葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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ハーンに嫌われた? 嘉納治五郎(続き)
 
この失態は、しかし、すぐに悦びに変わりました。同図書館にメールを出して確認したところ、なんと利用相談担当の永村典子氏の破格のご厚意で、現物のコピーを送っていただくことができたのです。届けられたA37頁にも及ぶハーン直筆の手書きの英文は、《May 10, 1894》と日付の入った封筒のコピーまで含めた書簡の全文で、問題の《Kano himself is all cunning.》という箇所には付箋がつけられているというご親切さでした。
 
実はこの書簡には日本語訳があるのです。それは東氏の出典リストのうちの『小泉八雲全集 第十巻(書簡集)』(昭和2年第一書房刊、原文は旧仮名旧漢字)に所収されています(因みに先に引用した西田千太郎宛書簡もこの本の日本語訳に基いています)。この書簡の全文は数頁にわたる長文であり、ハーン特有のまわりくどい表現が多いため、ここでは東氏のいう「自分の対立する某教師との批判をK氏との係わりで批判している」部分だけを引用することにします。
「チェンバレン様、――(前略)
私の当地での難儀は総てみんな一人の男の仕業でありました。…兎も角もその男はK氏に自分の言うことを聴いて貰える男です。K氏は今その男を助教授か何かにして大学へ――その予科へ――入れようと力めております。然しそれはただその男を出す策略であるのかそうでないのか、私は確かとは知り得ません。私の景慕者の専門は英文学であります――だから私はその邪魔になるのに相違ないと思います。英文学に関する書物の非常に立派な――驚嘆されさえする程の――コレクションをもって居り、書名や代価について本屋の番頭ほどの知識をもっております。…手紙を誤り無しに十行と書けぬ男で、『湖上の美人』が判らぬ男であります。然しその男はベーコンの論文、バークの演説、カーライル、その他変妙なもの色々と教えます。その上またその男は教科書を出版します。…この私の友人が、大学での頗る有効ならざる語学教授法をK氏へ申し立てたほど、それほど自分をえらい語学者だと思っているのは寧ろ滑稽であります。K氏はこの事について文部大臣へ一書を認めたらよかろうとその男に言いました――屹度その男はそうしたろうと思います。その厭な小さな畜生に対して私は非常に親切にしております。が然し私の神経は――その男がやっているのが判っている事を了解している風をよそおうことは出来ませんから――痛められます。K氏がその男を大学へ遣るか、或はこの学校から何処か他へ遣るかするよう、私は神々にお祈りします。…でも、私共の学校には此の男よりもっと悪い者がいるかも知れません。無体粗暴といった性質の男ではありません――小っぽけな、上品ぶった意地悪の種類に属するものであります。…幾頁と悪口を書きました! でも私の苦痛を察することの出来る誰かへ吠えずにはいられません! ――(後略)」
 
昭和2年の直訳式のこなれていない日本語とあってまことに読みづらい文章ですが、「対立する某教師」への悪口雑言が書きつらねられているのにあらためて驚かされます。
省略した文中に、(あのS.Sが悪意ある歓喜を感ずると言う積りはないが…)という文節がありますから、このイニシャルから、『文学アルバム小泉八雲』(2008年恒文社刊)に掲載された年表によって、この男が佐久間信恭(音読みでサクマシンキョウ)であることがわかります。同年表の18945月の項に、「この頃から同僚・佐久間信恭などとの確執が激しくなり、五高退任を考えるようになる」という記述があるのです。同書は八雲の孫小泉時および曾孫・小泉凡両氏の共編になるものですから、まず間違いはないでしょう。この事件で嫌気がさしたハーンは、この年の10月に熊本を去って神戸に職を求めます。
 
東氏の指摘どおり、日本語訳では「K氏」となっているところは、ハーン手書きの原文では《Kano》と記されています。西田仙太郎宛の書簡では「嘉納氏」と訳されているので、原文は《Mr. Kano》となっていると推定されますが、ここではMr.の敬称はなく Kano》と呼び捨てになっているのです。
但し、この邦訳文の中には、《Kano himself is all cunning.》に該当する日本語は出てきません。くせのあるハーンの字体にてこずりながらその前後の文章を確かめると、問題の《Kano himself is all cunning.》という短文は、日本語訳の「私の景慕者の専門は英文学であります」(引用文の4行目)の直前にあることがわかりました。訳文ではその部分の訳がすっぽりと抜け落ちているのです。因みに「景慕者」とは聞きなれない日本語ですが原文は《my admirer》、多分ハーンは佐久間信恭のことを皮肉をこめてそう言ってるのでしょう。
つまりは、嘉納が佐久間を助けてやるつもりなのか、見放すつもりなのか、「私は確かとは知り得ませんI cannot be sure.)」と言ったあとに「嘉納自身はまったく狡猾なやつだ」という最大級の悪口が出てくるというわけです。
ここは少し文章の脈絡が合いません。嘉納が憎き同僚を助けることがはっきりしたのなら、そんな捨て台詞もいいでしょう。でもハーンは、その10数行後に、「K氏がその男を大学へ遣るか、或はこの学校から何処か他へ遣るかするよう、私は神々にお祈りします」と書いているのですから、嘉納の態度がまだ定まっていないことは明らかです。助けるか見放すか、まだわからないうちにこんなことを口に出すのは、嘉納がわざと意地悪をしてなかなか決めようとしないとでも言いたかったのでしょうか。
 
さて、ここで再び私の頭に生じた疑問は、
なぜ、邦訳文は原文の《kano》を「K氏」と表現したのか?
なぜ、邦訳文はKano himself is all cunning.》という部分を外したのか?
という2点でありました。
疑問を解く鍵は、この邦訳文が所収されている『小泉八雲全集 第十巻(書簡集)』(第一書房)が、昭和2年に刊行されていることにありました。昭和2年といえば嘉納治五郎はまだ存命中(67歳)で、講道館柔道の創始者にして貴族院議員且つIOC委員として大活躍のさなかでした。訳者は大谷正信、ハーンの松江時代の教え子ですが、おそらく当時はハーンよりもはるかに高名な嘉納治五郎に遠慮して「K氏」とイニシャルに敬称をつけ、侮蔑的表現のほうは意図的に削除したのでありましょう。
ところで、東氏の出典リストには第一書房の全集のほかに、『ラフカディオ・ハーン著作集全十五巻』(恒文社1998年刊)があげられています。ネットで調べてみると、同書の第十四、十五巻の副題は「ハーン=チェンバレン往復書簡」とありました。もしその中に同じチェンバレン宛書簡が登載されていれば、いまや嘉納治五郎よりハーンのほうが著名人となった1990年代の最新の訳文とあってみれば、《Kano himself is all cunning.》はそのまま訳されているに違いないのです。
いったいどんな日本語になっているのか?……しかし残念なことに、わざわざ県立図書館から取り寄せてもらった部厚の箱入り豪華本には、山下宏一氏の『解説』として、「(二人の往復書簡は)収録紙数の制限もあって完訳登載とはならなかった」旨が記され、「その第一の未収録部分は、189310月〜12月までの3カ月間であり、第二の部分は、18943月〜12月までの10カ月間である」とありました。私の探す1894510日付の問題の書簡は第二の未収録部分になっていたのです。
 
しかし、この豪華本には思わぬ収穫がありました。それは第十四巻の斎藤正二氏の「『ハーン=チェンバレン往復書簡』解説」で紹介された最晩年のチェンバレンの描いた《ハーン像》の一節でした。(高梨健吉訳『日本事物誌二』平凡社版東洋文庫)。
「彼は常に最初は友人を理想化する。そして自分の間違いに気がつくと、自分を欺(だま)したといって友人に憤慨するのであった。著者は日本における彼の最も古くからの友人であるが、この共通の運命を免れることはできなかった。超人間的な美徳や才能を私が持っていると思っていたのが、実際は存在していないことを彼は突然に悟った。私がハーバート・スペンサーのあの大冊の本を三冊か四冊しか読んでいないこと…を彼が発見したとき、われわれの間に危機が訪れた。ラフカディオにとって、ハーバート・スペンサーは神のような予言者であった。…その日からわれわれの友情は破れた。」
そういえば問題のチェンバレン宛書簡を読み直してみても、ハーンがなにゆえ嘉納にこれほどの憎悪を抱いたのかという理由は漠然としています。どうみても、《kano》と呼び捨てにし、Kano himself is all cunning.》と罵るほどの理由は見出せません。むしろ嘉納にしてみれば、佐久間信恭に対する憎しみの八つ当たりを受けたようなものとしか考えられないのです。
結局、日本でのハーンをもっともよく知るチェンバレンの観察が正しいのでしょう。嘉納に対してもまた、最初は理想化し、やがて欺(だま)されたと憤慨するいつものハーンが顔を出しただけなのでしょう。おそらく小泉凡氏も、このチェンバレンのハーン評を読んでおられたことでしょう。
 
ハーンはたしかに、《Kano himself is all cunning.》と書きましたが、それはハーンの性格からきたもので、嘉納の側にはそうまでいわれる理由はなかったのです。嘉納治五郎に対する私の敬意は、いささかもゆるぐことはありませんでした。(完)

嘉納治五郎の章の六

ハーンに嫌われた?嘉納治五郎
 
かのラフカディオ・ハーンが、書簡の中で嘉納治五郎を名指して、
Kano himself is all cunning.
 と記していることを知ったのは、嘉納ファンをもって任ずる私にとって、衝撃的な出来事でありました。
cunning》とは、どの英和辞書をひいても筆頭に「ずるい、こすい、狡猾な」の意味が出てきます。英語圏では、人を評する場合の最大の侮辱語といっていいでしょう。
 
この書簡は、1894年(明治27510日付でハーンの畏友チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)に出されたものです。チェンバレンはハーンの松江中学、五高、東京帝大での就職に大きな口添えをした東京帝国大学の日本語学教授で、松江時代の中学教頭だった西田千太郎と並んで、ハーンがもっとも多く書簡を交わした人でありました。
この書簡の存在を知ったのは、東(ひがし)憲一氏の『熊本における嘉納治五郎とラフカディオ・ハーン』(1995東京外国語大学論集51)と題する小論文(B516頁)からでした。東氏は東京外国語大学の教授で専門は「武道論」、嘉納治五郎研究の第一人者といわれます。
 
周知のごとく、ハーンと嘉納との関わりは熊本で生じました。
1891年(明治2411月、ハーンは松江を引き払って第五高等中学校の英語教師として新妻セツを伴って熊本に赴任しますが、そのハーンを招聘したのは、当時の五高校長、嘉納治五郎でありました。このことは嘉納自身が自伝の中で五高時代を振り返って、
学校長として自分のしたことは数多いが…ラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師から抜いて招聘したことは特筆すべき一事である」
 と、些か得意げに記しています(『嘉納治五郎大系第十巻』)。
私にはハーンの赴任時に校長の嘉納みずからが熊本駅まで出迎えに行ったというほのかな記憶があって、それを確かめるべくネットを渉猟していたとき、たまたま東氏の論文に行き当たりました。私はさっそく、不躾にも氏に直接メールしてこの論文を郵送してもらったのでした。
東氏の論文の主眼は、ハーンと嘉納の熊本時代の関係を、柔道という新しい視点から捉えようとするものですが、後半では、ハーンが遺した書簡を通して、最初は極めて良好であったハーンの嘉納に対する感情が次第に悪化してゆく推移が克明に綴られています。
 
この推移を東氏は西田千太郎に宛てた7通の書簡でたどります。
かいつまんで紹介すれば、
嘉納氏は、…私の知っている如何なる日本人よりも、英語を話すこと、書くこと共に、一層上手です」(1891年、月日不明)
「貴君は屹度嘉納氏を大いに好きなさるでしょう。氏は…非常に同情的で、且つ非常に飾らない性質です――これは毅然たる人物に殆ど特有です。一たび氏に逢うと、恰も多年の知り合いの感があります」(1891.11.30付)
2通では、初めて会った嘉納に対して最大級の讃辞を記しますが、翌年になると早や、嘉納との雲行きが少し怪しいことが伺える内容になります。
「嘉納氏は帰校されましたが、私は十分談話の機会を得ませんでした――ただ一回、私の第二回の契約書に調印するため、急に呼び出されただけなので」(1892.9.18付)
さらに1年経つと、元来付き合い下手のハーンは自ら孤立化を深めていき、嘉納のみならず学校全体に対する愚痴めいたものを西田にぶつけます。
「時がたつにつれて、私はますます教師及び生徒の両者と交際が薄らいできました。私は最早宴会にも出席しません。結局私は孤独を欣んでいます。それは、私の仕事に好都合です。しかし貴君のような人がいたならばと思うことが毎度あります」(1892.10.23付)
「当校が幾分いやになってきました。私は皆が私を退けようとしていると考えます。しかし判然わかりません――私は皆の性質を理解することができないからです」(1893.1.23付)
 その一方では、嘉納の転任時にこれを惜しむ表現も見られます。
「当方にもまた御報道致すべき件があります。嘉納氏は去りました。一同非常に悲しんでいます」(1893.1. 日付不明)
 嘉納に対して批判めいた言葉が出てくるのは(1894年、月日不明)の書簡で、東氏は、嘉納に出した手紙の「返事もきません」という表現だけを引用され、内容は不明なるも「嘉納に対し期待が外れた感のある内容である」と推量しています。
 
このあと東論文に登場するのが、冒頭に掲げた問題のチェンバレン宛の手紙です。
なぜかここでも書簡の引用はなく、「嘉納が熊本を去ってから一年以上たつというのに、内容的には、極めて険悪な内容になっている。嘉納のことをK氏と称し、ハーンにとっての人間関係の最大の悩みである自分の対立する某教師との批判をK氏との係わりで批判している。…K氏こと嘉納がその某教師に肩入れしているとの内容である。なぜこのような展開になったのであろうか」と説明されます。
私が衝撃を受けたのは、続いて記された、
「ビスランドがまとめたハーンの書簡集では、前掲と同じ内容であるが、バレット版によると、さらに追加されていて、嘉納についてもビスランド版では《K―》となっているが、バレット版では《Kano》となっている。又、某教師に対する批判と同時に、《Kano himself is all cunning》という表現になっている。このような表現は、今までには見られない」
という一文でありました。
 
 ハーンはなぜこんな過激な表現で嘉納を評するようになったのか? 
そういわれるほどの理由が嘉納の側にあったのか?
にわかに湧いた私の疑問を解消してくれたのは、ハーンの曾孫小泉凡氏の言葉でした。凡氏がかつて我孫子に『バーナード・リーチと小泉八雲』という演題で講演にみえたとき、東氏の論文を読んだばかりの私は、講演終了後真っ先に手を挙げて質問に立ったのでした。当地きっての嘉納治五郎ファンを自任している私としてはKano himself is all cunning.》という表現が何としても納得できない、曽祖父のこの言葉をどう思われるか? というものでした。われながらいささか詰問調の質問に対して、凡氏は丁寧に答えてくれました。
「曽祖父は付き合い下手で、今でいうキレやすい老人でした。思い込みの強い人であったため、いろんな人とぶつかっています。そういう彼の性格に免じておゆるしいただきたいと思うのですが…」
若手のハーン研究家としてすでに一家をなしておられる凡氏の、思わぬ腰の低さに感動した私はすぐ鉾をおさめ、演壇からおりた凡氏に非礼を詫びたことでした。
小泉凡氏とのやりとりは4年前のことでした。ハーンの曾孫その人が認めたということは、とりもなおさず、東憲一氏の論文が正鵠を射ているということであり、ハーンが《Kano himself is all cunning.》と書き残したことの何よりの証左でありました。物書きの端くれとして、私は引用されたものについては必ず出典をこの眼で確かめることを信条としています。でもこのときだけは、凡氏が素直に容認されたことを理由に、東氏が詳細にあげておられる引用書簡の出典に目を通すことを怠ってきたのでした。
 
あらためて《Kano himself is all cunning.》という表現をみずからこの眼で確かめてみたい、と思ったのは、この春、熊本に遊んでハーンの旧居を訪れたときのことでした。 熊本市 の有形文化財に指定された住居内には、ハーンの足跡を紹介したパネルや作品のほか、当時、ハーンが毎朝礼拝したといわれる神棚も残されています。案内役の上品なご婦人とハーンと嘉納の話を交わしていたら、治五郎さんに逢いたければぜひ五高記念館へお行きなさいと仰る。お勧めに従って訪ねた記念館は熊本大学構内にあり、国指定の重要文化財として明治22年に建てられた優美な姿をそのままに残しています。
キャンパスには学生があふれているのに、記念館は森閑として訪問者は私ひとり……いや正確にはひとりではない、展示室の中は肖像画やら写真やら書額やら、どこへ行っても嘉納校長が迎えてくれました。それは空耳だったのでしょうか、そのとき、私は嘉納校長の「Kano himself is all cunning.》の原文を読んでくれたかね」という声がはっきりと聞こえたのでした。
私は帰宅してすぐ東氏の論文を取り出しました。私はすっかり忘れていたのですが、皮肉なことに、問題の表現が所収されている「バレット版」は熊本大学図書館にマイクロフィルムで保管されていることが記されていたのでした。私は迂闊にも、探し物のすぐそばまで行きながら、気づかずに通り過ぎてしまったというわけでした。(続く)

    師承(続き)

 私は、柳は嘉納に嫌われていたのではないかと思っています。
 嘉納にとって、学習院を銀時計で卒業するころ(明治四十三年春)までの柳は学究的な好ましい甥であったかもしれない。しかし、同年、『白樺』を創刊して志賀や武者らとより深く交わるようになった柳を、次第に苦々しい思いで眺めるようになったのではないか。
「『白樺』の仲間たちは、一人の例外も無く軍人嫌いであった。武者小路実篤なぞ、東大社会学科在学中、母校の学習院を訪れて『人間の価値』という題の演説をし、『人間が人間の価値を知らないところから色々な不幸が起る、一番人間の価値を知らない者は軍人です』、そう言って院長乃木稀典大将の顔を睨みつけたとの逸話がある。あとで乃木院長が側近の者に『あれは坊主か』と訊ねていたそうだ。……
 こういう連中の作っている『白樺』は、学習院教師の間で当然評判が悪かった。少しあとのことだが、『乃木さんが困っておられますよ』と暗に廃刊を勧めに来た人もあり、やがて『白樺』の閲読が禁止される。」
と、阿川弘之氏は書いていますが(『志賀直哉』)、このような風評は当然嘉納の耳に届いていたことでしょう。

 そこへ、志賀が柳のコネで徴兵検査を免れた事件が発生します。
 志賀は明治四十三年六月に徴兵検査を受けて甲種合格、その年の暮に市川鴻台(こうのだい)の野砲兵第十六連隊へ一年志願兵として入団しますが、たったの三日で除隊になって帰宅します。「常後備役免除」ということで生涯兵役の義務から解放されたのは、衛戍(えいじゅ)病院の横井病院長の配慮によって作られた、極度の難聴という一枚の診断書だったと阿川氏はいうのです(『志賀直哉』)。
 横井病院長は柳の遠縁にあたる人で、志賀は入団前から柳を通じて然るべき配慮をたのんでいたのです。志賀はこの柳の配慮に感謝をこめて、一冊の洋書を贈っています。
 この事件を、多分漏れ聞いた嘉納は、烈火のごとく怒ったでありましょう。滅私奉公・忠君愛国を生涯貫いた嘉納にとって、国民の義務である兵役を忌避するなどは、赦さざるべき行動だったにちがいありません。
 さて、志賀より六歳年下の柳はそれより三年後の大正二年、大学卒業の年に一年志願兵服役願を第一師団長に提出しますが、検査には合格しませんでした(理由は不明)。柳の不合格を聞いた志賀は大正二年七月二十三日付の日記に「柳は検査で今日まぬ免かれたそうだ。仕合わせだった。兵役という野蛮な体刑を受けるのは受ける人の間抜けだという気さえする。どんな偽りを以ってしても免れなければ己を反ってあざむく事なのだと思う」と記しています。
 柳もまた、婚約者の兼子に、「本日検査の結果無事不合格にて候ひし故御喜被下度(およろこびくだされたく)」という手紙を送っています。この手紙の日付も七月二十三日付で、多分柳はすぐ志賀に知らせて、志賀の祝福を聞いた後にこみ上げてきた喜びを兼子に書き送ったのでしょう。
 徴兵検査の不合格を手放しで喜ぶこんな甥の姿も、嘉納の心境をいたく害したことと思われます。

 柳が兼子と我孫子に新婚家庭を構えるのは翌大正三年の九月、志賀が来て武者が来て、白樺派のコロニーができるのは大正五年の暮のことになります。それから武者が出て行くまで一年九か月の間、リーチを交えて毎日のように柳邸で会合が開かれる。
 嘉納は三十八年もの長きにわたって経営してきた私塾・嘉納塾の塾則の第一に「労役を尊ぶこと」を掲げています。その嘉納の眼から見れば、正業にも就かず、軍隊にも行かず、親父の財産を食いつぶして、ひねもす雑談に明け暮れている若者の姿は、見るに耐えぬ光景だったのでありましょう。
こんな風に想像してみれば、柳が嘉納のことをひと言も書かなかった理由がよめてきます。
 利口な柳は、嘉納に嫌われていることを認識していたのです。志賀も武者も、同様だった。
 それにしても、柳の叔父・嘉納に対する完黙ぶりは徹底しています。徴兵忌避事件でこっぴどく叱られたか、あるいは柳が志賀らを会わせようとしてけんもほろろに断られたか。
 いずれにしても柳が完黙を貫くだけの衝突があったにちがいない、と私には思えてなりません。

 因みに現在、柳邸跡に住んでおられる村山正八氏の家には、嘉納の筆になる「三樹荘」の書額があります。村山氏は甥っ子の柳が隣に移り住んだのを喜んだ嘉納が贈ったと説明されますが、これまでの私の想像からすれば、このいわれは疑問符がつきます。
柳はこの時点で嘉納に嫌われていたのですから、書額はそれ以前、姪の直枝子が母勝子(嘉納の姉)と住む家を建てたときに、新築祝いとして贈ったものではないでしょうか?(完)

     師承(続き)

 周作に倣ったのは、実はそればかりではない。お玉が池の千葉道場の隣にはそのころ評判の高かった儒者東條一堂が塾を開いていた、と司馬氏は記しています。
「一堂は周作にとって父親ほどの年齢だったが、ふかく交わり、どちらが言ったのか、『若者にとって、文武隣同士になっているから、両方学べて、こんな便利なことはあるまい』といったという話がある。……むろん両塾にとって経営上たすかるのである」(前掲『街道をゆく』「神田界隈」)。
 嘉納は講道館創設の三か月前に私塾嘉納塾を開いて、起居を共にしながら以後三十七年間の長きにわたって若者の教育につとめます。塾生にはすべて講道館に通わせて柔道を教えます。文武両道を旨とした嘉納の教育は、東條一堂の儒学塾と提携した周作のやり方を模範としたのではないでしょうか。

 さて、学生の身で設立した講道館で嘉納の工夫の稽古台になったのは、筆頭入門者の富田常次郎と半年遅れて入門してきた西郷四郎でした。特に、姿三四郎のモデルと伝えられる西郷は、永昌寺時代の稽古台を一身でつとめました。稽古時間を限定すると弟子が集まらないので、日曜は午前七時から正午まで、ふだんは午後三時から七時まで、いつ来てもよいということにして嘉納か西郷かどちらかがじっと待っている。寒気の厳しい日曜の朝などは、足が冷え切って稽古どころではなかったといいます。それでも何本も何本も、休みながら稽古を重ねて合理的な身体の動きを追求し、技を編み出していったのです。
 これほどの苦労を重ねて生み出した講道館柔道を、嘉納は惜しげもなくすべてを開陳して普及につとめます。それは、自らの体験に鑑みて、知・徳・体三育に通達するのに柔道ほど最適な運動はないという確信をもったからでした。嘉納は「かかる貴重なものはただ自ら私すべきものではなく、弘くおおいに人に伝え、国民にこの鴻益を分かち与うべきであると考うるに至った」と自伝で述べています(『嘉納治五郎大系第七巻「柔道家としての嘉納治五郎」』。
 練武館、講武館、尚武館など、いかにも武術の道場という名称を避けて講道館と名づけたのも、「道は根本で術はその応用として授けることを明らかにするの意」を込めたものでした。

 そのため、驚くべきことに、講道館創立以来明治二十七年に至るまでの十二年間は、入門料も道場費も全く徴収しませんでした。先の自伝には、
「最初の中は貸稽古着まで備えておいて修行者の便利をはかった。明治二十七年に至って初めて金壱円の入門料を納めしめることにした。それもその動機は金銭をとるためではなく、無制限に入門させればいわゆるひやかしものが多数集まって来て真実の入門者の妨げとなるということを恐れたためであった。」
と記されています。
 その後、漸次道場が盛大となるにつけ道場費が次第に多くかかるようになったので、明治三十七年からはさらに毎月三十銭の道場費をとるようになるのですが、「講道館は教えるということについては、道は金と交換にこれを授くべきものではなく、志あるものにのみこれを教授するのであるという、講道館最初の精神に基づいて授業料というものをとらない」という態度を貫きます。その結果、教師たちには多大な負担を強い、「自分が教育者として得る収入の余分をこれに充て、なお他に翻訳などをして収入を増し、それにて経済をささえた。のちにはそれでも不足を告げて遂に負債を起こして、一時これがために苦しめられた時代もあった。」と、述懐するのです。
 千葉周作が道場費をとったかとらなかったかは定かではありませんが、もしとっていたとすれば、この点において、嘉納は周作を超えたといっていいでしょう。

 ところで、嘉納と同じ我孫子に住んだ白樺派の連中も、誰一人として師にはつかなかった。柳宗悦も志賀直哉も武者小路実篤も、「師承」の対語である「我流」をきわめて大家になった人です。バーナード・リーチもまた、六世尾形乾山という筋目の師に入門するものの、伝統的な古風な陶工であった乾山に飽き足らず創意工夫を重ねて多くの技法を自ら生み出していったことで、司馬氏のいう「師承を脱した人」に数えていいのかもしれません。
 ここまで書いてきて、また一つ、私の中に大きな「?(はてな)」が湧き出てきたことでした。
 それは、もし嘉納と、柳、志賀、武者、リーチたちが「師承を脱した人」というキーワードでくくれるとすれば、彼らはなぜ嘉納と親しく交流しなかったのでありましょうか?
 私の知る限り、柳たちが嘉納を訪ね、「師承を脱した」大先輩の話を傾聴したという記録はありません。嘉納別荘の真ん前に住んでいた柳の家に、志賀と武者は毎日のようにやって来て、リーチを交えて芸術論に花を咲かせていたというのにです。
 その上、柳も志賀も学習院時代には柔道をやっていた。鶴見俊輔氏は「柳は柔道に関心がなかった」といわれるが(著書『柳宗悦』)、そんなことはない。『学習院柔道百二十年史』(平成十七年、学習院柔桜会発行)の明治三十五年秋と同三十七年秋の院内紅白戦の出場選手に柳の名が記されています。三十五年は名前だけだが、三十七年は徳川誠を下し中島矩に敗れて一勝一敗の成績を残しているのです。この時期、柔道はまだ正課ではありません。柔道が(剣道と併せて)学習院武道の必修となるのは乃木大将が院長に就任した明治四十年のことであり、それまでは随意課として「修業志願の者に之を授く」とされていました。柳は自分の意思で柔道をはじめたのでした。
 運動神経が発達していた志賀の場合は、もう少し積極的に取り組んでいた。明治三十五年春の紅白戦に出場した志賀は唯一人、三人抜きをやってのけて「志賀君の御手並いつもながら感服々々」という戦評まで付されている腕前でした。
 そんな二人であってみれば、「師承を脱した」大先輩というよりは、まずは柔道の開祖としての嘉納を表敬訪問してしかるべきでした。「たまには叔父貴から柔道の話でも聞こうじゃないか」と、柳が志賀を誘う場面はなかったのでしょうか?
 周知のごとく、嘉納の教育者としてのスタートは学習院の教授であり、のち教頭までつとめました。すでに講道館を創立していた嘉納は院生に柔道を教え、学習院は日本で最初に柔道を教科に採り入れた学校であるという名を残します。柳や志賀の在学中は、嘉納は東京高等師範の校長職にありましたが、彼らにとって嘉納は広い意味での師弟でもあったのです。

 嘉納も柳、志賀、武者もそれぞれ厖大な文章を書き遺しましたが、嘉納が柳たちについて、柳たちが嘉納について述べた文章を、私はまだ発見できていません。自らを語ることには人一倍饒舌な志賀と武者が嘉納のことに一切触れないのは理由(わけ)あってのことでしょう。
 特に志賀は、晩年(七十三歳)、講道館機関誌の『柔道』(昭和三十一年七月号)に「柔道の思い出」という談話文を寄せています。それによると三人抜きは高師との対抗戦での出来事となっていますが、問題は嘉納治五郎について、たった一回、それも文末で、
「第一回の世界選手権大会も賑やかに行われたし、柔道もこれからますます世界的に発展してくるだろう。しかし、…嘉納師範の時からいくらかあいまいではなかったかという気のするのは、柔道が武道かスポーツかという点で、…ここらで《武道》と《スポーツ》との限界だけははっきりさせておくべき時期ではないかという気がするね。」(傍線筆者)
と、むしろ批判的なニュアンスで触れているだけだということです。
 もし志賀が嘉納と会っているなら、ほかならぬ講道館機関誌に掲載されたこの談話においてこそ語られるべきでありましょう。「柔道の思い出」は語っても「嘉納師範の思い出」は語らなかったことをみれば、志賀は嘉納と会わなかったと断定していいでしょう。

 それにも増して不思議なのは、叔父である嘉納について、柳が一言も書き残していないことです。
 柳は『白樺』に三回にわたって我孫子礼讃を書いたにもかかわらず、我孫子に移ってきた経緯に関して、特に嘉納にまったく言及していない。移転直前にリーチに宛てた手紙(大正八年八月二十八日付)にも、「近い将来、ブレークの本を書き終えたら、…家内と我孫子(上野から汽車で約一時間です)に引っ越すことになるでしょう。姉の新しい別荘があいているのです」(傍線筆者)と書いています。兼子夫人も義姉(あね)(柳の姉直枝子)に勧められたとしか言っていません。
 自伝を書かなかった柳は、二歳下の朝鮮で死んだ妹千枝子を除いて、家族については多くを語っていません。しかし、満一歳十か月で他界した父についてはその経歴を「柳楢悦小傳」という小文に認(したた)めて、マルチ人間であった父の功績を称えています。
 その「附記」の中で、父没後二十六年間にわたって子供たちを育ててくれた母への感謝を六行にわたって述べています。しかし、母勝子が嘉納の姉であり二十五も年上の楢悦の後妻に入ったということは、なぜか書かれていません。(3へ続く)

    師 承

 私の敬愛してやまない司馬遼太郎氏が、嘉納治五郎を讃える文章を書いていることを発見したのは、意外な驚きであり、また喜びでもありました。
それは、かつて雑誌「文藝春秋」の巻頭随筆欄に連載されたものを集めた『この国のかたち』という著書の、「師承の国」なる小題の中に書かれています。
「師承(ししょう)」とは耳慣れぬ言葉ですが、鎌倉から江戸期にかけてごく普通に使われていた言葉で、「我流」の対語に用いられたといいます。何ごとも筋目の師につかねば身につかないという意味のことで、それはそれでもっともなことなのだが、師承を尊ぶあまりにその体系をだれから承けたかということが鉛のように重くなり、師の名声によって弟子の生涯の大小がきまったりした、やがて師の説くことから一歩も離れてはならないという閉鎖性を重くする作用をもたらしていったと司馬氏は述べ、思想を失わせたのはこの「師承」という悪しき伝統であると指摘します。それは宗教界において顕著であり、平安以降の仏教はひたすら宗祖をまねることに汲々とし、つまりは師承を偏重して停滞保全につとめてきたと言うのです。
 この弊風を明治になって打ち破ったのが清沢満之(きよざわまんし)で、彼は東本願寺に学費を出してもらって西洋哲学を学び、ヘーゲルの弁証法をもって仏教思想と親鸞思想を基礎づけ、哲学的に近代化しました。「こんにち親鸞といえば、ヘーゲルとならべさせても、印象的に違和感を感じさせないというようにしたのは、清沢の力によるものだった」と、司馬氏は最大限の讃辞を贈っています。
 非学の上に凡そ哲学とは無縁で清沢満之なる人物をまるで知らない私が、この高邁な司馬論に共感することなどとてもできませんが、私を喜ばせたのはこれに続いて書かれた次の一節です。
「武道もまた、思想と同様、論理の整合がなければなりたたない。室町期から興った諸武道は、江戸期に入って諸流派とも師承の芸になった。
 剣術の分野で、この伝統をこわし、教授法を合理化して万人が参加できる体技にしたのは、江戸末期の千葉周作だった。柔道においてそれをやったのは、明治の嘉納治五郎だったことは、よく知られている。
 この師承の国で、師承を基礎にしつつも伝統にあたらしい大展開をみせた――明治までの――例は、私が理解する範囲で、千葉、清沢、嘉納の三人だけだったように思える。
 三人とは、なんとも少なすぎるようである」

 ご存知、司馬氏には千葉周作を描いた『北斗の人』という名作があります。尾崎秀樹氏は「司馬氏は、千葉周作を天性の合理主義者として定着し、日本人のそれまでのものの考え方を一変させた、文化史上の一偉材として位置づけている」と評します(『歴史の中の地図
・司馬遼太郎の世界』)。
 周作が国を発つ折、父の友人佐藤孤雲から、剣の道をきわめるためには、まずすべてに従順でなければならないが、ある時期を過ぎてもまだ従順なのは愚かだ、ある時期がくればすべてに対して反逆しなければならない、と諭されるくだりがありますが、師承を脱するというのはこのことを指すのでしょう。
 周作はこの教えを守って、浅利又七郎や中西忠兵衛に剣を学ぶも、自ら編み出した技法をきわめて北辰一刀流を開きます。通称「お玉が池の千葉道場」はたちまち殷賑をきわめ、門人には坂本竜馬、清河八郎、有村次左衛門などをはじめ、天下の志士の輿望を担った若者たちが参集します。
 人気の秘密は周作の教授法にありました。彼は剣術をマニュアル化したのです。戦時下の昭和十七年に刊行された『千葉周作遺稿』の中の「剣法秘訣」を読むと、所作の一つ一つがいかに平易に明解に具体的に述べられているかがわかります。
 司馬氏にいわせると、「かれは剣術に、体育論的な合理主義をもちこみ、古来、秘伝とされてきた技法のいっさいを洗いなおして、万人が参加できる流儀を編みだした。」(『街道をゆく』「神田界隈」)という表現になります。氏は続いて、「剣術史上の周作の位置は、明治初年に柔術の諸流を再検討してあらたに柔道を興した嘉納治五郎に似ている。」と書いています。

 時代のあとさきで見れば、千葉周作が嘉納治五郎に似ているのではなく、嘉納が周作に似ているというべきなのでしょう。あらためて嘉納の事蹟をたどると、二人がいかに似ているかが明らかになります。すなわち嘉納もまた、最初福田八之助について天神真楊流(てんじんしんようりゅう)の柔術を学び、磯正智の磯流に転じてのち、飯久保恒年について起倒流を習うのですが、これらに飽き足らず自ら工夫を加えて講道館柔道を編み出すのです。
 逸早くマニュアル化した点も同じで、『嘉納治五郎大系』(第三巻)には「講道館柔道講義」(明治三十五年)、「柔道本義」(大正六年)、「柔道教本」(昭和六年)の三つの教本が収められています。「講義」は文章だけですが、「本義」では挿絵が加わり、「教本」になると写真が添えられて、まことに親切でわかりやすい指導書となっています。
 しかし、二人は結果的に似たのではない……私は、嘉納が意識的に千葉周作をお手本にしたのだと考えているのです。というのは、嘉納の自伝に、磯正智先生は神田のお玉が池に道場を開いていたという記述があるからです(『嘉納治五郎著作集』第三巻「柔道家としての私の生涯」)。武道家としての嘉納が千葉周作を知らないわけはありません。むしろ嘉納はお玉が池の磯道場に通いながら、かつてこの地に北辰一刀流を開いた千葉周作に、熱き思いを馳せていたことでしょう。

 そういう眼で見直してみると、二人のマニュアル、千葉周作「剣法秘訣」と嘉納「柔道本義」には多くの類似点が存在します。
 主な点を書き並べると、次のようです。
◇稽古前の心得について――
 周作「稽古前、食事は成るたけ減少すべし、…力士等の食事する様子を見るに、先ず中椀に薄き粥二杯より多くは食せず、人目を忍びて多く食せしものは、相撲稽古にかかりて、息合い早く弱り、中々人並の稽古出来かぬるものなり、剣術も是と同じ事にて」(第一「剣術初心稽古心得」)
 嘉納「乱取の前は食事後すぐと空腹時は避ける。疲れたときや睡眠不足のときはやめる。身体は清潔に、稽古衣(ぎ)は修理しておく」(「柔道本義」第六回)
「爪を切る。帯の結び目は腹の位置に。両便は溜まっておらぬよう。酒は飲まぬこと。水は少量ならよい」(「柔道本義」第七回)
◇稽古相手について――
 周作「稽古中に(相手を)選り嫌い致す……は稽古上達の大害と知るべきことなり」(同前)
 嘉納「最初は上手と、それから少し下手と、また上手と、同僚と稽古すべし」(同前第五回) 
◇指の使い方について――
 周作「太刀の持ちようは、第一小指を少しくしめ、第二紅さし指は軽く、第三中指は猶お軽く、第四人さし指は添え指と云うて添ゆる許りなり」(同前)
 嘉納「投げられたときの倒れ方は、両手の指先を幾分か内の方に向け、両方の肘を外の方に向けてつく(後ろ横に倒れた場合、前に倒れる場合も詳述)」(同前第八回)
◇小技を連続的にかける――
 周作「一本打ちにして縁を切るべからず、拍子を取り、小打ちに打つべし、必ず大きく振り上げて打つべからず」(第三「剣術修行心得」)
 嘉納「引きなり押しなりして少しでも対手を動かし、それからそれへと適当に力を加えてゆけば、大抵のものは容易に業の掛るまで姿勢を乱すものである」(同前第十三回)
◇相手の力に逆らわない――
 周作「出れば引き、引けば出て、何分近よらぬ様にすれば、…向うに打たるゝことは無きものなり」(第四「剣術他流試合心得」)
 嘉納「投げ業は彼の体の平均を失わせるようにし、我の方では彼の倒れやすい方に巧みに業をかける。引かば押せ、押さば引け」(同前第九回)
こうして比較してみると、まことによく似ている。嘉納は「柔道本義」を著すにあたって、むしろ積極的に周作の「剣法秘訣」をお手本にしたのではないか、と私は推測するのです。(2へ続く)

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