)、まさにその通りです。

 だが、ここであらためて気づくのは、志賀の文章がすばらしいのは自然描写もしくは動態観察に限られるということです。心理描写、感情描写はまるでなってない……それは清水氏の言うように、「志賀直哉は自分以外の人間(他者)を想像豊かに創造することができなかった。彼は複数の人物に等しく分けて付与するほどの思想を持っていなかった。従って彼は、人物の間でダイナミックな思想上の議論を展開することはできなかった」からなのでしょう。
 それゆえ志賀は《人間》が書けなかった。清水氏の著書の標題は『志賀直哉 自然と日常を描いた小説家』です。これは裏を返すと、『志賀直哉 人間を描けなかった小説家』という意味を含んでいます。
 いや、実は《小説家》とすら言えないのかもしれない。《小説》が「作者の想像力によって構想し、または事実を脚色する叙事文学」(広辞苑)と定義されるものであるならば、志賀は、想像力によって構想することもなく、事実を脚色することもできませんでした。
 志賀自身も、小林多喜二に宛てた手紙の中で、
「私の気持から云えば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません」
と、小説に思想をもちこむことをたしなめていますし、芥川龍之介の『奉教人の死』に対しては、
「筋としては面白く、筋としてはいいと思うが、…仕舞いで背負投げを食わすやり方は、…損だと思う…」
と、小説本来がもつ構成の妙を「技巧上の欠点」として批判しています。
 広辞苑には《小説》とは別に《私小説》という項目があり、「小説の一体で、作者自身が自己の生活体験を叙しながら、その間の心境を披瀝してゆく作品。大正期に全盛」と定義されます。
 この分類に従えば、志賀の作品で《小説》といえるのは『范の犯罪』や『赤西蠣太』くらいなもので、代表作とされる『和解』や『暗夜行路』は《私小説》ということになります。

 さて、その『暗夜行路』について。
 私は『和解』に続いて再読したのでしたが、『和解』以上の失望感を味わいました。『暗夜行路』は、わからないことで満ち満ちていたのでした。
第一に、時任謙作の職業がわからない。生活費がどこから出ているかがわからない。どういう志を持ってるのかわからない、どうやら作家志望らしいがいったい何を書きたいのかが一向に伝わってこない。こんな主人公の悩みが理解できる道理がないのです。
 筋も、説得性がまるでない。二十も年上の、祖父の妾であったお栄に結婚を申しこむなど正気の沙汰ではありません。それも屋島の宿で淋しくなって、急にお栄に会いたくなって、突然結婚することを思い立ったというのです。吉原の芸者登喜子だの、破談に終った母の幼馴染の娘愛子だの、酒亭の女中お加代だの、今までの興味の対象にはなかったお栄が唐突に登場するのに読者は戸惑います。尾道へ帰った謙作は兄信行に手紙を書いて、お栄に話してくれと頼みます。信行からの返信で、お栄は承知しなかった、なんとなればお前は実は祖父の子であるからだ、と謙作は知らされます。こんな重要なことを、会いもせずに手紙でやりとりするという設定も、わからないことの一つでした。
 
 私がようやくわかったのは、志賀自身が『続創作余談』の中で、謙作が自分は祖父の子じゃないかと疑う発想は、月夜の屋島の淋しい宿で寝つかれぬままに思いついたと語っているのを知ったときでした。思いつきならよくわかる……散々手紙のやりとりを重ねた挙げ句、やっと会って話を交わした信行が、会社を辞めて禅をやるつもりだと告げるのも思いつきなら、筋にまったく無関係な芸者の境遇話をぐだぐだと挿入するのも思いつきなのでしょう。
『暗夜行路』ってこんなわけのわからない小説だっけ? と疑いながら辛抱して読み進んできた私は、芸者のおっぱいを揺すって「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ場面に至って、やっと高校時代に読んだ記憶が甦ったのでした。

 私の読後感はなにも極私的なものではない。心強いことに、本多秋五氏も私と同じ疑問を抱いています(『志賀直哉』)。本多氏が同書に引用する中野重治や中村光夫の「暗夜行路論」も私の見方と軌を一にするもので、特に中村光夫の「ここには小説の本来である人間対人間の葛藤も、それにもとづく主人公の内的な発展もなく、作者その人にも同じものが欠けている」と何度も繰り返す批評は、先の清水氏と共通しています。
『暗夜行路』の前編が刊行されたのは大正十一年七月のことで、後編は大正十二年から約四年間の休載、昭和三年からはまた八年もの休載を経て、昭和十二年の「改造」四月号でようやく完結しました。志賀の構成力は、こんな長期間に耐えられない。ために、辻褄の合わないところが随所に出てくる。本多氏は、「要するに、天性の短篇作家が慣れぬ長篇を企てたため、こういうことが起ったのである」と、まことに適確な評をするのです。

 結局、志賀は典型的な私小説、すなわち「作者自身が自己の生活体験を叙しながら、その間の心境を披瀝してゆく作品」しか書けない作家でありました。戦後の無頼派三人男といわれた太宰治、織田作之助、坂口安吾らは、こぞって志賀文学批判を展開します。太宰は『如是我聞』で噛みつき、織田は『可能性の文学』で〈志賀の心境的私小説を最高のものとする定説が日本の小説を貧困に導く罪をおかした〉と弾劾し、坂口は「志賀文学には文学の問題などはないのである」とさえ断言するのです。
 私は、そこまで言うつもりはない。文学と時代性とは不可分であり、それゆえ大正という時代にあっては、志賀の極端な個人主義もまた自然主義と同じように、日本文学が通らねばならない一つの道だったと考えています。
しかし、こんにち鑑賞に堪える作品はどちらかと問われれば、迷わず無頼派のほうを採る……それは彼らが《人間》を描いているからです。《人間》を描けない《小説》はない、と思っているからです。

 その意味で、志賀の名作と称される短編、『網走にて』、『焚火』、『城の崎にて』、『雪の日』、『山鳩』なども《小説》というより《随筆》といったほうがいい。自らも、「私では創作と随筆との境界が甚だ曖昧だ」(『続創作余談』)といっていますし、貴志(きし)山治(やまじ)との対談では「だからいつも身辺雑記風のものばかり書いている」と告白したといいます(阿川弘之『志賀直哉』)。
 志賀には「小説の神様」と呼ばれた時代があります。この尊称はずいぶん広く行きわたっていたようで、私が『和解』や『暗夜行路』の読後の失望感を妻にもらしたとき、妻は「だって志賀直哉は『小説の神様』といわれた人でしょう?」と不審な顔をしてみせたものでした。
 阿川氏は、〈それは志賀のよく知られた短編『小僧の神様』と一字違いをもじって、誰かが冗談半分に言ったのが始まりで、ご本人はそんなことを全く考えていないし自慢たらしい気配を感じた事もない〉(『座談会 昭和文学史』集英社)と弁明しておられるのですが、私は誰かが冗談半分に言ったのではなく、名のある作家もしくは評論家が意識して揶揄したものではないかと思っているのです。(完)

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久しぶりに志賀直哉論「小説の神様?」を面白く読みました。志賀直哉の自然描写・動態観察の冴えを認めながら、「その小説には、人間いかに生きるべきかというテーマが無く」、さらに「生来ボキャ貧である」という結論が実に愉快である。その「ボキャ貧」を、志賀の「不愉快・不機嫌」と武者小路実篤の「よろこんだ」を対比させ論評(?)しているところは説得力がある。 米

2007/12/3(月) 午前 10:47 [ yon**5544 ] 返信する

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