葭の塾

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河井寛次郎の章の弐

 一陶工として

 河井寛次郎と浜田庄司は、自分の作品について、生涯無銘を貫きました。
 それは、ともに民芸運動を起こした柳宗悦の思想に共鳴したからでした。柳は、工藝美の筆頭条件として、「用いられること」に並んで「無銘であること」を挙げています(『民藝四十年』中「工藝の美」)。
「工藝は無銘に活きる。よき作を見られよ。そこには特殊な性格の特殊な表示はない……個性の沈黙、我執の放棄、このことこそ器にとって如何に相応しい心であろう」と。

 思えば、縄文火焔型土器は元より喜佐衛門井戸茶碗にしても、作者の銘などはありません。器ばかりではない、仏像にしても、法隆寺夢殿の救世観音像をはじめ飛鳥奈良時代の数多(あまた)の国宝仏には、作者名はおろか年代も不詳なものが少なくありません。作者が誰であろうと美しいものは美しい、という柳の考えはまことに全とうなものに思われます。

 だが、作者にとってみれば、大家になるにつれ、作品に落款を入れないのは画竜点睛を欠く思いだったことでしょう。実際、富本憲吉などは美は自力で創造するものだとして自作に「富」の銘を入れ、やがては柳の「他力思想」に異を唱えて袂を分かちます。最も柳に近かったはずのバーナード・リーチでさえ、「私は、柳や浜田や河井の、作品にサインをしないという原則には満足できないのである」(昭和二十八年来日時の『日本絵日記』)と記した上で、そのくせ二人は箱書には署名すると皮肉ってさえいるのです。

 リーチがその後考えを改めたかどうかは定かでありませんが、昭和四十九年になって浜田の日経「私の履歴書」が自伝『窯にまかせて』として刊行されたときに、柳は後書きで年来の主張を書き綴って浜田、河井の無銘の意義を称えます。
「ここで濱田(及び河井寛次郎)の焼物になぜ落款がないかに就いても、一言述べ添えておきたい。或人は名を記さないのは、責任を避ける事であると非難を浴びせた。併し個人が背負い得る責任の如きは、高が知れてはいまいか。自分の力に囚われる如き態度こそ、却って無責任な仕事振りではないだろうか。まして焼物の如き、人間を越える力が多く働く仕事を、どうして自分一人の力に依ると呼び得るであろう。近代では誰も彼も落款をするが、この習慣は昔にはなかった。しかもどんな個人陶が昔の無名陶よりずっと優れた品である事を示し得たか。ここで凡ての陶工達は、なぜそうなるかを反省する必要が起ころう。どうして一度無銘の心境に成り下がって、仕事をそこから生み得ないのか。署名流行のこの時代では、濱田や河井の無落款の仕事が、その意義を認められるのには、尚も多くの時がかかるのであろうか。」

 ご存知の通り、河井と浜田は、生涯を通じて無二の親友でありました。二人の出会いは、ともに蔵前の高等工業学校の窯業科に入学したことによって生まれます。入学直後の浜田に、「こんど入ってきた中には、焼きものをやりたくて来たものがいるというが、それは君か」と声を掛けてきたのが二学年上の河井でした(浜田自伝)。当時ここに入ってくるのはタイルやセメント製造技師をめざす者ばかりで、焼きもの(陶芸)などやる者は珍しく、浜田のほうでもそんな変わり者が三年生にいるという噂をきいていたようです。

 二人はすぐにうちとけますが、河井は一年後に卒業して京都市立の陶磁器試験場に就職してしまいます。浜田は卒業直前の夏休みに、各地の窯を自分の目で見たいと思って美濃を振り出しに瀬戸、万古、信楽、伊賀、京都、九谷の各地をひと回りした帰りに京都の河井を訪ねます。河井が詰めえりの制服を着て、腰に手ぬぐいを下げて熱心に働く様子を見た浜田は、「来年学校を出たらここに来よう、席があってもなくても来よう、と心に決めた」のでした。

 それから二人がともに陶磁器試験場で過ごした四年間は、日本近代陶芸史に残る歳月といっていいでしょう。浜田がさりげなく書き残したそのころの苦労談(『無盡蔵』)に、月給三十円のうち丸善への洋書代に二十円払っていたという話があります。もっとも欲しかったのはホブソンの中国陶磁器に関する二冊揃いの本だったが、これは四百五十円もするので手が出ないでいるところへ、山岡さん(山岡千太郎)という河井の後援者が買ってくれた。そのうちに今度は千五百円もするユーモホプラスのコレクションという世界でも有名な蒐集品の六冊揃いの図録が出て、これも山岡さんに買ってもらった。この恩義にこたえるべく、それらの図録を広げて、彼らは片っ端から手さぐりでつくりはじめるのです。とりわけ焼物の衣といわれる「釉」については、ある年、一年間に青磁五千、辰砂三千、天目二千、併せて一万もの釉を作ってみたといいます。のちの河井作品の特徴とされる華麗な釉の輝きは、すべてこの時代に気が遠くなるような試行錯誤を経て得られたものでした。

 やがて浜田は河井を離れて、リーチと一緒に英国へ渡ります。関東大震災の翌年、四年ぶりに帰国した浜田は神戸で下船すると河井の京都の家へ直行します。
 そのとき、浜田が先の自伝の中で綴る再会の光景は、
「もう暗くなっていたが、河井は私の顔を見ると、『よく帰ってくれた。よく帰ってくれた』と繰り返し、大変に喜んでくれた。文字通りあふれる涙をふきもせず、私はあれほど人に待たれていて喜ばれた経験は、後にも先にも一度もなかったと思うくらい強い感動を受けた。」
というもので、二人の関係を記すにこれ以上の表現はないでしょう。

 しかし、二人の生きざまは、河井のほうがはるかに潔いものでした。浜田は昭和三十年に民芸陶器部門より人間国宝第一号に認定され、のちには文化勲章まで受賞しましたが、河井は人間国宝も文化勲章も断り、ひたすら一陶工の道に生きたのでした。
 文化勲章受賞の申請書は、当時受賞者選考委員だった松下幸之助から届けられたといいます。河井は使いのものが持参した手土産のトランジスタラジオをとても喜び、
「ご趣旨はたいへんありがたいが、このラジオこそ勲章をもらうべきで私の仕事なんか恥ずかしいものですよ」
といって、その推薦を断ったそうです(橋本喜三氏『陶工河井寛次郎』)。
 この挿話(エピソード)ほど河井の人格と思想をあら顕わにしたものはありません。

 文化勲章といえば、終生河井を恩人と崇めた棟方志功も受賞しています。
 棟方は、かの有名な「大和し美わし版画巻」を柳に買い上げてもらったときの挿話のあと、京都を見たいという棟方をたまたま上京していた河井が連れ帰って以来の付合いです。河井は四十日間にわたって、夜は「碧巌録」を講義し、昼は博物館や神社仏閣を連れ回って「熊の子」棟方に教養を授けたのでした。 棟方は、雑誌『工藝』に「河井寛次郎先生」と題して無辺にひたすらな謝辞を寄せています。
「真っ直ぐなことをいうと先生は泣いて下さったが、まごころ真情の有り難さを知りました。創る仕事になってはいけない。頼る仕事を目指すのが吾々の念願ではないだろうか……物は皆美しいもの、人は皆善い人。こんな素晴らしい言葉を教えてくださった人は今までありませんでした」

 河井の没年は昭和四十一年(十一月十八日)、文化勲章受賞は浜田が昭和四十三年、棟方志功が四十五年のことでありました。
 もし、河井が存命であれば、浜田も棟方も欣然として受賞できたでありましょうか? 
 二人は受賞後、河井の墓前にいかなる報告をしたのでありましょうか?

(余分なことかも知れませんが、先に挙げた橋本喜三氏著『陶工河井寛次郎』には河井が「浜田や棟方が文化勲章をもらったときはわがことのように喜んだ。」という記述があります。二人の受賞が河井の死後だったことは明白で、朝日大阪本社学芸部美術記者であった人でもこれほどの過ちを犯すとはちょっと嬉しい発見でありました。)(完)

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 歩いたあとが道になる人(続き)

 二人の仲をとりなしたのは浜田庄司で、それは大正十三年春のこと、浜田が英国のリーチ窯から帰国して河井の家に逗留していたときでした。浜田は、前年の関東大震災で京都に居を移していた柳に河井を会わそうとするが、お互いにこだわりがあってなかなかうまくいかない。
 仲直りの情景は、浜田によると、
「(英国で集めたスリップ・ウェアが十点ほど河井の家へ着いたので、)私は柳に、早速荷が着いたことを話して是非見て欲しいと無理矢理に河井の家へ連れて来ましたが、スリップ・ウェアは柳も初めてで、とても感心してくれました。河井ともこれが縁ですっかり友達になってしまって、それ以後、ご承知の通りに終りまでまたとない間柄でした。」(浜田庄司『無盡蔵』)
というのですが、橋本書によると、
「浜田はスリップウエアを是非見て欲しいと柳を河井の家に連れてきたが、河井は会いたくない、といってプイと家を出てしまった。その後、嫌がる河井を京都大学に近い吉田山の山裾にあった柳の家に無理矢理連れ出したのである。玄関に立つと、すぐに出てきた柳と『やあ、やあ』と挨拶しただけで座敷に通された。」
と、二人の仲直りが一ぺんでは済まなかったような記述になっています。

 面白いことに兼子夫人の証言はまた違っていて、河井は最初柳の家へ一人で尋ねてきたといいます(水尾比呂志『柳兼子夫人に聞く』)。
「『兼子困っちゃったよ。僕が悪口書いたやつが来たよ』と言って(柳が)私のところへ来ました。『おれ、困っちゃったよ。お前会ってくれよ』と言って……。柳は割合に気が小さいんですよ。……『お目に掛かりたい』と(河井さんに)言われたんですが、『ちょっと具合を悪くしていますので』と私はお断りして。……それからあと浜田さんと一緒に来られたと思いますね。」

 三人三様の記憶の違いはさておくとして、河井が柳に対するこだわりを解いたのは、実は柳邸にあった木喰仏だったと、朝日新聞(大阪)の学芸部美術記者であった橋本氏は、ジャーナリストらしい見解を述べます。
「『床の間に李朝の白磁の香炉、その横に変な仏様が三体並んでいるんですよ。しゃぶるようにみたが、体が煮え立ったですね。私の喜びが柳の喜びでもあってね。今までの反目なんか吹っとんでしまったですわ』――河井から直接聞いた回顧談である。」と。
 いずれにせよ、二人の天才が仲直りしてくれたことは日本近代陶芸史にとって限りなく喜ばしい結果となりました。民芸運動の歴史的な一歩は、このときしるされたのです。

 河井の作風は、以後、がらりと変ります。柳に言わせれば、「一世の声価を集めた作物の態様を、惜しげも無く捨てて」《転生(てんしょう)》をはかるのです。「それはもはや絢爛な作物ではなかった。もっと謙(へりくだ)った質素な品物であった。ずっと生活に親しむ器物だった」と、柳は記します(昭和十一年『工藝』第六十八号「河井に送る」)。
「併し君の転生に主として僕等が与(あずか)ったように想像する人がいるが、それは正しい報道ではない。…焔は君自身の心の中に燃えていたのだ。」と柳が言うのは本当のことで、河井は柳に会う前に、すでに《転生》を心に期していたのでした。

 というのは、自分の個展と時を同じくして開催された柳の李朝展を見に行った河井は、入ったとたんになぐりつけられたような気がしたというのです。その衝撃は、
「自分の仕事は一体何であっただろう、衣装やお化粧の勉強をしていただけではなかったか。中身の体はどうしていたか、心がけはどうであったか。そう思って、帰りの電車を降りるのを忘れるほど考え込んでしまった」ほどのものでした。(浜田自伝)

 自身の心の中に燃えた焔に導かれて《転生》した河井が、ふたたび《転生》して民芸の作風を脱するのは戦後になってからです。敗戦の翌日、「毎日コレカラ何事ガ起ルカ予測出来ザル也、来レヨ来タレ何事デモ来タレ、仕事ハコレカラ也、新シキ希望燃エル也、コレ迄ノ仕事コレカラ愈々世界ヲ相手にヤッテ行ケル也」と日記に記した河井は、以後、使えるとか使えないとか、そんな価値観を超越してほんとうに自分のつくりたいかたちと色を追求してゆきます。水道管の継ぎ手や列車の連結器の造形に魅せられます。宇宙人を思わせるような木彫や、巨大な極太の煙管(きせる)をつくって心を遊ばせます。
この二度目の《転生》によって、河井は柳の主唱する「用の美」を超えた、といっていいでしょう。

 先の橋本書には、
「『私は民芸作家といわれているが、私が作った鉢や茶碗など、とても民衆の手にとどかぬべらぼうな値段になっていますわ。民衆の芸術などいわないでくれ、と柳に話しているが、手仕事の民芸ではいくら作っても数には限度がある。民芸的工芸の後継ぎは機械工芸になりますよ』と河井がキッパリと語ったことがある。」
という談話が紹介されています。
 私が見たNHKの新日曜美術館でも、一九五七年(昭和三十二年)にミラノ・トリエンナーレ展でグランプリを受賞した「白地草花絵扁壷」について、河井自らが「まあ、花瓶として使えるかどうかは分かりませんけど」と言って笑っていたことでした。

 この、けれんみのない《転生》が、私にはたまりません。
 河井寛次郎は、おのれの歩きたいところを歩き続けた人でした。
「道を歩かない人 歩いたあとが道になる人」とは、私は、柳に託して河井があるべき自分の姿を言ったような気がしてならないのです。(完)

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河井寛次郎の章の壱

 歩いたあとが道になる人

 サラリーマン生活の晩年、ゴールデンウィーク黄金週間といえばきまって妻と京都へ出かけた時期があります。この季節、花や紅葉、三大祭とも無縁な京都は結構な穴場で、ホテルの予約も容易なのです。たいがいは三泊四日、定宿は会員になると二割引の特典がある京都ホテル。宅急便で着替えをたっぷり送りつけておいて、現地ではそろってリュックスタイル、市内はすべて地下鉄かバス、郊外は電車で移動してあとは歩きです。

 河井寛次郎記念館を訪ねたのは多分最初の年、東山をうろちょろしていた頃でした。たしか清水寺の帰り道、ガイドブックで見つけてちょっと寄ってみようかと思ったのでした。その頃私は河井寛次郎の名前はおぼろげに知っていたものの、河井の作品をまじまじと眺めたことはありませんでした。
 記念館は見るからに民芸風の重厚な二階建てで、竹矢来の上の京格子にかけられた大表札が目をひきます。一歩館内へ入ると、何とも凝ったデザインの自在鉤がかかる囲炉裏を囲んで置かれた重厚な木製の丸椅子やら、大黒柱の見るからに年代物の振り子時計やら、二階へ登る箱階段やらが、渾然一体と郷愁をかきたててくれます。

大表札の「河井寛次郎記念館」の文字が棟方志功の筆になること、表札自体は黒田辰秋が製作したこと、囲炉裏の自在鉤は河井自身のデザインで、丸椅子はこれも河井が臼を切り取ったものであること、振り子の柱時計は柳宗悦の、箱階段は浜田庄司の贈り物だったことなどは、元よりはるかのちに知ったことで、そのときはただあるじ主のただならぬセンスを嗅ぎとっただけにすぎません。

 館内のそこここに無造作に置かれた数多くの陶器作品の、個別の記憶は残っていません。アンドレ・マルローが「おお、ベートーヴェン!」と叫んだ逸話のある「呉須泥刷毛目皿」も、のちに図鑑で見たときに既視感(デジャビュ)を覚えましたから、たしかに見たはずなのですが記憶は定かではありません。
 ただ、全般的な印象として大胆な造形と色づかいに魅せられたのは事実でした。先に益子で見た浜田庄司の作品とは明らかに違う華やかさ、一種の遊び心を感じたのです。この人は、自分のつくりたいものを嬉々としてつくっている、その喜びが見る者にずしんと伝わってくる……そんな印象を持ったのでした。

 作品の中ではただ一つ、玉を持った合掌の木彫作品だけは鮮明に覚えています。何気なし売店に置いてあった『いのちの窓』という本を手に取ったのは、その掌中の玉が「いのち」であるような感覚を懐いたからかもしれません。
 ぱらぱらとめくったら、
「道を歩かない人 歩いたあとが道になる人」
という文句が気に入って衝動買いをしました。高村光太郎の、
「僕の前に道はない 僕のあとに道はできる」
と較べて、なんと控え目な人かと思ったのでした。

『いのちの窓』は箴言の宝石箱でした。
「前篇 火の願ひ」では、
「開扉 焼けてかたまれ 火の願ひ」と
「閉門 何物も清めてかへす 火の誓ひ」
の両句が、河井の「祈り」を現わしています。
「一人光る 皆光る 何も彼も光る」
「誰が動いて居るのだ これこの手」
は、柳のいう《他力》でしょうか。
「はだかはたらく 仕事すっぱだか」
は、無位無冠に徹した河合の真情でありましょう。
「後篇 いのちの窓」では、
「何もない――見ればある」
「新しい自分が見たいのだ――仕事する」
「どこかに自分が居るのだ――出て歩く」
「此世は自分をさがしに来たところ 此世は自分を見に来たところ」
「物買って来る 自分買って来る」
「おどろいて居る自分におどろいて居る自分」
「何といふ今だ 今こそ永遠」
と、枚挙に暇がありません。
 これらの珠玉の言葉のいくつかは、その後、私の座右の銘となったことでした。

「道を歩かない人 歩いたあとが道になる人」という二行詩が、河井自身のことをいったのではなく柳宗悦への献辞だと知ったのは、退職して白樺派への関心が深まってからのことでした。大原美術館から上梓された作品集『河井寛次郎』の巻頭に掲げられている献辞の全文はこうです。
  みにくいもの見えないめくら
  美しいものしか見えない眼
  人に灯をともす人
  人の燈明に火をともす人
  道を歩かない人
  歩いたあとが道になる人

 柳が死んだとき、河井は告別式に出ると泣いてしまって皆さんに迷惑をかける、と遠慮して出席せず、娘婿博次に弔文を代読させたといいます(橋本喜三『陶工河井寛次郎』)。
「トウトウ逝カレテシマッテヤリ切レナイ、次カラ次ヘトツキナイ思イ、カナシイカナシイ」

 それほどまでの熱い友情に結ばれていた柳が、最初は河井の作品を認めなかったというのですから、人の運命はわかりません。橋本氏によれば、大正十年春、河井の最初の個展が高島屋東京店で開かれたとき、当時陶芸史家の第一人者とされていた次郎坊主人こと奥田誠一が「天才は彗星の如く突然現わるるものである」と絶賛したことに、柳は反目したといいます。奥田は一方で同時期に催された柳の集めた李朝の陶磁器展を見て、李朝の焼物には美的価値がないと酷評していたのです。柳はすぐに反駁文を書いたのですが、そのあとに、こんな批評家がほめる河井の仕事は中国・朝鮮の古陶磁のイミテーションに過ぎぬ、と言わずもがなの一言をつけ加えたといいます。

 このとき、柳は三十二歳。これより十年後の昭和五年にも柳は、魯山人に噛み付かれる元になった、感情むき出しの「帝展工藝評」を書いていますから、若き日の柳はけっこう攻撃的な性格であったことを思わせます。(続く)

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 ローマ字日記(続き)

 啄木は、得意げに、性の描写を続けます。たとえば娼婦を買う話は、先の四月十日に続いて四月二十六日、五月一日、六月一日と、三回も出てきます。三回どころではない、四月十日の項には冒頭に引用した個所の前に、こんな記述があります。
 「いくらかの金のある時、予は何のためろうことなく、かの、みだらな声に満ちた、狭い、きたない町に行った。予は去年の秋から今までに、およそ十三、四回も行った。そして十人ばかりの淫売婦を買った。ミツ、マサ、キヨ、ミネ、ツユ、ハナ、アキ…名を忘れたのもある。予の求めたのは暖かい、柔らかい、真っ白な身体だ。身体も心もとろけるような楽しみだ。」

 この記述に基づいて、岩城之徳氏の労作『伝記的年譜』(『石川啄木全集第八巻』)を繰ってみると、『鳥影』の新聞連載が始まったのが明治四十一年十一月一日からで、「いくらかの金のあるとき」が「去年の秋から」というのに一致します。連載は年末で終って、翌年一月から啄木は発行名義人として月間文芸雑誌「スバル」の創刊に携わりますし、朝日の校正係として出社するのはこの年(明治四十二年)の三月一日ですから、「いくらかの金のあるとき」は「今まで」細々ながら続いていたことになります。(余計なことですが、「十三、四回も行っ」て「十人ばかりの淫売婦を買った」というのは、三、四人は俗にいう《裏を返した》わけで、冒頭の「女」マサもその一人です。)

 ところで、この期間当用日記に日本語で書かれたそれらしき記載は、十三、四回も見出せません。年初から四月までは二月八日、三月十日、三月十四日、四月六日(ローマ字文)の四回で、それも「二人とも酔っていた、そしてとんだ宿屋へ泊ってしまった」、「あゝ、浅草に行った」、「塔下苑(娼窟のこと)をどこということもなく歩いた、そして三軒許り入って茶を飲んで出た」、「塔下苑を犬のごとくうろつき廻った」とか、短い文章で且つ婉曲的に書かれています。

 これがローマ字日記になると、一転して文章は長くなり直截的になります。四月十日は見てのとおり、四月二十六日は「予は二円出した。そして隣室に行っておえんという女と五分間ばかり寝た」と具体的な数字が出現し、五月一日に至っては、「花子は予よりも先に来ていて、予が上がるやいなや、いきなり予に抱きついた」から始まって女との会話をひとしきり続けた上で、「今夜のように眼も細くなるようなうっとりとした縹渺とした気持のしたことはない。…ただうっとりとして女の肌の暖かさに自分の身体まであったまってくるように覚えた。そしてまた、近頃はいたずらに不愉快の感を残すに過ぎぬ交接が、この晩は二度とも快くのみ過ぎた」と、とても日本語では書けないようなことまで、あからさまに書き記しているのです。

 「何千人にかきまわされたその陰部には、もう筋肉の収縮作用がなくなっている。緩んでいる。ここにはただ排泄作用の行なわれるばかりだ」(四月八日)と悪口を言いながら娼婦買いが止まらないのは、啄木の尋常ならざる性欲の強さを物語っています。啄木はこの年二十四歳、男にとって性欲のもっとも激しい年齢ですが、私は俗にいう「結核患者は性欲が強い」せいではないかと睨んでいます。現に、五月十四日の項には、「二度ばかり口の中からおびただしく血が出た」と喀血の事実が記されているのです。

 この時期啄木は、娼婦買いなどしていられない環境にありました。宮崎郁雨の厚意にすがって函館に残してきた母と妻子を一刻も早く引き取る責任があったのです。
 一年前(明治四十一年三月末)に釧路新聞の編集長格の職を棄てて上京したのは、「文学的運命を極度まで試験する決心」(向井永太郎宛書簡)に基づくもので、啄木はいわば生活より文学を選択したのでした。上京して金田一京助の下宿先・赤心館に同宿させてもらうことになった啄木は、「何かしら力に充ちた若き日の呼吸が、刻一刻に再たび帰って来る様な」創作意欲と、「夏目の《虞美人草》なら一ケ月で書ける」(明治四十一年五月八日付当用日記)という非常な自信を持っていました。

 しかし啄木の意図に反して、中央の風は冷たいものでした。意欲と自信とをもって、宣言どおりの一ケ月間、立て続けに書き上げた五篇の小説は悉く掲載を断られ、ようやく『鳥影』が友人の厚意で「東京毎日新聞」に連載されますがそれも僅か二か月間のことでした。金田一京助に頼りっきりの生活もいよいよ困窮し、「東京朝日新聞」の編集長をしていた同郷の佐藤北江を頼って校正係に採用してもらったのは、上京後十一か月も経ってのことでありました。

 校正係とはいえ、困窮の果てに定職を、それも大朝日に職を得たことは啄木にとってたいへんな喜びで、佐藤北江から内定の手紙をもらった夜、北原白秋のもとへかけつけて黒ビールで祝盃をあげ、その日の日記に「これで予の東京生活の基礎が出来た! 暗き十ケ月の後の今夜のビールはうまかった。」と記します。森鷗外にも手紙を書き、「これにてまづまづ最低程度の基礎出来候訳なれば、旅費その他の苦面のつき次第函館なる家族を呼び寄せ東京に永住の方針をとりたくと存じ目下は愈々その事にのみ焦慮仕居候。」と決心をしたためます。

 この殊勝な決心が長続きしないのが啄木らしいところで、啄木は朝日に出社して早や十日目に、採用してくれた恩人の佐藤にぬけぬけと下宿代の前借を申し込んでいます。あろうことか、佐藤が貸してくれた二十五円のうち二十円だけ下宿屋へ払い、残る五円を持って啄木は雨の中を浅草へ女買いに出かけるのです(三月十日付当用日記)。

 前借した金で女を買うのは先に引用したローマ字日記の五月一日の項でも同様で、この日も首尾よく借りた二十五円を、質屋から時計を請け出すと宿への払いが足りなくなり、宿へ払うと時計が請け出せなくなると悩んだ末に、乗った電車が偶々浅草行きだったので、「行くな! 行くな!」と思いながらも足は娼窟に向かったという記述があります。

 一方で、ローマ字日記には、母と妻、妹に寄せる切々たる思いが記されてもいます。
 四月十三日の項の「なんにちごろよびくださるか?」という母の平仮名づくしの手紙に涙する描写や、十五日の項の他の女と寝ても節子を愛してるという強弁や、十八日の項の妹に対する同情などは、読んでいて思わず目頭がうるみます。
 この優しい心根と娼窟通いとの甚だしい落差をもって、啄木を破滅的人間、あるいは性格破綻者などと、私は決めつけたくはありません。人は誰でも二面性を有しているものなのです。

 ローマ字という表現形式によって、啄木が精神的倫理的、また社会的抑圧から逃れ得たという桑原氏の指摘は、この限りにおいてまことに当を得ています。啄木は、まさにローマ字をもって己の中に在る二面性を赤裸々に吐露してみせたのでした。
 ローマ字日記は、性懲りもなくまた社から前借した二十五円で、「何とかいう若い子供らしい女と寝た」後、「いつか行って寝た」花という女と寝て、「なぜかこの女と寝ると楽しい」と記した六月一日の項で突然終ります。
宮崎郁雨が連れてきてくれた母と妻子を上野駅に迎えたのは六月十六日のことで、啄木にとってもっとも重要な出来事であるはずの一家の再会は、「二十日間」という項に、
「記者は一時間遅れて着いた。友、母、妻、子………俥で新しい家に着いた。」
と、素っ気なくたったの二行で述べられています。(完)

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石川啄木の章の四

 ローマ字日記

 「女は間もなく眠った。予の心はたまらなくイライラして、どうしても眠れない。予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部をかきまわした。しまいには五本の指を入れでできるだけ強く押した。女はそれでも眼を覚まさぬ。おそらくもう陰部については何の感覚もないくらい、男に慣れてしまっているのだ。何千人の男と寝た女! 予はますますイライラしてきた。そして一層強く手を入れた。ついに手は手くびまで入った。『ウーウ、』と言って女はその時眼を覚ました。そしていきなり予に抱きついた。『アーアーア、うれしい!もっと、もっと―もっと、アーアーア!』十八にしてすでに普通の刺激ではなんの面白味も感じなくなっている女! 予はその手を女の顔にぬたくってやった。そして、両手なり、足なりを入れてその陰部を裂いてやりたく思った。」

 原文はすべてローマ字というものの、あの啄木がこんなポルノまがいの文章を書いていたことは、私にとって、まさに衝撃の一語でありました。幻滅したのではない……むしろ、啄木もやはり一介の男子(おのこ)であったことを知って、より一層の親近感をおぼえたのです。
 書かれた時期は明治四十二年四月十日、かの有名なローマ字日記の中の一節で、昭和五十三年発行の筑摩書房『石川啄木全集第六巻』において初めて、日本語訳文の伏せ字がなくなったというほどのドギツイ表現です。
 啄木がローマ字で日記を書いたのは明治四十二年四月三日から六月十六日までの七十五日間で、東京朝日新聞社に校正係として就職を果たしたものの、年来の借財のため函館に残した家族を引き取る準備が出来ず、自虐的な生活を送っていたころのことでありました。

 ローマ字で書く理由については、周知の一節が四月七日の日記にあります(以下、原文はすべてローマ字です)。
 「そんならなぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ――しかしこれはうそだ! 愛してるのも事実、読ませたくないのも事実だが、この二つは必ずしも関係していない。
そんなら予は弱者か? 否、つまりこれば夫婦関係という間違った制度があるために起こるのだ。夫婦! なんという馬鹿な制度だろう! そんならどうすればよいか? 悲しいことだ!」
 妻に読ませたくないからというものの、「妻節子は、啄木の恋人だった少女時代に、外国人から英語を習っていると手紙で啄木に知らせたことがあり、そのさい啄木は英語の本を買って彼女に送ってもいることから知られるように、ローマ字が読めないという女性ではない」という小田切秀雄氏の説(前出『全集』解説)もあります。

 因みに、ローマ字で書かれた日記文は四月三日が最初で、縦書きの当用日記の中に唐突に現れ六日まで続きます。七日からは横罫の西洋ノートに「NIKKI(機法。唯釘稗庁鼻。苅横裡釘痢廚搬蠅気譴峠颪れ、正確にはこれがいわゆる啄木の「ローマ字日記」と呼ばれるものです。ノートは背革黒クロース製、四百六十二頁もある立派なもので、うち二百三十頁にわたって記載されているといわれます。

 たかがローマ字で日記を書く理由を、夫婦制度まで持ち出してもったいつけているのは、啄木らしい韜晦(とうかい)というものでしょう。このくだりをもって、「家」の観念の脱出とか、家庭生活の虚無的な否認とかに結びつけたがるのは評論家先生方の悪い癖で、私は単純に、啄木は気まぐれにローマ字で書いてみたら面白くなって、縦書きの当用日記には書きづらいので本格的に書くための西洋ノートを用意したのだと思っています。というのも、先に引用した四月七日のローマ字で書く動機を述べた一節の前に、財布の中に一枚だけ残った五円紙幣を眺めながら、「仕様ことなしに、ローマ字の表などを作ってみた」という言葉があるからです。

 一旦ローマ字で書き出してみると、啄木はにわかに饒舌になります。たとえば当用日記では、長いものでも一頁二段組の『全集』の一段(半頁)ですが、ローマ字日記になると六頁半、十三段の長さ(原文のローマ字では実に八頁)のものがあります。これだけの分量をローマ字で書くというのは、たいへんな労力だと思われるのですが、啄木は、まるで籠から出た小鳥のように、嬉々として囀りつづけるのです。
 このきわだった変化に注目した評論家の先生方は、ローマ字という表現に目覚めた啄木は「自由世界」をつくりあげた、と評します。

 桑原武夫氏は、ローマ字という新しい表記法をとることによって、(一)精神的倫理的抑圧から、(二)日本文学の伝統的抑圧から、(三)それら二つを含めて社会的な抑圧から啄木は逃れ得て、一つの自由世界をつくったといい(『全集第八巻(啄木研究)』)、小田切英雄氏はこの論にまったく賛成と述べます(同『第六巻(解説)』)。岩城之徳氏もまた「ローマ字という特別の表記法によって、従来の文学者のなしえなかった一つの自由世界を作りあげている」と、判で押したように同一の表現をとっています(同『第六巻(解説)』)。
 桑原氏は四月九日の「智恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽ろやかな、いかにも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声!」というところを引き、ローマ字でなければこのように甘美で率直な文体は書き得なかった、と記しています。

 甘美で率直な文体というよりは、私はこの時代にこれほどの口語体で書かれたことに驚いています。この時期、教育勅語をはじめとして官や軍の公文書、法令などはみな文語体でした。文学作品においても小説類はようやく口語体になったものの詩歌はまだ文語体の花盛りで、同じ年(明治四十二年)に刊行された啄木と親交のあった北原白秋の詩集『邪宗門』も、自序、作品ともに文語体で書かれていました。
 このような時勢下にあって、ローマ字で書かれた啄木の文体は、それまでの日本語日記に較べていっそう徹底した話し言葉……「予」を「俺」にでも変えれば、そのまま現代の若者がブログに綴るような文章になっているのです。

 余談ながら、ローマ字日記の中で多用されるダッシュや感嘆符は、章の三で述べたように、第二歌集『悲しき玩具』の作品に採用されていったのでしょう。
 しかし、評論家各氏の評はあまりにもきれいごと過ぎて、啄木のかくもポルノチックなどぎつい描写に言及せず、むしろ避けているように思えます。自由世界をつくり上げたというのなら、桑原氏は真っ先に、この大らかな、いかにも啄木らしい性の謳歌を採り上げるべきでした。(続く)

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