葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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     師承(続き)

 周作に倣ったのは、実はそればかりではない。お玉が池の千葉道場の隣にはそのころ評判の高かった儒者東條一堂が塾を開いていた、と司馬氏は記しています。
「一堂は周作にとって父親ほどの年齢だったが、ふかく交わり、どちらが言ったのか、『若者にとって、文武隣同士になっているから、両方学べて、こんな便利なことはあるまい』といったという話がある。……むろん両塾にとって経営上たすかるのである」(前掲『街道をゆく』「神田界隈」)。
 嘉納は講道館創設の三か月前に私塾嘉納塾を開いて、起居を共にしながら以後三十七年間の長きにわたって若者の教育につとめます。塾生にはすべて講道館に通わせて柔道を教えます。文武両道を旨とした嘉納の教育は、東條一堂の儒学塾と提携した周作のやり方を模範としたのではないでしょうか。

 さて、学生の身で設立した講道館で嘉納の工夫の稽古台になったのは、筆頭入門者の富田常次郎と半年遅れて入門してきた西郷四郎でした。特に、姿三四郎のモデルと伝えられる西郷は、永昌寺時代の稽古台を一身でつとめました。稽古時間を限定すると弟子が集まらないので、日曜は午前七時から正午まで、ふだんは午後三時から七時まで、いつ来てもよいということにして嘉納か西郷かどちらかがじっと待っている。寒気の厳しい日曜の朝などは、足が冷え切って稽古どころではなかったといいます。それでも何本も何本も、休みながら稽古を重ねて合理的な身体の動きを追求し、技を編み出していったのです。
 これほどの苦労を重ねて生み出した講道館柔道を、嘉納は惜しげもなくすべてを開陳して普及につとめます。それは、自らの体験に鑑みて、知・徳・体三育に通達するのに柔道ほど最適な運動はないという確信をもったからでした。嘉納は「かかる貴重なものはただ自ら私すべきものではなく、弘くおおいに人に伝え、国民にこの鴻益を分かち与うべきであると考うるに至った」と自伝で述べています(『嘉納治五郎大系第七巻「柔道家としての嘉納治五郎」』。
 練武館、講武館、尚武館など、いかにも武術の道場という名称を避けて講道館と名づけたのも、「道は根本で術はその応用として授けることを明らかにするの意」を込めたものでした。

 そのため、驚くべきことに、講道館創立以来明治二十七年に至るまでの十二年間は、入門料も道場費も全く徴収しませんでした。先の自伝には、
「最初の中は貸稽古着まで備えておいて修行者の便利をはかった。明治二十七年に至って初めて金壱円の入門料を納めしめることにした。それもその動機は金銭をとるためではなく、無制限に入門させればいわゆるひやかしものが多数集まって来て真実の入門者の妨げとなるということを恐れたためであった。」
と記されています。
 その後、漸次道場が盛大となるにつけ道場費が次第に多くかかるようになったので、明治三十七年からはさらに毎月三十銭の道場費をとるようになるのですが、「講道館は教えるということについては、道は金と交換にこれを授くべきものではなく、志あるものにのみこれを教授するのであるという、講道館最初の精神に基づいて授業料というものをとらない」という態度を貫きます。その結果、教師たちには多大な負担を強い、「自分が教育者として得る収入の余分をこれに充て、なお他に翻訳などをして収入を増し、それにて経済をささえた。のちにはそれでも不足を告げて遂に負債を起こして、一時これがために苦しめられた時代もあった。」と、述懐するのです。
 千葉周作が道場費をとったかとらなかったかは定かではありませんが、もしとっていたとすれば、この点において、嘉納は周作を超えたといっていいでしょう。

 ところで、嘉納と同じ我孫子に住んだ白樺派の連中も、誰一人として師にはつかなかった。柳宗悦も志賀直哉も武者小路実篤も、「師承」の対語である「我流」をきわめて大家になった人です。バーナード・リーチもまた、六世尾形乾山という筋目の師に入門するものの、伝統的な古風な陶工であった乾山に飽き足らず創意工夫を重ねて多くの技法を自ら生み出していったことで、司馬氏のいう「師承を脱した人」に数えていいのかもしれません。
 ここまで書いてきて、また一つ、私の中に大きな「?(はてな)」が湧き出てきたことでした。
 それは、もし嘉納と、柳、志賀、武者、リーチたちが「師承を脱した人」というキーワードでくくれるとすれば、彼らはなぜ嘉納と親しく交流しなかったのでありましょうか?
 私の知る限り、柳たちが嘉納を訪ね、「師承を脱した」大先輩の話を傾聴したという記録はありません。嘉納別荘の真ん前に住んでいた柳の家に、志賀と武者は毎日のようにやって来て、リーチを交えて芸術論に花を咲かせていたというのにです。
 その上、柳も志賀も学習院時代には柔道をやっていた。鶴見俊輔氏は「柳は柔道に関心がなかった」といわれるが(著書『柳宗悦』)、そんなことはない。『学習院柔道百二十年史』(平成十七年、学習院柔桜会発行)の明治三十五年秋と同三十七年秋の院内紅白戦の出場選手に柳の名が記されています。三十五年は名前だけだが、三十七年は徳川誠を下し中島矩に敗れて一勝一敗の成績を残しているのです。この時期、柔道はまだ正課ではありません。柔道が(剣道と併せて)学習院武道の必修となるのは乃木大将が院長に就任した明治四十年のことであり、それまでは随意課として「修業志願の者に之を授く」とされていました。柳は自分の意思で柔道をはじめたのでした。
 運動神経が発達していた志賀の場合は、もう少し積極的に取り組んでいた。明治三十五年春の紅白戦に出場した志賀は唯一人、三人抜きをやってのけて「志賀君の御手並いつもながら感服々々」という戦評まで付されている腕前でした。
 そんな二人であってみれば、「師承を脱した」大先輩というよりは、まずは柔道の開祖としての嘉納を表敬訪問してしかるべきでした。「たまには叔父貴から柔道の話でも聞こうじゃないか」と、柳が志賀を誘う場面はなかったのでしょうか?
 周知のごとく、嘉納の教育者としてのスタートは学習院の教授であり、のち教頭までつとめました。すでに講道館を創立していた嘉納は院生に柔道を教え、学習院は日本で最初に柔道を教科に採り入れた学校であるという名を残します。柳や志賀の在学中は、嘉納は東京高等師範の校長職にありましたが、彼らにとって嘉納は広い意味での師弟でもあったのです。

 嘉納も柳、志賀、武者もそれぞれ厖大な文章を書き遺しましたが、嘉納が柳たちについて、柳たちが嘉納について述べた文章を、私はまだ発見できていません。自らを語ることには人一倍饒舌な志賀と武者が嘉納のことに一切触れないのは理由(わけ)あってのことでしょう。
 特に志賀は、晩年(七十三歳)、講道館機関誌の『柔道』(昭和三十一年七月号)に「柔道の思い出」という談話文を寄せています。それによると三人抜きは高師との対抗戦での出来事となっていますが、問題は嘉納治五郎について、たった一回、それも文末で、
「第一回の世界選手権大会も賑やかに行われたし、柔道もこれからますます世界的に発展してくるだろう。しかし、…嘉納師範の時からいくらかあいまいではなかったかという気のするのは、柔道が武道かスポーツかという点で、…ここらで《武道》と《スポーツ》との限界だけははっきりさせておくべき時期ではないかという気がするね。」(傍線筆者)
と、むしろ批判的なニュアンスで触れているだけだということです。
 もし志賀が嘉納と会っているなら、ほかならぬ講道館機関誌に掲載されたこの談話においてこそ語られるべきでありましょう。「柔道の思い出」は語っても「嘉納師範の思い出」は語らなかったことをみれば、志賀は嘉納と会わなかったと断定していいでしょう。

 それにも増して不思議なのは、叔父である嘉納について、柳が一言も書き残していないことです。
 柳は『白樺』に三回にわたって我孫子礼讃を書いたにもかかわらず、我孫子に移ってきた経緯に関して、特に嘉納にまったく言及していない。移転直前にリーチに宛てた手紙(大正八年八月二十八日付)にも、「近い将来、ブレークの本を書き終えたら、…家内と我孫子(上野から汽車で約一時間です)に引っ越すことになるでしょう。姉の新しい別荘があいているのです」(傍線筆者)と書いています。兼子夫人も義姉(あね)(柳の姉直枝子)に勧められたとしか言っていません。
 自伝を書かなかった柳は、二歳下の朝鮮で死んだ妹千枝子を除いて、家族については多くを語っていません。しかし、満一歳十か月で他界した父についてはその経歴を「柳楢悦小傳」という小文に認(したた)めて、マルチ人間であった父の功績を称えています。
 その「附記」の中で、父没後二十六年間にわたって子供たちを育ててくれた母への感謝を六行にわたって述べています。しかし、母勝子が嘉納の姉であり二十五も年上の楢悦の後妻に入ったということは、なぜか書かれていません。(3へ続く)

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