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    師 承

 私の敬愛してやまない司馬遼太郎氏が、嘉納治五郎を讃える文章を書いていることを発見したのは、意外な驚きであり、また喜びでもありました。
それは、かつて雑誌「文藝春秋」の巻頭随筆欄に連載されたものを集めた『この国のかたち』という著書の、「師承の国」なる小題の中に書かれています。
「師承(ししょう)」とは耳慣れぬ言葉ですが、鎌倉から江戸期にかけてごく普通に使われていた言葉で、「我流」の対語に用いられたといいます。何ごとも筋目の師につかねば身につかないという意味のことで、それはそれでもっともなことなのだが、師承を尊ぶあまりにその体系をだれから承けたかということが鉛のように重くなり、師の名声によって弟子の生涯の大小がきまったりした、やがて師の説くことから一歩も離れてはならないという閉鎖性を重くする作用をもたらしていったと司馬氏は述べ、思想を失わせたのはこの「師承」という悪しき伝統であると指摘します。それは宗教界において顕著であり、平安以降の仏教はひたすら宗祖をまねることに汲々とし、つまりは師承を偏重して停滞保全につとめてきたと言うのです。
 この弊風を明治になって打ち破ったのが清沢満之(きよざわまんし)で、彼は東本願寺に学費を出してもらって西洋哲学を学び、ヘーゲルの弁証法をもって仏教思想と親鸞思想を基礎づけ、哲学的に近代化しました。「こんにち親鸞といえば、ヘーゲルとならべさせても、印象的に違和感を感じさせないというようにしたのは、清沢の力によるものだった」と、司馬氏は最大限の讃辞を贈っています。
 非学の上に凡そ哲学とは無縁で清沢満之なる人物をまるで知らない私が、この高邁な司馬論に共感することなどとてもできませんが、私を喜ばせたのはこれに続いて書かれた次の一節です。
「武道もまた、思想と同様、論理の整合がなければなりたたない。室町期から興った諸武道は、江戸期に入って諸流派とも師承の芸になった。
 剣術の分野で、この伝統をこわし、教授法を合理化して万人が参加できる体技にしたのは、江戸末期の千葉周作だった。柔道においてそれをやったのは、明治の嘉納治五郎だったことは、よく知られている。
 この師承の国で、師承を基礎にしつつも伝統にあたらしい大展開をみせた――明治までの――例は、私が理解する範囲で、千葉、清沢、嘉納の三人だけだったように思える。
 三人とは、なんとも少なすぎるようである」

 ご存知、司馬氏には千葉周作を描いた『北斗の人』という名作があります。尾崎秀樹氏は「司馬氏は、千葉周作を天性の合理主義者として定着し、日本人のそれまでのものの考え方を一変させた、文化史上の一偉材として位置づけている」と評します(『歴史の中の地図
・司馬遼太郎の世界』)。
 周作が国を発つ折、父の友人佐藤孤雲から、剣の道をきわめるためには、まずすべてに従順でなければならないが、ある時期を過ぎてもまだ従順なのは愚かだ、ある時期がくればすべてに対して反逆しなければならない、と諭されるくだりがありますが、師承を脱するというのはこのことを指すのでしょう。
 周作はこの教えを守って、浅利又七郎や中西忠兵衛に剣を学ぶも、自ら編み出した技法をきわめて北辰一刀流を開きます。通称「お玉が池の千葉道場」はたちまち殷賑をきわめ、門人には坂本竜馬、清河八郎、有村次左衛門などをはじめ、天下の志士の輿望を担った若者たちが参集します。
 人気の秘密は周作の教授法にありました。彼は剣術をマニュアル化したのです。戦時下の昭和十七年に刊行された『千葉周作遺稿』の中の「剣法秘訣」を読むと、所作の一つ一つがいかに平易に明解に具体的に述べられているかがわかります。
 司馬氏にいわせると、「かれは剣術に、体育論的な合理主義をもちこみ、古来、秘伝とされてきた技法のいっさいを洗いなおして、万人が参加できる流儀を編みだした。」(『街道をゆく』「神田界隈」)という表現になります。氏は続いて、「剣術史上の周作の位置は、明治初年に柔術の諸流を再検討してあらたに柔道を興した嘉納治五郎に似ている。」と書いています。

 時代のあとさきで見れば、千葉周作が嘉納治五郎に似ているのではなく、嘉納が周作に似ているというべきなのでしょう。あらためて嘉納の事蹟をたどると、二人がいかに似ているかが明らかになります。すなわち嘉納もまた、最初福田八之助について天神真楊流(てんじんしんようりゅう)の柔術を学び、磯正智の磯流に転じてのち、飯久保恒年について起倒流を習うのですが、これらに飽き足らず自ら工夫を加えて講道館柔道を編み出すのです。
 逸早くマニュアル化した点も同じで、『嘉納治五郎大系』(第三巻)には「講道館柔道講義」(明治三十五年)、「柔道本義」(大正六年)、「柔道教本」(昭和六年)の三つの教本が収められています。「講義」は文章だけですが、「本義」では挿絵が加わり、「教本」になると写真が添えられて、まことに親切でわかりやすい指導書となっています。
 しかし、二人は結果的に似たのではない……私は、嘉納が意識的に千葉周作をお手本にしたのだと考えているのです。というのは、嘉納の自伝に、磯正智先生は神田のお玉が池に道場を開いていたという記述があるからです(『嘉納治五郎著作集』第三巻「柔道家としての私の生涯」)。武道家としての嘉納が千葉周作を知らないわけはありません。むしろ嘉納はお玉が池の磯道場に通いながら、かつてこの地に北辰一刀流を開いた千葉周作に、熱き思いを馳せていたことでしょう。

 そういう眼で見直してみると、二人のマニュアル、千葉周作「剣法秘訣」と嘉納「柔道本義」には多くの類似点が存在します。
 主な点を書き並べると、次のようです。
◇稽古前の心得について――
 周作「稽古前、食事は成るたけ減少すべし、…力士等の食事する様子を見るに、先ず中椀に薄き粥二杯より多くは食せず、人目を忍びて多く食せしものは、相撲稽古にかかりて、息合い早く弱り、中々人並の稽古出来かぬるものなり、剣術も是と同じ事にて」(第一「剣術初心稽古心得」)
 嘉納「乱取の前は食事後すぐと空腹時は避ける。疲れたときや睡眠不足のときはやめる。身体は清潔に、稽古衣(ぎ)は修理しておく」(「柔道本義」第六回)
「爪を切る。帯の結び目は腹の位置に。両便は溜まっておらぬよう。酒は飲まぬこと。水は少量ならよい」(「柔道本義」第七回)
◇稽古相手について――
 周作「稽古中に(相手を)選り嫌い致す……は稽古上達の大害と知るべきことなり」(同前)
 嘉納「最初は上手と、それから少し下手と、また上手と、同僚と稽古すべし」(同前第五回) 
◇指の使い方について――
 周作「太刀の持ちようは、第一小指を少しくしめ、第二紅さし指は軽く、第三中指は猶お軽く、第四人さし指は添え指と云うて添ゆる許りなり」(同前)
 嘉納「投げられたときの倒れ方は、両手の指先を幾分か内の方に向け、両方の肘を外の方に向けてつく(後ろ横に倒れた場合、前に倒れる場合も詳述)」(同前第八回)
◇小技を連続的にかける――
 周作「一本打ちにして縁を切るべからず、拍子を取り、小打ちに打つべし、必ず大きく振り上げて打つべからず」(第三「剣術修行心得」)
 嘉納「引きなり押しなりして少しでも対手を動かし、それからそれへと適当に力を加えてゆけば、大抵のものは容易に業の掛るまで姿勢を乱すものである」(同前第十三回)
◇相手の力に逆らわない――
 周作「出れば引き、引けば出て、何分近よらぬ様にすれば、…向うに打たるゝことは無きものなり」(第四「剣術他流試合心得」)
 嘉納「投げ業は彼の体の平均を失わせるようにし、我の方では彼の倒れやすい方に巧みに業をかける。引かば押せ、押さば引け」(同前第九回)
こうして比較してみると、まことによく似ている。嘉納は「柔道本義」を著すにあたって、むしろ積極的に周作の「剣法秘訣」をお手本にしたのではないか、と私は推測するのです。(2へ続く)

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