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嘉納治五郎の章の六

ハーンに嫌われた?嘉納治五郎
 
かのラフカディオ・ハーンが、書簡の中で嘉納治五郎を名指して、
Kano himself is all cunning.
 と記していることを知ったのは、嘉納ファンをもって任ずる私にとって、衝撃的な出来事でありました。
cunning》とは、どの英和辞書をひいても筆頭に「ずるい、こすい、狡猾な」の意味が出てきます。英語圏では、人を評する場合の最大の侮辱語といっていいでしょう。
 
この書簡は、1894年(明治27510日付でハーンの畏友チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)に出されたものです。チェンバレンはハーンの松江中学、五高、東京帝大での就職に大きな口添えをした東京帝国大学の日本語学教授で、松江時代の中学教頭だった西田千太郎と並んで、ハーンがもっとも多く書簡を交わした人でありました。
この書簡の存在を知ったのは、東(ひがし)憲一氏の『熊本における嘉納治五郎とラフカディオ・ハーン』(1995東京外国語大学論集51)と題する小論文(B516頁)からでした。東氏は東京外国語大学の教授で専門は「武道論」、嘉納治五郎研究の第一人者といわれます。
 
周知のごとく、ハーンと嘉納との関わりは熊本で生じました。
1891年(明治2411月、ハーンは松江を引き払って第五高等中学校の英語教師として新妻セツを伴って熊本に赴任しますが、そのハーンを招聘したのは、当時の五高校長、嘉納治五郎でありました。このことは嘉納自身が自伝の中で五高時代を振り返って、
学校長として自分のしたことは数多いが…ラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師から抜いて招聘したことは特筆すべき一事である」
 と、些か得意げに記しています(『嘉納治五郎大系第十巻』)。
私にはハーンの赴任時に校長の嘉納みずからが熊本駅まで出迎えに行ったというほのかな記憶があって、それを確かめるべくネットを渉猟していたとき、たまたま東氏の論文に行き当たりました。私はさっそく、不躾にも氏に直接メールしてこの論文を郵送してもらったのでした。
東氏の論文の主眼は、ハーンと嘉納の熊本時代の関係を、柔道という新しい視点から捉えようとするものですが、後半では、ハーンが遺した書簡を通して、最初は極めて良好であったハーンの嘉納に対する感情が次第に悪化してゆく推移が克明に綴られています。
 
この推移を東氏は西田千太郎に宛てた7通の書簡でたどります。
かいつまんで紹介すれば、
嘉納氏は、…私の知っている如何なる日本人よりも、英語を話すこと、書くこと共に、一層上手です」(1891年、月日不明)
「貴君は屹度嘉納氏を大いに好きなさるでしょう。氏は…非常に同情的で、且つ非常に飾らない性質です――これは毅然たる人物に殆ど特有です。一たび氏に逢うと、恰も多年の知り合いの感があります」(1891.11.30付)
2通では、初めて会った嘉納に対して最大級の讃辞を記しますが、翌年になると早や、嘉納との雲行きが少し怪しいことが伺える内容になります。
「嘉納氏は帰校されましたが、私は十分談話の機会を得ませんでした――ただ一回、私の第二回の契約書に調印するため、急に呼び出されただけなので」(1892.9.18付)
さらに1年経つと、元来付き合い下手のハーンは自ら孤立化を深めていき、嘉納のみならず学校全体に対する愚痴めいたものを西田にぶつけます。
「時がたつにつれて、私はますます教師及び生徒の両者と交際が薄らいできました。私は最早宴会にも出席しません。結局私は孤独を欣んでいます。それは、私の仕事に好都合です。しかし貴君のような人がいたならばと思うことが毎度あります」(1892.10.23付)
「当校が幾分いやになってきました。私は皆が私を退けようとしていると考えます。しかし判然わかりません――私は皆の性質を理解することができないからです」(1893.1.23付)
 その一方では、嘉納の転任時にこれを惜しむ表現も見られます。
「当方にもまた御報道致すべき件があります。嘉納氏は去りました。一同非常に悲しんでいます」(1893.1. 日付不明)
 嘉納に対して批判めいた言葉が出てくるのは(1894年、月日不明)の書簡で、東氏は、嘉納に出した手紙の「返事もきません」という表現だけを引用され、内容は不明なるも「嘉納に対し期待が外れた感のある内容である」と推量しています。
 
このあと東論文に登場するのが、冒頭に掲げた問題のチェンバレン宛の手紙です。
なぜかここでも書簡の引用はなく、「嘉納が熊本を去ってから一年以上たつというのに、内容的には、極めて険悪な内容になっている。嘉納のことをK氏と称し、ハーンにとっての人間関係の最大の悩みである自分の対立する某教師との批判をK氏との係わりで批判している。…K氏こと嘉納がその某教師に肩入れしているとの内容である。なぜこのような展開になったのであろうか」と説明されます。
私が衝撃を受けたのは、続いて記された、
「ビスランドがまとめたハーンの書簡集では、前掲と同じ内容であるが、バレット版によると、さらに追加されていて、嘉納についてもビスランド版では《K―》となっているが、バレット版では《Kano》となっている。又、某教師に対する批判と同時に、《Kano himself is all cunning》という表現になっている。このような表現は、今までには見られない」
という一文でありました。
 
 ハーンはなぜこんな過激な表現で嘉納を評するようになったのか? 
そういわれるほどの理由が嘉納の側にあったのか?
にわかに湧いた私の疑問を解消してくれたのは、ハーンの曾孫小泉凡氏の言葉でした。凡氏がかつて我孫子に『バーナード・リーチと小泉八雲』という演題で講演にみえたとき、東氏の論文を読んだばかりの私は、講演終了後真っ先に手を挙げて質問に立ったのでした。当地きっての嘉納治五郎ファンを自任している私としてはKano himself is all cunning.》という表現が何としても納得できない、曽祖父のこの言葉をどう思われるか? というものでした。われながらいささか詰問調の質問に対して、凡氏は丁寧に答えてくれました。
「曽祖父は付き合い下手で、今でいうキレやすい老人でした。思い込みの強い人であったため、いろんな人とぶつかっています。そういう彼の性格に免じておゆるしいただきたいと思うのですが…」
若手のハーン研究家としてすでに一家をなしておられる凡氏の、思わぬ腰の低さに感動した私はすぐ鉾をおさめ、演壇からおりた凡氏に非礼を詫びたことでした。
小泉凡氏とのやりとりは4年前のことでした。ハーンの曾孫その人が認めたということは、とりもなおさず、東憲一氏の論文が正鵠を射ているということであり、ハーンが《Kano himself is all cunning.》と書き残したことの何よりの証左でありました。物書きの端くれとして、私は引用されたものについては必ず出典をこの眼で確かめることを信条としています。でもこのときだけは、凡氏が素直に容認されたことを理由に、東氏が詳細にあげておられる引用書簡の出典に目を通すことを怠ってきたのでした。
 
あらためて《Kano himself is all cunning.》という表現をみずからこの眼で確かめてみたい、と思ったのは、この春、熊本に遊んでハーンの旧居を訪れたときのことでした。 熊本市 の有形文化財に指定された住居内には、ハーンの足跡を紹介したパネルや作品のほか、当時、ハーンが毎朝礼拝したといわれる神棚も残されています。案内役の上品なご婦人とハーンと嘉納の話を交わしていたら、治五郎さんに逢いたければぜひ五高記念館へお行きなさいと仰る。お勧めに従って訪ねた記念館は熊本大学構内にあり、国指定の重要文化財として明治22年に建てられた優美な姿をそのままに残しています。
キャンパスには学生があふれているのに、記念館は森閑として訪問者は私ひとり……いや正確にはひとりではない、展示室の中は肖像画やら写真やら書額やら、どこへ行っても嘉納校長が迎えてくれました。それは空耳だったのでしょうか、そのとき、私は嘉納校長の「Kano himself is all cunning.》の原文を読んでくれたかね」という声がはっきりと聞こえたのでした。
私は帰宅してすぐ東氏の論文を取り出しました。私はすっかり忘れていたのですが、皮肉なことに、問題の表現が所収されている「バレット版」は熊本大学図書館にマイクロフィルムで保管されていることが記されていたのでした。私は迂闊にも、探し物のすぐそばまで行きながら、気づかずに通り過ぎてしまったというわけでした。(続く)

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