葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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リーチの章の四

 東と西を超えて

 I have seen a vision of the marriage of East and West.
 Far off down the Halls of Time I heard a childlike voice.
 How long? How long?
 これは手賀沼公園の一角に建つバーナード・リーチ記念碑に刻まれた言葉で、リーチの自伝的回想『東と西を超えて』の末尾に自筆で記された詩からとられたものです。

 『東と西を超えて』の原題は 《Beyond East and West》、市立図書館所蔵の同書の奥付には昭和五十七年(一九八二)一月二十五日一版一刷とあります。この年五月八日付の日経新聞文化欄にリーチの晩年の秘書トルゥデイ・スコット女史が「失明の理想家リーチ」と題して、本書執筆の裏話が掲載されています。それによると、リーチが著作に取りかかったのは一九七三年、すでに視力は弱ってきており、思いつくことごとをベッドサイドのテーブルに用意した紙に軟らかいフェルトペンで、朝であろうと真夜中であろうと大きな字で書きつけたといいます。リーチの目はどんどん悪くなって、最後はテープレコーダーに吹き込んだものを女史が文字に移したそうです。リーチは、しかし、目の見えないことを悔やんではいなかった、むしろ「今となっては失うものはなにもない、得るものばかりだ」と話した、死の直前まで「最も大事なことは世界はひとつだというヴィジョンだ」と語っていた、と女史は記しています。

 リーチが意識して使ったvision という語(ことば)には、dream と異なり、望んでも容易には叶わないというニュアンスがあります。私の拙い知識によれば、dream は「夢」、vision は「幻」……dreams come trueという表現があるように dreamはしばしば成就しますが、see visionsといえば幻想を抱く意味になり、遠い理想を追い求める語感が出てきます。それを充分弁(わきま)えた上で、リーチはHow long? How long?という問いを発したのでしょう。事実、東洋と西洋が結婚して世界が一つになることは誰もが希(こいねが)いながら、二十一世紀のいまになっても実現できないでいるのです。

 しかし、個人的にはリーチは、軽々と東と西の壁を超えてみせた人でありました。
 大英帝国華やかなりし時代の英国人リーチが、極東の小国である日本人から「私のほうが教わるべきだ」とさとった《いさぎよさ》は(リーチの章の壱)で述べたことですが、実生活の上でも、リーチは日本人として生きようとしたのでした。
 たとえば食生活において。リーチは日本食が大好きで、仲省吾によれば、「一番好きだったのは、浜納豆、味噌汁、沢庵、秋刀魚、すき焼き、鰻、そば等であったが、中でも浜納豆はチーズの味がすると云って好んで居た。味噌汁を三杯も四杯もお代わりをした事はよく覚えている」というのです(式場隆三郎編著『バーナード・リーチ』)。
 浜納豆というのは、ご存じない方もあるでしょうが、遠州名物の糸をひかない粒納豆で、納豆というよりは味噌を小さくこねたような感じで、ごはんのおかずやお茶漬けにして食べます。戦国武将などの携行食として好まれ、特に徳川家康はこの「浜納豆」がお気に入りで、江戸幕府の歴代将軍に献上されていたとも伝えられています。

 同じ式場本で、柳兼子もまたリーチの食について、次のように記します。
 「我孫子の様な何もない処では、お芋の煮ころがしや、まずい沢庵で満足して貰うより仕様がありませんでした。季節になれば鴨のおいしいのが手に入りますけれども、名物の鰻も東京へ出した残りのを買ってきて、家で蒲焼にするのでしたから大しておいしくもありません。それでもおいしがって食べました。お餅へバタとお砂糖をあえたり、お味噌入りのライスカレーが出来たり、何しろ材料の乏しい処で味の複雑な御馳走を拵えようとするので大分珍妙なお料理が出来ました。……
 リーチさんは《すずこ》だけを嫌がって居ました。志賀さんや私がまた《すずこ》が好きなので『こんなおいしいもの』と云うと、『咬むと玉がつぶれる、臭いつゆが出る、いやんナー』といつも顔をしかめました。好きなもので一番に思い出されるのはお味噌でした。お味噌汁が大好きで落し味噌の粒粒なお汁でも喜んで居りました。上唇に被いかぶさった口髭についたお汁をよくハンケチでふいて居た様子が目に見える様です。それから須田町の藪蕎麦へよく立ち寄った様でした。あそこのお煮出汁の味が好きで、大きな瓶へ入れて我孫子へおみやげに持って来た事もありました。
 町へ散歩や用達しに行った帰りには、よく駄菓子を買って来ました。ねじ棒や豆板や鉄砲玉などの黒砂糖の特別な味を、我々共に喜んだものです。又落葉の焚火や窯焼の後で焼いたお薯を、小供達と一緒に泥を払い乍ら味わった事もありました。こんな塩梅でしたけれど、それでも御飯ばかりでは重たすぎると云って家からパンをとりよせて居ました。パンを好い加減食べた後でお香のものでお茶漬などおいしそうに掻き込んでいる時もあります。そしていつもパン切り台を前に据えて、ナイフをかまえ、『食べるカー』と云って吾々の顔を一巡り見まわして切ってくれたのを思い出します。」

 奇妙なのは、仲も兼子も、外国人にとって最大の難関である刺身や寿司について述べていないことです。《すずこ》だけを嫌がっていたという兼子の表現から察すると、リーチはその他の生魚は苦にしなかったようにも思えます。
 いずれにせよ、リーチは大正時代の日本人が食べていたものを、抵抗もなく、むしろ嬉々として食べていたわけで、海外赴任に電気釜が手放せない当節のひよわな日本人が恥しくなるような順応性をもっていたのです。思えばラフカディオ・ハーンも米の飯に味噌汁、生卵や煮魚、焼き魚を好んで食べたといいますから、リーチは敬愛するハーンに倣ったのかもしれません。もっともハーンは煙管(きせる)に刻み煙草をつめて吸い、毎夜二三合の晩酌をたしなんでいたようで、この点は柳宗悦や浜田庄司と同様、「まるで清教徒のように」タバコも酒も口にしなかったリーチとは異なっています。「父はその頃、莨具や盃を沢山作っていたが、この御三方には必要がなく、お座敷に置いてある灰皿は長時間の暇と退屈をもて余し大欠伸をしていたことだろう」と、河井寛次郎の長女・河井須也子は語っています(河井寛次郎『火の誓い』講談社文芸文庫後書)。

 東と西の結婚といえば、典型的な日本の生活様式の一つである掘りごたつが、なんとリーチの発明だったという説があります。
 水尾比呂志氏『評伝 柳宗悦』の付録「柳兼子夫人に聞く」の中に、
 「(リーチさんは)原宿で家族と一緒に、ちょっとした家に住んでいたんですよ。日本建ての家で、コタツを掘ったりして(註・堀ゴタツはリーチが案出した装置である)。」
という言葉があるのです。(註)はおそらく聞き手の水尾氏がつけたものでしょう。

 この「リーチが案出した装置」については、兼子のほかにも多くの目撃者がいます。いずれも前掲式場本に記載されているもので、第一に里見が、
 「…誘われるままにリーチのうちによったと思う。音楽学校の先を右へはいった桜木町の新宅だ。…茶の間の、真中の畳一帖だけ床を落し、丁度椅子に腰かけるように、その切穴へ足を踏ン込み、上から被せた卓へ向かう仕掛になっていた…」(「思出片々」)
 第二に児島喜久雄が、
 「中央を四角に大きく切って一段落としてある妙な食堂で山内と二人昼食を御馳走になったのも其頃であった。」(「入門の思出」)
 第三に富本憲吉の談話として、
 「リーチとの初対面は桜木町の家だった。彼が設計したという茶の間の真中の畳一畳だけ床を落して、そこへ格好な卓子を置いてあったので、床が椅子代わりになって、皆で腰をかけて向かい合うことの出来るものが作られていた。」
と述べているのです。

 三人とも、まるで不思議なものを見たように、その構造を説明しています。「畳一帖だけ床を落し、丁度椅子に腰かけるように、その切穴へ足を踏み込み、上から被せた卓へ向かう仕掛」といえば、まさしく足元に火をおけば掘りごたつに早や替わりするもので、水尾説は正しいといっていいでしょう。創意工夫に長けたリーチが、冬場になればきっとそうしたであろうことは、容易に想像できるのですから。

 ところで、ちょっと解せないのは、彼らが誰も堀りごたつのようだと言っていないことです。とすれば、この時代はまだ掘りごたつがなかったのでしょうか?……平凡社『日本大百科辞典』「こたつ(炬燵)」の項によれば、掘りごたつは置きごたつよりはるかに古く,室町時代に出現したといいます。最初は,囲炉裏の火が〈おき〉になったときなどに上に格子または簀の子状の櫓(やぐら)をかけ,紙子(かみこ) などをかぶせて,櫓に足をのせて暖めていたそうです。置きごたつは元禄時代になってからのもので、木炭・たどんなど燃料生産の増大に伴い、これを火種に代えて庶民の安直にして不可欠な暖房具として普及したというのです。

 しかし、置きごたつが木炭・たどんを火種としたのであれば、掘りごたつだって囲炉裏の上に櫓をかけるという危険なことは避けて木炭・たどんを使えばいいはずです。そうしなかった掘りごたつが結局置きごたつに駆逐されていったというのでしょうか、沸き起こる私の「?(はてな)」に対して、残念ながら、百科辞典は答えてくれません。
 いずれにせよ、里見たち三人がリーチの「装置」に感心しながら掘りごたつを連想しなかったということは、大正時代には掘りごたつは少なくも彼らの目に触れないほどの存在であったのです。

 私事(わたくしごと)で恐縮ですが、わが家は堀りごたつです。家を建てたとき、二階の茶の間に半畳分の掘りごたつを切らせて、年中卓袱台(ちゃぶだい)代わりに使っています。それは私の育った家の茶の間にあった掘りごたつからの郷愁でした。その掘りごたつは親子六人が入っても足がぶつからないほどの大型のもので、その上で皆でつつく鍋料理が楽しみでした。エアコンなどない時代でしたが、頭寒足熱の理に適ったこたつは暖房という本来機能のほかに、一家団欒の場を提供してくれたのです。

 当時の火種は練炭でしたが、今のわが家のはもちろん電気で、置きごたつ同様、櫓の下についています。二階の茶の間は冬でも日当たりはよく、日が落ちても熱が逃げずに、こたつをつければエアコンは不要です。
 いつになく厳しい寒さのこの冬もまた、こたつにもぐってテレビを見ながらうたた寝をする、という至福のときを過ごしながら、私は栄えある掘りごたつの発明者の尊号をリーチになら与えてやってもいいな、と思い始めているのです。(完)

 仲省吾(続き)

 次は、私が特に知りたかったリーチとの関係で、リーチが黒田邸に窯を築いた前後の経緯に焦点をあててさぐってみることにします。リーチが黒田日記に初めて登場するのは、大正八年六月二十四日の項で、
 「六時ヨリ流逸荘ヘ赴キ リーチ氏ノ作品展覧会ヲ覧タリ」
です。以下、リーチが出てくる記述を拾うと、
 「七月十八日 仲君 リーチ氏等ト笄邸内ノ敷地ヲ検分セシ由ナリ 但リーチ氏ノ外 警○庁ノ官吏モ同行セリト聞ケリ」
 「七月十九日 夕刻リーチ氏 仲氏同道来訪 半時間許語ル 今回ノ窯移転ノ礼トシテ来レルナリ」
 「七月二十六日 リーチ氏作ノ机及椅子搬入 直ニ畫室内ニ備付ク」
 「七月二十九日 来訪ノ仲君ト語ル リーチ氏ノ出願ニ関スル警察ノ態度ト警○庁当局ノ意見等ニ就テ」
 「八月十八日(在鎌倉) 午後一時半頃 仲氏来着…又リーチ氏工場建設ノ儀 許可セラレタル事等ノ報告アリ」
 「九月六日(在鎌倉) 七時頃 仲君入来 薔薇園ノ設計及貸地ノ処置ニ関スル報告アリ 又リーチ氏ハ来ル十一二日頃 軽井沢ヨリ帰ル筈ナリト語レリ」
 「十月二十三日 笄邸ニ於テ窯開ノ式ヲ執行ス 荒○ヲ祭ル 梶山氏此祭ヲ主ル リーチ氏ト余ト左右ノ火口ニ点火ス リーチ氏夫妻 仲氏夫婦 照子等列席 一同撮影終(夕刻 仲氏 供物ノ一部ヲ持参ス)」
 「十月二十四日 九時半帰宅 待合セタル仲氏ト十一時過マデ語レリ 同氏ハ昨夜十二時過迄窯焼ヲ手伝ヒ リーチ氏ハ遂ニ窯小屋ニ一泊セリトノ事ナリ」
と記されています。

 これらの日記文には、黒田が仲に頼まれて自邸内にリーチの窯をつくってやった、というような表現はありません。しかし、大正八年六月二十四日に黒田が流逸荘で見たリーチの作品展覧会というのは、我孫子の窯が焼失して失意の底にあったリーチを励ますために仲間たちが開いてやったもので、黒田がわざわざこれを見に行ったのは仲に誘われたからに違いありません。加えて、その二日後の六月二十六日の項に、
 「夜 仲君来リ午前一時マデ語ル」
という意味深長な記述があるのは、仲がリーチの救済を頼んだのだという想像が可能です。以後、リーチが仲に伴われて礼を述べに現れるまでに、七月二日、十三日、十四日、十七日と四度も訪客に仲の名前が記されていることを見ると、承諾を与えたあとに窯をどこにつくるかの実務的な相談がなされたと考えていいでしょう。

 敷地の検分から警察への届出、建設許可の取りつけ、庭園の設計に至るまで、仲は、実にこまめに、リーチの面倒を見ています。初めての窯焼に深夜まで手伝ってやる仲の態度には、リーチが言うような、単なる黒田の申し出を伝えに来た雇い人であったニュアンスなどは微塵も窺えません。
 黒田日記を読む限り、最初に私が抱いた「仲とリーチと、どちらの言い分が正しいのか?」という疑問は、仲のほうに軍配をあげざるを得ないようです。それでは、これほどまでに尽くしてくれた仲に対して、リーチはなにゆえ充分な謝意を示さなかったのか? 

 その答を解く手がかりは、三件目に現れた『バーナード・リーチの日時計――仲省吾という日本人』という項目にありました。C・W・ニコル氏によって書かれたこの作品は『誇り高き日本人でいたい』という著書に収められたもので、抄述された内容が目をひいたので、幸い市立図書館に所蔵されていたものを早速借りてきて一読しました。

 物語は、ニコル氏が来日して間もない若い頃、鳥の写真を撮っていたとき、威厳のある白髪の紳士から「グッドモーニング」と声をかけられるところから始まります。完璧なビクトリア朝時代の発音に魅せられて話は弾み、仲省吾と名乗ったその老紳士が近くの老人ホームに住んでいることを知ったニコル氏は後日ホームを訪ねます。老紳士はホームの敷地の一角に彼専用に建てられた家に住んでいて、前庭に台座の上に築かれた日時計があり、それはバーナード・リーチのタイルで作られていたのでした。老紳士はそのとき「私は日時計が好きなんですよ」と言っただけでしたが、再度訪問した折には老紳士はすっかり衰弱していて、混濁した意識の下でニコル氏のことを「デイビッドか?」と尋ねるのです。そのあと「どうしてバーナードは会いに来てくれないのか?」と何度も訊かれたことで、ニコル氏は彼がリーチの友人だったことを知ります。そんなある日、ニコル氏はジャパン・タイムズでリーチが来日しているという記事を読みます。ニコル氏は奔走した末リーチをつかまえて、電話で仲老人のこと、病気のこと、あなたに会いたがっていることを告げます。「参りましょう」とリーチは即答し、約束を全部取り消して見舞いにやってきたのです。

 「仲氏は独りで臥(ね)ていた。衰え果てて、顔は青ざめ、肌は灰色にやつれ、萎びた小さい人形のようであった。私はリーチ氏の後からついて入った。
 『やあ君どうだね。本当に久しぶりだね』とリーチ氏は声を掛けた。
 『おお、バーナード! 来てくれたか。来てくれると思っていた!』
 こうして小さな奇跡が実現し、老人の願いはかなえられ、時は短く手ぐり寄せられた。私の目には涙が溢れた。私は何だか闖入者のような気がしたので、そっと座を外し、室外の椅子に黒衣のシスターと並んで腰掛けて待っていた。
 二つの声が室内から洩れて来た。その話の内容は聞き分けられなかったが、しかし仲省吾老人の声はまるで青年のように弾んでいた。」
と、ニコル氏は記します。

 その年(一九六四年)の暮に、離日を控えたニコル氏がお別れの挨拶に訪ねたとき、仲氏の住んでいた家に錠がおりていることに不吉な予感を抱いて「仲さんはどこですか?」と尋ねると、そこにいた老女が「行っちゃった」と答えます。てっきり氏が亡くなったと早合点したニコル氏は、「駅へ戻る間じゅう、子供のようにすすり泣いた」と綴ります。
 それから十五年後、これを題材にした「日時計」という戯曲を日本語で書くことを決意したニコル氏は、取材のために老人ホームを再訪します。そのとき、仲省吾氏の正確な死亡日時が一九六九年一月十五日であったことを知らされるのです。軽はずみな判断からその後四年間も仲氏を見舞わなかった自分を、ニコル氏ははげしく責めます。でも、リーチの日時計はまだそこにありました。ニコル氏が剪定鋏で深い蔦かずらの茂みを刈り取ると、リーチの色鮮やかなタイルが姿を現したのです。十五年前は読めなかった日本語の真鍮(しんちゅう)の碑板には仲氏の詩が書かれていました。

 ざっと以上のようなあらすじなのですが、ニコル氏はこの縁から仲省吾についてもっと知りたいという思いに駆られて調査を始めます。この随筆の後段はそれが主力で、「解き明かされた仲氏の実像」という小見出しで、時のローマ法王にも謁見したという仲省吾の華やかな経歴が語られます。

 しかし、肝心のリーチとの交わりについては、「仲省吾氏はリーチの親友であり、後援者であったらしい」とか、「若かりしバーナード・リーチが火災のために自分の窯と家とを焼かれて困窮していた時に、彼を助けて立ち直らせたのが仲省吾氏であったらしい。それは仲省吾氏自身の語った話のようである」とか、「らしい」「ようだ」の推測に終わっているのです。それなまだいいとしても、私が最も期待を裏切られたのは、本篇の結びの文章、「そして私は今も問うのである……デイビッドとはいったい何者だったのだろうか?」でした。ニコル氏は、デイビッドがリーチの長男であり、父と同じ陶芸家の道を選んだという、ちょっと調べればすぐわかる周知の事実をなおざりにしているのです。

 それはさておき、ニコル氏の奔走によってかなえられたリーチと仲省吾との邂逅場面は、浜田を見舞う情景と同様、やはり胸を打つものがあります。とりわけ、リーチが名も知らぬ同国人のニコル氏から電話を受けたとたんに、来日中の多忙な日程をすべてキャンセルして翌日に駆けつけたという事実は、リーチが仲から受けた恩を決して忘れてはいなかったという何よりの証左でありましょう。それはまた、リーチにとって、回顧談や自伝の中で仲への謝意を述べなかったことへの償いであったかもしれません。

 リーチと仲省吾、黒田清輝とのトライアングルをさぐる私の知的探求の旅は、こうして終わりました。人は、日記や回顧談、自伝の中ですべてを語ることはできません。書き漏れ、思い違い、失念は誰にでもあることで、書いてないからといってその事実がなかったことにはならない、という当然の定理を、私はいまさらのように教えられたことでした。(完)

リーチの章の参

 仲 省吾

 リーチが交わった日本人の中で、仲省吾という、いまはもう忘れられている人がいます。私がこの人の存在を知ったのは、昭和九年に刊行された式場隆三郎博士の編著になる『バーナード・リーチ』という稀覯本(きこうぼん)を繙(ひもと)いていたときでした。同書の第二編「リーチ研究・思出」の中に、仲省吾なる人物が「リーチを憶ふ」と題する一文を寄せていたのです。

 書かれたのは大正十年で、仲は次のように記しています。
 「私は今リーチの残した窯で製作し、リーチと同じ会場で自作の展観を催している上から、一層リーチを想う念が深いのである。私は今日まで親兄弟よりも親しく思う友人、しかもそれが英国人であり、そして短い月日の間に何処までも深い交際をしたという事は、生涯二度とある事でなかろうと思っている。
 二人が本当に深く交わる様になったのは、リーチが我孫子の窯を焼失した時から始まっている。リーチが其の善後策について相談に来た様子が、非常に気の毒であったという事を、外出から帰宅して、妻から聞かされた。取次に出た女中迄もリーチの落胆の様子を妻の話に付け加えた。それから私は直ぐ取るも取り敢えず、原宿のリーチの寓居を見舞った。悄然とした彼を見るのも傷ましかった。彼は我孫子で窯を失ったと同時に沢山の参考品や画稿を失ったのである。…リーチは其の時もう一つ心配事を持っていた。それは原宿の寓居が近々立ち退きを命ぜられている事であった。…丁度其時、私の友人で駒沢村に空き家を持っている人があったので、可也高い家賃ではあったが事情を告げてリーチの払われる程度に交渉して移らせる事にした。気持ちのいい家である事を彼は大変喜んでくれた。
 これで住宅の問題は済んだけれども、一番大切な窯の無い事を大変リーチは困っていたので、私は黒田清輝子に万事を話した処、子爵も非常に同情して自分の邸内に窯を築き、何等の条件なしにリーチに貸す事を約された。黒田子の考えでは、外国から来ている芸術家の苦しんでいるのを救うという事は、国交のうえから云って見ても意義ある事であろうし、又日本の学生が海外にあって、同じ運命にあったと思えば、この際大いに力を添えてやるべきであると云う意見であった。
 こうして新しく生まれたリーチの窯は、全部彼自身の設計になるもので、棚一つと雖も彼の意志でないものは無い。西門を這入ってその窯に至るまでの小径も、わざわざ木の間を潜って変化あり、趣きある様にリーチが案出したものであった。
 窯の出来上がる間彼は軽井沢に居た。帰って見て窯の余りに立派なのを驚いて『少しの間しか使わないのにこんな立派な釜は勿体ない』と言い続けて居た。窯開きの時は日本の古式によって、神官を迎え、供物をし、祝詞をも上げて厳かに行った。その式が済んでから、リーチが祝詞の意味が何となく判る様な気がすると云ったので、私は一層詳しく祝詞を訳して話したら感に打たれて涙を流して居た。」
 因みに、「東門窯」と名付けられたこの窯の地鎮祭が行われたのは大正八年十月二十三日で、リーチが涙した祝詞は陰陽師梶山惣五郎が読んだもので今も残っているといいます。

 この内容を読むと、(リーチの章の壱)で挙げたリーチを導いた信じられない偶然の第六に、仲省吾との交友を付け加えなければならないでしょう。仲がいなければ、リーチの日本における作陶は続けられなかったかもしれないのです。我孫子のリーチ窯が焼失したあと黒田清輝が救いの手を差し伸べたのは夙(つと)に知られた美談ですが、黒田に仲介の労をとってやった人物がいたというのは、私にとって初めて知る事実でした。

 不思議なことに、この「親兄弟よりも親しく」思ってくれ、新しい窯から家の面倒まで見てくれた友人に対して、リーチはさしたる謝意を示していないのです。
 仲の思い出話が載った前掲式場本には、リーチがこの間の経緯について述べている箇所があるのですが(一九三一年ロンドンにおける講演記録)、
 「私自身の窯場をもう一つ建てることは、非常な費用を要しました。この困惑している時に黒田清輝子爵から――私はその時まで逢ったことがなかったのですが――子爵は東京で広い土地を持ち、自身も画家でしたが――自分の所へ来て窯を建てないかという話がありました。その窯は私が暑い時期に山の方へ行っている間につくって置くからと云ってくれました。こんな好意は日本では珍しくはありませんが、外国人に対しては珍しいことだと思います。」
と、黒田に対する謝意は尽くしているものの、仲への言及はありません。

 これよりはるか半世紀後の、昭和五十七年(一九八二)に著された自伝的回想『東と西を超えて』においては、
 「この転機に、私の東京の画廊の所有者である仲省吾という人が、彼の前の雇主である黒田子爵からの申し出を伝えにやってきた。…子爵はパリで美術を勉強し、油絵では一流となっていた。私は彼に一度しか会ったことがなかった。彼は明らかに私の損害を案じており、東京の私の家から遠くない彼所有の草地に、彼が私のために新しい工房と窯を建てることを承諾するかどうか聞くために、仲氏を寄こしたのであった。私がそこを去った後、彼(仲氏のこと?)がそこを使うという条件であったが、日本を離れることは私もしばらく考えていたことであった。私はこの寛大さにあっけに取られ、仲氏に柳とこの問題を話し合わねばならないと答えた。柳はすぐさま、承諾すべきだと言った。」
と、仲の名前は出てきますが、ここでも黒田が主役です。先に黒田とはそれまで逢ったことがなかったと言いながら、今度は一度しか会ったことがなかったと言うのはご愛嬌としても、リーチによると、仲は単なる黒田の申し出を伝えに来た雇い人であるというのですから、仲の言い分とはずいぶん異なります。

 いったいどちらが正しいのか? ……はげしく突きあげてくる好奇心に動かされて、私はまずは仲省吾なる人物について知ろうと思い、市民図書館に出かけて人名録をあたりましたが、不思議なことにいずれの人名録にも仲省吾の名前が見つからないのです。こんなときはネットに限ると考えて「仲省吾」というキーワードをヤフーに打ち込んだところ、たちまち三件の有力な情報が現れました。

 一件目は、「ゆずりは便り」というブログのページです。執筆者は推定するところお茶屋さんのご主人で、大正時代の画廊の研究家を自称するだけあって、
 一、仲省吾は「なかせいご」と読み、画廊「流逸荘」の経営者であったこと。
 二、「流逸荘」は大正三年十二月に小川町駅の前、靖国通り沿いに開店し、命名したのは美術評論家の   岩村透でフランス語の「小川 Ruisseau」をもじってつけられたこと
 三、仲は黒田清輝と大変親しく、黒田の助言もあって画廊を開店させたと思われること
 四、「流逸荘」は約九年間華々しく活動したが、関東大震災によって焼失したこと
 五、その後、仲は黒田の死(震災の翌年)もあり、美術界から離れキリスト教司祭・岩下壮一とローマ   で出逢ったことから岩下の仕事を手伝うこととなり、ハンセン氏病の活動に身を投じたこと
などなど、まことに充実した内容が述べられています。就中(なかんずく)、白樺派や民芸の仲間の著作に何度となく登場する「流逸荘」の名前の由来などは、初めて知る知識でありました。

 二件目に現れたのは、仲省吾の名前が記されている「黒田清輝日記」の断片でした。これだけでは両者の関係はわからないのですが、この日記の出典である上野の黒田記念館のホームページを検索すれば、なんと、明治十七年(一八八四)から大正十二年(一九二三)まで、公開されている黒田清輝の日記がネットで読めるというのです。
 さっそく「ゆずりは便り」の正確さを検証すべく、「流逸荘」が開店したという大正三年十二月分を開いて読んでゆくと、大正三年(一九一四)十二月十八日の項に、
 「仲省吾君来リ画室ニテ雑談亦共ニ晩食ヲ取ル 六時半ヨリ国民美術後援会発起人会ヘ赴ケリ …議決2国民美術協会事務所ヲ小川町仲方ヘ移転ノ件」
という記述が、翌二十日の項に、
 「仲氏流逸荘開店」
という記述が見つかりました。
 黒田が自ら会頭をつとめる国民美術協会の事務所を開店早々の流逸荘に移したことは、予めその意図をもって仲に「流逸荘」を開店させたという想像が可能で、「ゆずりは便り」の正確さは証明されたことになります。これ以後、仲は黒田日記に頻繁に登場し、二人の親交の深さがわかるのです。(続く)

リーチの章の弐

 「ハマダ、つかまえた」

 「病院に着き、いったん濱田先生のベッドわきに身を置くや、リーチ先生は、『ハマダ、つかまえた』と、それまで我慢していた情感が一挙に込み上げてきたのでしょう。二人が両手をしっかり取り合いながら、『つかまえた、つかまえた』と悦び合う光景は、無上であり、この世のものとは思えぬほどでした。」
 一九七四(昭和四十九)年の秋、国際交流基金賞受賞のために来日したリーチが宇都宮市で入院加療中の浜田庄司を見舞ったとき、リーチの秘書として付き添った岡村美穂子氏は、自ら目撃した感動的シーンを、このように綴っています(「リーチとハマダ」、講談社昭和五十三年四月刊『益子の父 人間国宝 濱田庄司』の中)。

 このとき、浜田七十九歳、リーチ八十七歳。二人の出会いは、結局、これが最後となります。七か月の闘病生活の後、浜田は退院して制作を再開しますが、一九七八(昭和五十三)年一月五日に急性肺炎で亡くなります。その日は奇しくもリーチの九十一回目の誕生日でした。セントアイヴスの自宅で友人たちと誕生日を祝っていたところへ、浜田の訃報が伝えられたのです。不思議な縁(えにし)で始まった六十年間にわたる二人の濃密な交際は、不思議な縁に導かれて幕を閉じたのでした。その二年後の一九七九年五月、リーチは九十二歳で彼岸で待っている日本の懐かしき友人たちのもとへ旅立ちます。

 高村光太郎(一九五六年歿、享年七十三歳)、柳宗悦(一九六一年歿、七十二歳)、富本憲吉(一九六三年歿、七十七歳)、河井寛次郎(一九六六年歿、七十六歳)、志賀直哉(一九七一年歿、八十八歳)、武者小路実篤(一九七六年歿、九十一歳)……リーチが生涯で最も幸福だった時代をともに過ごした仲間たちは、みな冥界の人となっています。一番長生きをしたリーチは、それゆえに一番悲しい思いをしたことでありましょう。

 前章で触れたように、浜田という盟友を得なければ、リーチは母国で陶芸家として大を成すことはできなかったかもしれません。その二人の運命的な出会いは、浜田がリーチを訪ねて柳宗悦邸へやってきたときだというのが定説になっていますが、不思議なことに、二人の証言は食い違っているのです。
 リーチの言によると、京都の浜田から会いたいという手紙が届いた、といいます。
 「その中に彼は焼物の仕事をしていること、また七八年間自分の製作や富本君の作品を見ていると書いてありました。のみならず吾々の作品が彼をして陶工たらしめたとも書いてありました。彼は自分自身で製作しているが、私の所へ来て知合いになりたいと云って来ました。彼は私を訪ねて来ました。そして吾々は友達になったのです。」(『バーナード・リーチ』式場隆三郎編著)。

 水尾比呂志氏の柳年譜(『評伝 柳宗悦』)を繙くと、それは大正八年(一九一九)五月のこととありますが、浜田の自伝(『窯にまかせて』)では、
 「リーチと話をするようになったのは、大正七年、東京・小川町の流逸荘で開かれていたリーチ展の会場からであった。名乗り合って作品について話したあと、彼は『富本から、日本の陶工からは教えてもらうな、本当のことは言わないからと言われたが、君の話はよくわかる。我孫子の仕事場でもっといろいろ聞きたい』と言った。彼はそのころ、我孫子の柳宗悦宅に窯を持っていたのである。私は会が終わると、一人で彼を訪ねた。
 我孫子の駅では、柳夫妻も同じ汽車から降りたが、すぐ駅待ちの二台の人力車に乗って行ってしまった。私は歩いて柳邸へ入ったところ。『柳いるか』と声を掛けながら来た人があり、一目で志賀直哉さんだとわかった。こわいほど立派な顔立ちであった。
 あいにくリーチの姿はなく、応接まで待つことになった。……やがてリーチもやってきて食事の時間となったが、独特の食卓風景であった。ご飯もパンも両方出ていて、だれも自由に好きなものを食べる。……午後からは、中国風に建てたリーチ陶房で、原土や釉薬・窯たき、近く開く東京展の出品作など、二人で時を忘れて話し合った。」
とあり、初めて会った時期や会うまでの事情やらにかなりの相違が見られます。

 その浜田の記述を覆すのが柳兼子の思い出話(水尾比呂志氏『柳兼子夫人に聞く』)で、
 「浜田さんがいらっしゃったときには、停車場を降りたらば、同じ汽車から降りた私と柳とが人力を頼んで乗って帰ったのを『あとからつけて行った』とか言ってらっしたそうですけど、そんな覚え、ないんですよ。だって、二十分ぐらいなところ、人力で帰りゃしません。…私なんぞ、いつも歩いて帰りましたよ。」
と言うのですから、いったいどれを信用していいのか迷ってしまいます。

 時系列で並べると、リーチの言が一九三一年(四十四歳時)、浜田が一九七四年(八十歳時)、兼子が一九八二、三年(九十歳時)のことになります。時間の経過とともに記憶が衰えるという学説に従えば、リーチに軍配を上げるのが妥当と思われますが、個人差もあることで、結局私たちは本人の言葉でさえ闇雲に信じてはならないことを教えられます。実際のところ、出会いについて鮮明な記憶を持っている人はごく稀で、私などは無二の親友であっても、いつどこで知り合ったのかは霧の中に埋もれています。

 とまれ、リーチは浜田とたちまち肝胆相照らす仲となり、一年後の大正九年、二人はセント・アイヴスにヨーロッパで初めての登り窯を築き三年間共同生活を送ることになるのですが、このきっかけについても二人の言い分は微妙に違っています。
 すなわちリーチは、浜田は帰国する我々家族と一緒に「イギリスに渡る可能性があるかどうか聞いてきた」「自分を英国に連れて行って貰えるなら、悦んで働くと云ってくれ」た、などと語っているのですが(前掲式場本)、浜田のほうは、リーチは「私を強く誘ってくれ、同道することになった」(『窯にまかせて』)と言うのです。
 重箱の隅をつつくようなことはやめにして、二人の交流に話を戻しましょう。リーチは帰国後も戦前に一度、戦後は昭和二十八年(一九五三)を皮切りに八回もの来日を果たしますが、その都度必ず浜田とは会っています。益子の浜田窯へも何度も足を運び、再会の喜びを綴り、浜田の人となりと作品を讃えます。言語や文化の壁を越えて英国人と日本人がこれほどまでに親しくなれることに、私などは羨望を通り越して嫉妬すら覚えてしまいます。

 それほどの深い友情に結ばれた二人なのに、リーチの意見に浜田が《色をなして》反論したエピソードを、意外なことに司馬遼太郎氏が名著『街道をゆく』の第四巻「洛北の諸道」の中で披露しています。
 「十年ばかり前沖縄に出かけたときに、那覇のテレビに英国の陶芸家のバーナード・リーチ氏と日本の浜田庄司氏との対談が映っていた。リーチ氏は、柳宗悦や浜田庄司氏らとともに民芸思想を深めることに功績のあったひとだが、この対談のなかで道路の話題が出た。
――自分は日本が好きだが、道路のわるいのだけはこまる。
という意味のことをリーチ氏がいった。当時はまだ未舗装の道路が日本中に無数にあった。ところでこの発言に対し、リーチ氏にとってたれよりも意見が適(あ)うはずの親友である浜田庄司氏が色をなして反論されたのはおかしかった。その浜田庄司氏の発言を正確に再現できる能力は私にないが、要するに浜田氏は悪路に賛成であり、舗装には絶対反対であり、道路とは何ぞやを論じ、それは雨がふれば泥ンこになるようなものでなければならない、と言われ、さらに文化とは歩いていて足の裏が泥でぐちゃぐちゃするところから生まれるもので、人口のアスファルト舗装のあのそらぞらしい足もとからは生まれないのだ、という堂々たる思想がくっついていた。浜田氏はさらに『だから私は益子の工房(いえ)のそばの道路は舗装させないのだ』といわれた。
 私はかならずしもその意見に賛成するものではないが、しかし浜田庄司という思想家の、これはきわめて思想性の高い発言だといまでもおもっている。しかも、この発言は一種の先見性をもっていた。その後、日本中の道路が舗装されたが、その上に成立したものはもはや悪の華の形相を示しはじめた自動車文明(モータリゼーション)なのである。」

 この話は司馬氏にとってはよほど印象に残ったとみえて、七年後の著書『古往今来』の後書きにも書かれています。あの温厚な浜田が《色をなして》反論する様子など、現場を目撃していない私には想像もできません。これに似た意見の衝突は、おそらく二人の六十年に及ぶ交流の中で何度もあったであろうことで、結局、喧嘩しても仲直りするのが真の友といえるのでしょう。そういえば、あの温厚な柳もまたリーチと、赤城の夜にある画論のことから互に立ち上がって激しく口論したのち、仲直りして「それ以来一層の友愛を感じた」と述べています。

 それにしても、司馬氏をして浜田を「思想家」と呼ばせるのは、尋常な評価ではありません。それは、「師承」という悪しき伝統が思想を失わせるという司馬氏のかねての持論から出ているようです(『この国のかたち・二』「師承の国」)。「師承」とは何事も筋目の師につかねば身につかないという意味のことで、それはそれでもっともなことなのだが、やがて師の説くことから一歩も離れてはならないという閉鎖性を重くする作用をもたらすといいます。

 この師承の国で師承を脱したのは、(明治までの例でいうと、)宗教哲学の清沢満之(まんし)、武道の千葉周作と嘉納治五郎の三人だけだったように思える、「三人とは、なんとも少なすぎるようである」と司馬氏は嘆くのですが、浜田を「思想家」と呼ぶのであれば、リーチも富本憲吉も河井寛次郎も、みな(一介の「陶芸家」ではなく)「思想家」であった、といっていいでしょう。何とならば、リーチと富本は筋目の師・六世乾山に教えを受けたけれど、伝統的な古風な陶工であった乾山に飽き足らず、創意工夫を重ねて多くの技法を自ら生み出していきました。河井と浜田は京都市立の陶磁器試験場で何千という実験を重ねて、独自の色と焼成法を確立するのです。
 陶芸家ばかりではない、思えば『白樺』の仲間たちも、誰一人として師にはつかなかった。「師承」の対語である「我流」をきわめて大家にのぼりつめたのです。
 我孫子に集(つど)った人たちは、その意味で、全員が「思想家」なのでした。(完)

 「何といういさぎよさ」(続き)

 ところで、後段のエピソードについては、いささかひっかかるものがあります。それは、「リーチは此時ヴァン・ゴォホに就ては何も知らなかった」という柳の表現です。いやしくも英国で画業を学んだリーチが、ほんとうにゴッホを知らなかったのか? 穿鑿好きな私の性分としては、そのあたりを調べてみたい気がおこります。
 まず、「此時」とはいつのことであるか。柳は、リーチの画業は日本へ来てゴッホを知るまでは二年程停滞していたと言いますから、そうであればリーチが来日した一九〇九(明治四十二)年の二年後の一九一一(明治四十四)年のことになります。

 それを裏づけるヒントは、我孫子市民図書館にある千葉県立美術館発行の『白樺派と近代美術』なる冊子の中にありました(副館長・小池賢博氏の巻頭解説)。
 「明治四十四年十一月十八日は『白樺』同人にとって記念すべき日であった。すなわち、後期印象派の画家たちの洗礼を正式に受けたのである。ルイス・ハインドの『後期印象派』が柳宗悦のところに届いたのである。柳によると『殆ど一週間程、毎夜二、三人の同人を集めた程』の騒ぎとなった本で、武者小路も次のように、その興奮を述懐している。…」
 このルイス書の中にリーチが見たという「囚人」(正しくは「ドレによる輪になった囚人たち」?)が掲載されていたのなら、「此時」は明治四十四年十一月十八日に確定できるのですが、残念ながらそこまでの調査はできないでいます。
 しかしながら、かねてより武者はゴッホに熱を上げていましたので、(引用された述懐文の中にゴッホの名はありませんが、)リーチは多分、興奮した武者が持ち帰ったその美術書を見せられたという想像が可能になります。

 一方ゴッホが死亡したのは一八九〇年七月のことで、生前はたったの一枚(「赤い葡萄園」)しか売れなかった彼が注目されだしたのは、死後十年も経ってからだといわれます。ゴッホの名声が確立したのは、さらに十年後、一九一〇年にロンドンのグラフトンギャラリーで「マネと後期印象派展」が催された時でした。このときゴッホ作品はセザンヌ、ゴーギャンと並んで二十一点展示されましたが、一九一二年ケルンの「ドイツ特別連盟展」では実に一〇八点もの作品が展示され、ゴッホ人気は一気に高まったのでした(デヴィッド・スウィートマン『ゴッホ・一〇〇年目の真実』)。

 因みに、「マネと後期印象派展」の原題は「Monet and the Post-impressionists」で、主宰者の英国美術評論家ロジャー・フライによってマネたちがPost-impressionists と命名されたのでした。一九一一(明治四十四)年十一月に柳が取り寄せたと小池氏が言うルイス・ハインドの著書も原題は「The Post-Impressionist(London,1911)」で、これを「後期印象派」と訳したのは多分柳でありましょう。
とすれば、「マネと後期印象派展」の一年前の一九〇九(明治四十二)年に来日したリーチが、ゴッホを知らなかったことは充分あり得たことと考えられます。

 しかし、「リーチは此時ヴァン・ゴォホに就ては何も知らなかった」という柳の表現は、我々はすでに知っていたのにという優越的なニュアンスを含んでいます。事実はその通りで、実は、ルイス・ハインドの著書が届く五か月も前の『白樺』第二巻六号(明治四十四年六月号)の挿画の中に一点、ゴッホの作品「河岸と橋」(洋筆画)が掲載されているのです。続いて第二巻十号には五点の挿画すべてがゴッホで占められ、「パイプをくわえた自画像」「郵便配達夫」「プロヴァンスの田舎道(糸杉)」など、のちに名作とうたわれた作品が掲載されるのですが、これとてルイス書の一か月前になります。これはすなわち、柳たちはルイス書を見る前にすでにゴッホを知っていたことになり、リーチがルイス書でゴッホをはじめて知ったのであれば、柳の優越的なニュアンスは理解できるのです。それはまた、リーチはなぜか『白樺』の六号も十号も見ていなかったということにもなります。なんとならば、リーチが初めてゴッホを見たのは「囚人」だと柳は記しますが、「囚人」は『白樺』の両号には掲載されていないからです。

 余談ながら、千葉県立美術館の冊子には、創刊以来の『白樺』全号が掲載した西洋美術の口絵挿画や同人の美術評論がつぶさに紹介されています。絵画の中では『白樺』はとりわけゴッホに熱心で、第三巻十一号では付録として九十四頁ものゴッホ特集を組み、九点の作品とともに阿部次郎、児島喜久雄、武者小路実篤、柳宗悦らの文章とリーチの柳宛の「余はヴァン・ゴッホを熱愛す」ではじまる手紙を掲載します。その後も第四巻から第十四巻まで、九回にわたり五十五点ものゴッホ作品を載せ続けるというご執心ぶりで、ゴッホがいかに白樺派の心を捉えたかがわかります。
 それではゴッホ以外の後期印象派についてはどうかというと、セザンヌとゴーギャンは『白樺』第一巻二号(明治四十三年五月)に、ルノアールは第二巻三号(明治四十四年三月)に、マネは第二巻四号(同年四月)に、いずれもゴッホよりも早く挿画が掲載されているのです。

 掲載するにあたっては原版を手に入れなければなりませんから、実際はもっと以前から知っていたはずで、こんなに早くから『白樺』の同人たちが後期印象派の作品を知っていながら、そのあとで届いたルイス・ハインドの著書に興奮するというのはおかしな話になります。それは『白樺』の挿画が黒白印刷であるに対して、ルイス本が多分多色印刷であったからかもしれません。
 リーチより前に柳たちがゴッホを知っていたことは、これでどうにか証明されたようですが、なんにせよ、白樺派の情報収集能力の高さとそのスピードには驚かされます。一九一〇年にロンドンで開催された後期印象派展でようやく名を知られるようになったゴッホの作品が、翌年の六月の『白樺』に掲載されているのです。おそらく彼らの仲間に「マネと後期印象派展」を見たものがいて、その一人が持ち帰ったカタログで知ったのでしょう。あるいは武者のように、あちらの美術雑誌を定期的に講読している者がいたのかもしれません。

 その関連でいえば、明治四十四年(一九一一)の『白樺』第二巻二号(二月)、六号(六月)、九号(九月)に、三回連続で児島喜久雄が「ヴィンツェント・ヴァン・ゴオホの手紙」と題して、弟テオ宛の書簡を訳出していることも驚きの一つです。
 私の拙い調査では、親友ベルナールが自分宛のゴッホの書簡集を発行したのは一九一一年のことで、テオの未亡人ヨーがテオ宛の全三巻の書簡集を発行するのはその三年後の一九一四年のはずです。児島の文には Max Osborn が月刊誌に掲載した小伝を訳したという記述がありますが、当時まだ公開されてないはずのテオ宛の手紙をどうしてMax Osborn が入手できたのでしょうか? その謎はさておくとして、のちにゴッホを語る上で欠くことのできない貴重な資料となったテオ宛の厖大な書簡を、児島がこの時期に注目して訳出していたことはたいへんな慧眼といわざるを得ません。

 とまれ、ゴッホを知ったことによって、リーチは革命的な飛躍をとげたのでした。リーチはその思いを、ゴッホを知ってより三十年ものちの昭和十五年に、こんな言葉で残しています。
「窯を焚くたびにゴオホを想い出す。あの火をゴオホに見せたかった。きっと好きになったろう。そして描いたに違いない。あの火炎の美しさを捕えることの出来るのは、ゴオホひとりだ。」(式場隆三郎『めぐりあい 人や物や』「リーチと語る」)

 初秋のある日曜日、地元の高校生とおぼしき少女の二人連れがリーチ記念碑の前の石に腰掛けて弁当を食べているところへ通り合わせたことがあります。「君たち、リーチってどんな人か知ってる?」と、私は気軽に声をかけました。「知りません」と答える彼女らに、私は簡単に説明してやったあと、「我孫子に住んでるのだったら、リーチぐらい知っててほしいな」と余計なひと言を付け加えました。別れてすぐ猛烈な反省がやってきました。
 リーチのいさぎよさに倣って、私にもいさぎよく告白しなければならないことがあります。それは、リーチ記念碑の除幕式が行われた昭和四十九年六月、すでに我孫子の住民となっていた私にその記憶がまるでないということです。私が住む若松の地続きに建設されたというのに、会社人間であった私は、ご当地の文化にはまったく無関心で、会社と家とを往復するだけの愚かな日々を過ごしていたのでした。私がリーチの人と作品を知るようになったのは、退職してからのことでした。

 私には、彼女らを慨嘆する資格などないのです。彼女らは私のリーチを知った歳よりもはるかに若くして、リーチのことをもっと深く知ってくれるに違いないのです。(完)

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