葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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       「大事な人」(続き)

 だが、学園建設の工事はそこまでで、学園は農園に転用されます。
 これについて地元説では、文部省の反対にあったからとか、資金不足のためとか、いわれています。私は、計画変更の理由は一に公務が多忙を極めたためだ、と考えます。この時期、嘉納を襲った内外の激動する情勢、中でもスペイン風邪の猛威と嘉納が校長職にあった東京高師の大学昇格運動は、学園建設どころではなかったことを示唆しています。
 嘉納は決して学園を農園に転用したのではなく、当初から学園内に計画していた農園を先行させることに切り替えたのです。嘉納が理想としたのは、勤労の貴さを教えるために、校内に農園を持った学園だった(勿論、学園内には柔道場もあったことでしょう)、と私は考えています。
 それはあくまで一種の《中断》でありました。嘉納は学園建設を諦めてなどいなかった……嘉納は何より「負け嫌い」の人、一旦ことを始めたからには決して諦めずに“なにくそっ”精神で完遂する人であったのです。

 諦めることを知らない嘉納の理想の学園構想は、十七年後の昭和四年に灘中学校の創設というかたちで実現します。灘の本家筋から、私立中学校を創設したいので力を貸せという依頼に、かねがね当時の官立中等教育にもの足らぬものを感じていた嘉納は快諾し、激務の間隙を縫って灘中学校創設に奔走します。既に亀岡女学校の校長職に在った教え子の真田範衛を口説いて校長に招聘します。晩年もっとも好んだ造語である「精力善用」「自他共栄」の書額を寄贈し、昭和三年四月の開校式には自ら望んで講演を行います。以後、嘉納は、折にふれて灘中を訪れて、まるで我が子のように成長を見守ります。
 嘉納は、灘中をもって、我孫子の学園のモデルケースとしたのです。灘中創設で得たノウハウは、将来必ず我孫子で活かすことができると考えたのでしょう。
 創立後十年を経て、灘中は嘉納の理想とした中等教育の場として成長します。昭和十四年、カイロで皇紀二六〇〇年記念の東京オリンピック招致のため最後の大仕事を終えた嘉納は、帰国の船中で急性肺炎で亡くなります。
 もし元気で帰国していたら、幻に終ったオリンピックの無念を晴らすために、人生最後の大業として我孫子の学園建設にとりかかったはずだと私は想像しているのです。

 ところで、まだ最大の謎が残されています。
 それは、学園用地にせよ別荘地にせよ、なぜ我孫子でなければならなかったのか? という謎です。
 嘉納がそれまでに何度も我孫子を訪れていたことは、嘉納が出した別荘完成記念の晩餐会の招待状(兵藤純二氏『大正期・我孫子在住の作家たち』)から推測できます。これは鈴木屋旅館主・鈴木喜作に宛てたもので、このたび別荘を設けたので当地に来ることも多くなるので懇親のため来る八日に角松旅館で晩餐を差し上げたいからご来駕賜りたい、という文面です。封筒はなく巻紙で、おそらく使いの者に持たせたと推定されます。
(残念ながら、八日とあるだけで年月は記されていず、先に別荘を建てた時期は定かでないと書いたのは、このためです。)
 別荘完成記念の晩餐会という趣旨であれば本来新築なった別荘で催すべきなのを、角松旅館を会場として、同業の鈴木屋旅館主を招待しているというのは、いささか不自然です。多分、かねてより嘉納は両旅館を何度も利用して昵懇であったのでしょう。そのため、恩返しの意味で、晩餐会はどちらかの旅館を使ってあげたかった。結局、角松にきめたのは、利用頻度が鈴木屋より多かったからか、あるいは明治天皇が宿泊されたという格を重んじたのでしょう。この縁なのか、角松旅館には嘉納の筆になる「従善如流」の書額がかかっています。
(せめて当時の宿帳か宴会記録が残っていれば嘉納が利用した実績がわかるのですが、両旅館とも代替わりの際に処分してしまったとのことでした。)

 つまりは、嘉納は以前から我孫子に土地勘があった、といっていい。
 それでは嘉納は、どういうきっかけから我孫子を訪れたのでありましょうか?
 嘉納はいつ、どこで手賀沼のよさを知ったのでありましょうか?
 地元でもっとも納得性があるのは、血脇守之助に勧められたという説でした(大井正義氏『杉山英と血脇守之助』)。血脇守之助は東京歯科大学の創設者で、我孫子生まれの我孫子育ち、学生時代に講道館へ通っていたともいわれます。血脇は小学校の恩師杉山英の退職時に発起人となって養老基金を募り、その記念碑を建立しています。その碑の題額が嘉納の筆になるもので、これは血脇が嘉納に依頼したに違いなく、そんな関係であれば血脇が嘉納に我孫子のよさを吹き込んだのかもしれません。
 手賀沼の鴨猟を見物にやって来て、我孫子を知ったという説もあります。 当時の手賀沼の名産はカモとウナギで、季節には空が真っ黒になるほどカモが襲来したと伝えられています。嘉納の別荘の隣には朝日新聞の大記者杉村楚人冠が同じく別荘を構えていましたが、楚人冠がこの地を選んだのは鴨猟見物がきっかけでした。
 見物ではない、自分も鴨撃ちを楽しんだのではないか、という人もいます。嘉納は姉勝子(柳宗悦の母)が柳楢悦(ならよし)に嫁いだ関係からか、結婚式は柳楢悦邸であげたという記述が明治二十四年の年譜に記されています(『嘉納治五郎大系第十三巻 年譜』)。海軍少将として海図作成で名を馳せた楢悦は、一方では植物、料理、詩歌の著述多き才人で、鴨猟に関する指南書も書いていたはずだというのです。であれば、嘉納は楢悦に誘われて手賀沼で鴨猟を試みた、という想像もできそうです。
 あるいはもっと単純なもので、柔道普及のために全国をまわっていた嘉納が、水戸へでも赴いた際に車窓から見た手賀沼の美しさに惹かれて、我孫子で途中下車をしたのかもしれない。そのときふらりと立ち寄った角松旅館か鈴木屋で名物のウナギを食べて、以来たびたび訪れるようになったという推測もゆるされていいでしょう。

 諸説は数あるものの、結局のところ、
 なぜ我孫子でなければならなかったのか?
 嘉納は、いつ、どこで手賀沼のよさを知ったのか?
という二つの「?」は、確かな証拠を見出せずじまいでした。
 それにしても、よくぞ我孫子を選んでくだすったものでした。明治末年の我孫子といえば、いまだ電灯もなく商店もまばらな片田舎でありました。当時の東京近郊の別荘地は湘南と市川が双璧で、いずれも海に臨んだ土地が人気であったなかで、嘉納はひとり決然と沼の静謐さを選んでくれたのです。
 そのおかげで、柳が来て、志賀が来て、武者が来て、リーチが来て、我孫子に文化の花が咲いた。文人ばかりではない、実業家や学者たちが次々に我孫子に別荘を構えたのも、あの嘉納さんが気に入ったのだから、という動機であったことでしょう。
 嘉納は、楚人冠のいうように、まさに《我孫子の開山》でありました。私たち我孫子市民は、この《大事な人》を忘れてはなりません。

 書き終わった仮説を携えて八柱霊園の嘉納治五郎の墓を訪ねたのは、平成十五年(二〇〇三)の秋のことでした。
 事務所で案内図をもらい、少し迷ったものの墓所はすぐ見つかりました。さすがに立派なもので、墓所の入口に鳥居が設けられています。鳥居をくぐると正面に大きな頌徳碑が建っています。西園寺公望題額による頌徳碑の「先生常ニ曰ク教育ノ事天下之ヨリ偉ナルハ莫シ一人ノ徳教広ク万人ニ加ハリ一世ノ化育遠ク百世ニ及ブト」という碑文を読むと、嘉納が教育者を目指した心情が改めて思い起されます。
 嘉納の墓は頌徳碑の右手奥にあります。当時は土葬が許されていたのか、丸石がいくつもはめ込まれたドーム状の墓の下、地下十五尺の石櫃の中に、防腐処置が施された嘉納の霊柩が納められているといわれます。傍らの墓誌には、治五郎はじめ妻須磨子、履方、履正、嘉納波の名が没年順に並んでいます。
 週日のかわたれどきの霊園には人影もありません。私は墓前に仮説を供えて合掌し、泉下の霊に「こんなものを書きました」と報告をしました。
それは、嘉納治五郎の名前をはじめて聞かされた日から五十四年目の夏の出来事でした。

 因みに、私は昭和二十四年から一年間、灘中学校で学びました。当時の講堂には、「精力善用」「自他共栄」という大きな二枚の横書の書額がかかっており、生徒たちはその意味と併せて、それが本校を創立した嘉納治五郎先生が柔道の精神を校是として定めて自ら揮毫されたものであることを教わったことでした。
 元より、嘉納治五郎への私の関心は、この記憶から出発しています。(完)

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