葭の塾

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 ブランデージの贈物?(続き) 

 ブランデージには別に『近代オリンピックの遺産』という自伝的回顧録があります。
 この中で日本が一九四〇年にオリンピック大会招致の意思を明かにしたとき、二つの理由からこれを強く支持したことが述べられています。第一は、クーベルタンは「大会は全世界のものである」として世界各国で開催することを理想としていたので、遠く離れたアジアの端の日本で開催することになれば、クーベルタンの理想を実行に移すことになること。第二は、米国NOC委員長として一九三二年のロサンゼルス大会の際に、選手団長の岸清一氏をはじめ日本チームの幹部たちと知り合い、そのスポーツ人としての高い識見にすっかり感心したことの二つといいます。

 同著には続いて、大会開催能力の視察を兼ねて訪日したときの印象記を、
「教育の普及度では世界最高のレベルを持ち、友好的で丁重、そして控え目で親切な人々、細かいところまで綿密に手入れのゆきとどいた美しい国土、日常生活における自然や美への愛着、美術館に収められた素晴らしい美術品の数々――こういったことすべてが、私の日本に対する好意的な見方を一段と強いものとしたのである」
と、最大級の賛辞で飾っています。

 ところで解せないことは、その後、日本文化及び日本人に対する礼讃は七頁にわたって続くのですが、嘉納治五郎に言及したのは意外なことにたった一行半、
「岸清一博士や嘉納治五郎先生(講道館柔道の創始者で、私が一九一二年のストックホルムの第五回オリンピック大会に出場したときの参加者の一人であった)のあとを継いでIOCの日本代表となった人たちと、私は常に密接な連絡を保っていた」
という素っ気無い記述だけしか見当らないのです。
 オリンピックに関係した日本人の名前は、歴代のIOC委員のほか十三名も出てくるのに、ブランデージにとって最も忘れ難い人であったはずの嘉納が、ただの一言で片付けられているのは納得いきません。
 
 そういえば、昭和三十九年の東京オリンピックの経緯も、
「戦後、日本は直ちにオリンピック委員会を再発足させ……一九五二年のヘルシンキ大会には戦後初の代表チームが送られた。一方、東京(と札幌)のオリンピック開催の意欲は少しも弱まっておらず、国内情勢が安定し、大会を開催できるという自信が生れてくると、再びIOCに対して大会招致申請が出された。一九五九年に第十八回オリンピック大会の東京開催が認められた」
と、およそ当時のIOC会長であった人らしくない、他人事のような書きっぷりです。

 東京オリンピックと柔道の種目採用はブランデージの嘉納に対する二十四年越しの贈物だったのではないか、という私の仮説は、どうやら資料を見る限り、証明されそうもありません。
 でも、私は拘っています。IOC会長であったがゆえに、ブランデージは厳正中立を保たざるを得なかった、会長の恣意的な指示によって開催地を決めたり競技種目を新設するようなことは自ら固く戒めていた、と考えたいのです。

 とくに新種目として柔道が認可されたことについては、かねてより嘉納治五郎について聞かされていたオット・メイヤー事務局長が会長の意を体して、ひそかに欧州各国へ手を回して、当時もっとも柔道が盛んだったフランスから要請を出すように働きかけたという推測も可能です。フランス柔道育ての親は、かつてのNHK人気ラジオ番組「とんち教室」の石黒敬七氏ですから、のちにレジオン・ドヌール勲章をもらうほどの氏が舞台裏で活躍してくれたやも知れません。

 ブランデージは自分から指示するようなことはなかったけれど、開催地が東京に決まり柔道が新種目として認められた時に、おそらく「これで嘉納に恩返しができた!」と思ったことでしょう。しかし、そう思ったことすら書き残さなかった。なんとなれば、ブランデージは(後世のサマランチ会長と違って)、クーベルタンの思想を信奉しアマチュアリズムを貫いた高潔な人だったからだ、と私は睨んでいるのです。

 以上は、私のひとりよがりな推測に過ぎません。現実はかようなロマンが通用する世界では、決してありません。一九六四年の東京招致は、関係者全員の努力と熱意と執念の賜物といっていいでしょう。中でも中南米諸国の支持を集めるために奔走してくれたロサンゼルスの実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)氏と、総会での立候補趣意演説を行った平沢和重氏の二人は、最大の功労者でありました。

 ワダ氏は、まだ戦後の混乱期(一九四九年)に全米水泳選手権に出場して世界新記録を連発し、《フジヤマのトビウオ》と賞賛された古橋広之進ら一行の面倒を見た日系二世の篤志家で、敗戦にうちひしがれていた日本人に勇気と希望を与えた彼らに深く感動して、日本の悲願・東京五輪誘致を心に決めたといわれます(高杉良『祖国へ、熱き心を 東京にオリンピックを呼んだ男』)。
 一九五九年のIOC総会で、東京が全五十八票のうち三十八票を集めて、欧米三市(デトロイト、ウィーン、ブリュッセル)に圧勝できたのは、事業を部下に任せて、時に健康を害してまで夫婦で中南米を駆け回ってくれたワダ氏の功績によるものでした。

 平沢和重氏は、その総会で、当初招致演説をする予定だった外務省参事官が怪我したために、急遽ピンチヒッターを努めた人です。
「西洋では日本を『ファー・イースト』と呼ぶ。だが、今はジェット機時代、距離は『ファー』ではない。遠いのは、国と国、人間と人間の理解なのだ」
 平沢氏は四十五分の持ち時間のうち十五分しか使わずに、アジアで始めて開催する意義を強調しました。その前のライバル都市の演説が冗長だったので、よけいに効果的だったといわれます。
 この挿話(エピソード)には、実はうれしいおまけがついています。それは、演説の前に平沢氏が「嘉納治五郎の最後を見届けた人物」と紹介されたことです。嘉納が生涯を終えた氷川丸に乗り合わせていたのが、若き外交官の平沢氏でした。「委員たちがその因縁に、嘉納の執念を感じないはずがない」と、この事実を紹介した『産経抄』(産経新聞平成二十一年九月四日付)は結んでいます。
 もし、委員たちの中に二十一年前のカイロ総会で嘉納の招致演説を聞いた人がいたとすれば、彼らは平沢氏のうしろに嘉納治五郎の影を見ていたはずでした。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事に倣うのであれば、「死せる嘉納が生ける委員たちを動かした」といっても過言ではないでしょう。

 国立競技場と東京体育館の間に細長い公園(明治公園)があります。 その明治公園の正面辺りに、向かい合って石碑が建っています。右側のレリーフは日本オリンピック委員会(日本体育協会)初代会長嘉納治五郎で、左側にあるのがクーベルタン男爵です。
 これらは東京オリンピックが開催された年に、IOC(国際オリンピック委員会)が創立七十周年にあたることを記念して建てられました。

 嘉納の碑文には、こう記されています。
 「一九六四年 第十八回オリンピック競技大会は この地において華々しく開幕された 日本へオリンピックを持って来よう これは 日本人として最初に選ばれた国際オリンピック委員会委員であり 我国スポーツ界の先覚者である日本体育協会初代会長 故嘉納治五郎先生の多年の念願であった この碑は 先生の遺志を継ぎ そして実現した我々後輩が先生を偲び 併せて オリンピック東京大会を 記念して建立するものである
 昭和三十九年十月十日 
 財団法人 オリンピック東京大会組織委員会 会長 安川第五郎
 財団法人 日本体育協会            会長 石井光次郎」
 碑文の文章は、嘉納が二十四年前に一旦は東京に誘致した実績があったからこそ、第十八回大会が可能になったということを伝えています。
 まこと、嘉納治五郎は、生前と死後と、東京オリンピックを二度招致した人でありました。

 思えば、アテネをはじめここ数十年来のマスコミのオリンピック報道は、メダルの数と選手の努力物語に偏して、記者の勉強不足なのでしょうか、嘉納がわが国のオリンピックに果した功績に言及したものはほとんど見受けられません。私たちは、オリンピックといえば真っ先に、嘉納治五郎の名を思い浮かべなければいけないのです。(完)

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