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嘉納治五郎の章の弐

 ブランデージの贈物?

 柔道家としての功績、教育家としての功績のほかに、嘉納治五郎にはIOC(国際オリンピック委員会)委員として偉大な功績を残したことを忘れてはなりません。
 昭和三十九年十月、全国民が熱狂したあの東京オリンピックに先立つ二十四年前に、戦火の蔭に消えた「幻の東京オリンピック」があったことは、今や遠い記憶の底に埋没されそうになっています。嘉納は、皇紀二千六百年を記念して日本が総力を挙げて招致に邁進したこのアジア初のオリンピックの最大の功労者でありました。

 嘉納は昭和十三年(一九三八)五月四日、バンクーバー出航の日本郵船氷川丸船上で急性肺炎のため亡くなります。それはエジプトのカイロで行われたIOC総会で、二年後の第十二回オリンピック大会を東京に招致することを確定させた帰路のできごとでした。
 享年七十八歳、欧州諸国がこぞってヘルシンキ開催を推す中で、東京招致に成功したのは、まさに嘉納が老骨に鞭打って奔走したおかげでした。
 嘉納の死後、僅か二か月のちの七月に、日本政府は日中戦争の拡大に伴い、IOCの辞退勧告もあって、せっかく決まったオリンピックの中止を表明します。
 こんな無念な結末を知らずして逝った嘉納は、ある意味で幸せだったのかもしれません。

 オリンピックとサッカーW杯の招致合戦については、現代でも水面下の駆け引きが盛んなものですが、当時極東の島国へオリンピックを招致するには決定的に不利な材料が多々ありました。
 第一に航空機のない時代でまた国際航路もなく、ヨーロッパから日本に出かけるのは最低一か月は要し多大の経費がかかること、第二に近代ホテルが不足している上に外国語に堪能な人材が少ないこと、第三に日本特有の残暑と湿気は外国人選手には堪え難いと思われていたことなど、日本国内でも危ぶむ声が多かったのです。加えて昭和八年より日本は国際連盟を脱退し、国際社会から孤立状態にありました。

 これほどの不利な条件を抱えながら、昭和十一年(一九三六)七月のIOCベルリン総会に於いてIOC委員の投票結果は東京三十六票VSヘルシンキ二十七票、予想外の大差で東京に凱歌があがったのは、嘉納のスピーチが委員たちの心を打ったからでありましょう。日本中が歓喜に沸きかえり、「東京、遂に勝てり」という見出しが当日の新聞、号外を特大活字で埋め尽くしたことでした。

 しかし、翌昭和十二年七月、盧溝橋事件から始まった日中戦争は諸外国の対日感情の悪化を招き、東京大会に対する反対が高まります。IOC会長ラツールはかくなる状況を考慮して、一年後のカイロ総会で、東京大会の開催問題を再討議することにしたのでした。
昭和十三年(一九三八)三月十三日、ナイル川を下る豪華客船ヴィクトリア号の船内で討議は開始されます。厳しい詰問と嘉納の抗弁……東京大会の開催が最終的に承認されたのは白熱した論議の末でありました。

 この間の事情は、講道館図書資料部長の村田直樹氏『嘉納治五郎師範に学ぶ』(二〇〇二年ベースボールマガジン社刊)に詳述されています。同書によると、嘉納は総会後の感想をユーモアを以って次のように語ったといいます。
「今度の会議は、筏に乗っているような気持だった。突き飛ばしてくる人もあれば、足を持って引き摺り落そうとする者がいる。我々は水中に落ちないように頑張って、やっと対岸にたどり着けた」
 だが、軽口とは逆に、議場を出てきた嘉納はひどく疲れて見えたそうです。

 にも拘らず、嘉納は総会後、ギリシャに赴きアテネで前年死去したクーベルタン男爵の葬儀に参列し、米国シカゴに飛んでのちニューヨークからシアトルへ空路横断、車でバンクーバーへ移動し、四月二十三日出帆の日本郵船氷川丸に乗船するという強行日程をこなすのです。
 繰り返しますがこのとき嘉納は七十八歳、氷川丸船上での急死は会議の心労に加えて、この強行日程が命を縮めた一因であったことでしょう。
 
 クーベルタンは東京大会が決まった時、
「第十二回オリンピックが東京で行われることは、日本の使命が、これまでのどの国に与えられた使命より、遥に重大なことである。……東京オリンピックは、単にオリンピックの火が世界を照らし、アジアでオリンピックが普及する、ということだけではない。古代ヨーロッパ文明の最も貴重な遺産であるヘレニズムが、最も洗練されたアジアの文化と結びつくことである」
という、胸が熱くなるようなメッセージを送ってくれていますし、その上IOC葬ともあれば、委員としての嘉納が葬儀に参列するのは当然の行動と思われます。

 しかし、そのあと、嘉納はなぜ米国へまわったのか? 
 村田氏の著書には「米国IOC委員アベリー・ブランデージ等に日本支持の感謝を表明し、東京大会へできるだけ多くの選手を派遣して欲しい旨を伝えた」とあります。
 意外なことに、英国と英連邦諸国が真っ先に東京大会反対を唱える中で、戦争とオリンピックは別物であると主張する日本の論理を支持し続けたのは米国であったというのです。
 カイロ会議の後、日本代表団が東京に打った電報は、「米国ヲ除キ辛辣ナル言説アリシモ大会東京開催ハ現状維持トナレリ……終始一貫協力シタルアメリカニ感謝ス」というものでした。

 これを読んだとき、仮説好きの私の中でざわざわと騒ぐものを感じました。
 もし、そうであるなら、昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックはIOC会長に栄進していたブランデージの嘉納に対する贈物だったのではないか、という仮説でした。東京大会で初めて競技種目に認められた柔道もまた、嘉納に対する友情の発露ではなかったのか、と。
 わざわざ米国へ寄って謝辞を述べてくれた嘉納が、帰国の船中で亡くなったというニュースは、ブランデージにとって衝撃的なものであったことでしょう。ブランデージが日本を支持してくれたのは、アジアにおける初めてのオリンピックの意義を認識していたことにあるのでしょうが、嘉納の人となりとひたむきな情熱に魅せられたという一面があったに違いありません。

 講道館機関誌『柔道』昭和十三年八月号には「世界の嘆き」と称して各国から嘉納に寄せられた弔意が紹介されており、ブランデージは次のように語っています。
 「嘉納さん急逝の報は今耳にしたばかりで驚いている。カイロでは連日の奮闘で疲労された模様であったが、数日前シカゴの私の事務所でお目にかかった折には非常に健康そうであった。何れにしても嘉納さんは立派な『サムライ』であり、典型的教育家であり、そのスポーツ界に対する貢献は長く追憶されるであろう。同氏の逝去により米国スポーツ界は友人を失った。私は心から哀悼の意を表する」
 嘉納の死をかくも痛切に悼んでくれたブランデージが、二十四年後に約束を果してくれたとするなら、これほどロマンチックな話はありません。

 高まる胸を押さえつつ、私は当時の新聞報道に根拠を求めました。
講道館の資料部には、柔道が初めてオリンピックの正式種目に決定した喜びを伝える新聞の切り抜きが揃っています。私は日本の強い要望にブランデージ会長が快諾してくれた、と想像していたのですが、事実は意外なものでした。東京大会に柔道を正式種目に加えてほしいという声は、むしろフランスをはじめ欧州各国から起って、これをオット・メイヤーIOC事務局長が組織委員会事務総長の田畑政治氏に伝えたというのです。これを報じた昭和三十五年四月十三日付の報知新聞には、「あまり突然な話でびっくりした」という田端氏の話と、「(正式種目に加えてもらう運動の)準備にとりかかるところだった。そういう話があるとすれば、さっそく手続をとりたいと思う」という国際柔道連盟・嘉納履正会長の話が掲載されています。 

 これに対してブランデージ会長はむしろ慎重意見で、
「オリンピックに柔道が加わるとすれば正式種目かデモンストレーションかということになるが、競技種目として正式に採用するにはいろいろ問題がある。第一は柔道という競技を一般の人だけでなく、スポーツ人の間にも理解させる必要があること、第二はIOCのほかに種目を減らして大会の規模をもっと小さくしようという考えがあるので、ここでまた種目をふやすことに反対の声が出る可能性もある。さらに欧州でも柔道の選手は教師を職業としているためアマチュア資格についてもむずかしい問題があり、これをまずはっきりさせる必要がある」
と語っているのです(昭和三十五年八月十九日付読売新聞)。

 結局、柔道は同年十二月二十二日の組織委員会総会で全会一致で認められ、近代五種、弓、ハンドボール、カヌーの四種目を削って前五回の大会と同数の十八種目が定められるのですが、この間ブランデージ会長が積極推進派に変ったという記事は見出せませんでした。(続く)

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