葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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 「わだばゴッホになる」(続き)

 そんなことどもを思い出しているうちに、私の中に、突然、棟方志功のふるさとを訪ねて見たいという思いが湧き上がってきました。思い立ったらすぐにでも実行したいのが私の性分で、折からキャンペーン中のジパング倶楽部の東日本JR三日間乗り放題という得々切符を利用して、さっそく出かけることにしました。
 こういう場合は、いつも一人旅です。八戸で新幹線をおりて特急で野辺地まで。駅前でレンタカーを借りて恐山から下北半島を一周して、その日は大湊泊。翌日は青森へ入る前に浅虫温泉の「椿館」を訪ねました。「椿館」は、当世風の近代ビルに生まれ変わった旅館群をよそに、曲がりくねった露地の奥に、牢固として昔風を貫いている和風旅館です。

 ここは志功が好んで逗留した宿で、「私は椿の湯宿が好きだ。……ひと月もいる麻蒸を書くのに、書くことは尽きない。」と記した文章が残されています。「浅虫」ではなく「麻蒸」の名を使ったのは、当時この辺りに住んでいたアイヌの村人が麻を蒸すために温泉を使っていたことから「麻蒸し」と呼ばれていたことを大事にしたいからでした。

 「志功さんの作品を拝見にきました」と言ったら、「どうぞ、ゆっくりご覧になってください」と愛想のいい返事が返ってきました。案内書に記載されている通り、玄関入って正面の、年代物の応接セットが置かれたロビーが志功の作品展示ラウンジとなっています。作品は決して多くありませんが、墨絵風の鯉の大胆な構図がひとしお目をひきます。磨きこまれた年代物の木の廊下には、志功の写真が数多くかけられていて、いまにでもあの人懐っこい顔が現われそうな雰囲気が漂います。
 そう、私はいま、志功が立っていた場所に立っているのでした。
 鶴舞橋で啄木を、暁鶏館で光太郎を思ったときと同じ感慨が私を襲います。その人を理解しようと思ったら、その人と同じ場所に立つことが何より大切なことなのです。

 翌日は、終日、志向が立った場所をめぐって過ごしました。
 朝、真っ先にお詣りした善知鳥(うとう)神社は、宿の隣にありました。たまたま境内を掃除していた巫女さんに志功生誕の地と生育の地を尋ねたら、東京からやって来た棟方ファンと知って好意を抱いてくれたのか、わざわざ社務所のカーテンを開けて、肉筆の「うとう善知鳥親子鳥の図」を見せてくれました。

 善知鳥(うとう)とはウミスズメ科の海鳥で、室町頃の伝承では、猟師は蓑笠をかぶって巣に近づき「ウトウー」と親鳥の鳴き声を真似すると子鳥は「ヤスカタ」と答えてしまうので、所在がすぐにわかって捕らえやすいといわれます。子鳥が捕らえられるとき、親鳥は空の上から血の涙をふりそそぎ、それが身体にかかると身を傷めるため猟師は決して蓑笠を脱がないという伝承です。この俗伝をもとに謡曲「善知鳥」が作られました。諸国一見の僧が越中立山の湧泉地獄に苦しむ亡者から、自分は生前ウトウヤスカタの鳥を殺して生計をたてていた外ヶ浜の猟師だが、もし陸奥外ヶ浜に行くことがあれば、そこにすむ自分の妻子を訪ねて、罪ほろぼしのために自分の手許にある蓑笠を手向けてほしいと頼まれ、僧はその約束を果すというお話で、志功の絵はこれを下敷きにしたものです。

 巫女さんが教えてくれた志功生誕の地は神社のすぐ前、生育の地もほんの二、三分もかからぬ所で、うとう善知鳥神社が志功の幼い頃の遊び場所だったことが実感できました。志功がチヤ夫人と結婚式を挙げたのもこの神社でした。

 それから三内霊園へ赴き、志功の墓に手を合わせました。通り道にある三内丸山遺跡へ立ち寄ったのは、縄文人の典型だといわれる志功を知るためには縄文人のオーラに接しておかなければ、と思ったからでした。園内の案内板に導かれて墓前に立つと、志功が敬愛したゴッホの墓に模した墓石に自作の板画「むじん不盡の柵」を刻んだブロンズがはめこまれています。「静眠碑」と名づけられた碑文は「驚異モ 歓喜モ マシテ 悲愛ヲ 盡シ得ス」とあり、「驚いてもオドロキきれない、喜んでもヨロコビきれない、悲しんでもカナシミきれない、愛してもアイシきれない」という志功の有名な言葉を現わしています。墓の建立は昭和四十九年、歿する一年前に自らデザインして建てたものでした。

 生誕の地と終焉の地を見ると心が落着いて、市内へ戻って校倉造(あぜくらづくり)を摸した棟方志功記念館を訪ねました。年に四回展示替えがあるとのことでお目当ての「大和し美し」は見られなかったものの、「釈迦十大弟子」や「女人観世音」はまことに眼福でありました。
 私事(わたくしごと)ですが、最近「書」をいたずらするようになってから志功の書にも関心があり、「華厳」と「遊」のいかにも志功らしい雄渾闊達な書体にしびれました。記念館完成を報せた絵手紙もなんとも風趣があり、力強い線刻で描かれた「双天妃図」の陶器はド迫力でした。

 記念館近くの平和公園には、志功自伝の表題にもなった有名な言葉「わだばゴッホになる」が刻まれた碑があり、合浦(がつぽ)公園へ行くと、「清く高く美事に希望の大世界を進み抜く」と記された碑が立っています。海沿いの合浦公園は、志功が裁判所の給仕をしていた時代、ひまを見てはよく写生に通った場所でした。

 残念ながら、現在の合浦公園からは、無骨な防波堤に遮られて海岸へ出ることはできません。平日の昼下がりの公園は人影もまばらです。私はふと茶目っ気を起こして、公園の端っこまで行って、周りに人のいないのを確かめてから、海に向かって「わだばゴッホになる!」と、思い切り大声で叫んでみました。叫んでみて、私はいまさらのように、この台詞のすごさに気がつきました。

 志功は、「有名な画家になる」とか「日本一の画家になる」と言ったわけじゃない、特定の人名を挙げて、それも「ゴッホのような画家になる」と言わずに、「ゴッホになる」と言い切っているのです。子供は誰でも、親や先生から「大きくなったら何になりたい?」と訊かれるものです。私たちの時代は、男児は「陸軍大将!」や「総理大臣!」が多かった。現代では、さしずめ「宇宙飛行士!」「ノーベル賞!」というところでしょうが、いずれも職業で答えるのが普通で、「乃木大将!」「伊藤博文!」とか「毛利さん!」「田中さん!」とか言う児童はほとんどいないでしょう。

 「わだばゴッホになる」と宣言した志功は、草野心平氏の詩のとおりに、ゴッホにはならなかったが《世界のMunakata》になった。 いま、志功の故郷で、絵を志す若者は、「わだばスコになる」と言っているのかどうか?……また一つ芽生えた「?(はてな)」の種をいとおしみながら、私は合浦公園をあとにしたのでした。(完)

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棟方志功の章の壱

 「わだばゴッホになる」

 もし柳宗悦が価値を認めなかったら、棟方志功は世に出なかったかもしれない。その意味では、棟方志功もまた我孫子ゆかりの人物に数えていいでしょう。
 志功と柳との出会いは、まるで小説や映画の一シーンのようなドラマチックなものでありました。この有名な件(くだり)は、先に(柳宗悦の章の四)で紹介しましたが、志功という人ほど奔放で稚気愛すべきエピソードの多い人もいないでしょう。

 中でも、私がピカイチと思うのは、倉敷の大原邸における二つのエピソードです。
 一つは、襖絵を上下さかさまに描いてしまった話――これは日経に連載された「私の履歴書」(のち『わだばゴッホになる』題で上梓)の中で、志功本人によって次のように語られています。
志功が大原孫三郎・總一郎父子と初めて会ったのは昭和十三年、河井寛次郎に同道して大原邸を訪ねた日はちょうど總一郎が第一回の外遊から帰った記念園遊会の前日でした。茶会の席に招かれ、国宝級のお道具で茶を振舞われた志功はいたく感激し、「突然だけど、明日の客たちに見せたいので、襖絵を描いてくれませんか」という依頼に喜々として応じます。早速大広間に白無地の布の大襖六枚が敷きつめられ、志功はどっぷりと墨を含んだ大筆で飛び跳ねながら「五智如来図」(宇宙に飛来する五人の如来図)を描き、その空間に「萬里水雲長、慈航又何処」という字を入れました。
 ところが、即興にしては菩薩たちは無妙に、文字もマアマアの程に仕上がって、得意顔の志功に、横で見ていた大原美術館長の武内氏が、蒼白な顔をして低い声で、「棟方さん、これ逆さまですね」と囁いた……つまり襖の上下を逆さまに描いてしまったというわけです。これは大変、えらいことになったと志功は後悔したがあとの祭、しかしそのとき總一郎は少しもあわてず、岡山からすべての経師屋を呼び寄せて、扇風機を何台も持ち出して並べ、その夜の中に張り替えて乾かしてしまったというのです。

 もう一つは、フルチンで六曲屏風を描き上げた話――柳が「棟方と私」の中で記します。
 同じく大原孫三郎に六曲の屏風に絵を描くことを依頼されたときのこと、頃はちょうど夏だったので、志功は真っ裸になって一気に描きたくなった。ところが世話役の武内夫人(大原美術館長夫人)がおられるため、それができない。むずむずしていた志功は、堪りかねてトイレに立ちました。戻ってみると、ありがたいことに奥さんも母屋の方に一寸行かれた様子。志功はこの時とばかり、下帯も脱ぎ捨てて、ものの十分もかからぬ間に一気に描きあげたといいます。やがて奥さんは戻って来られ、もう出来上がってしまった屏風を見てあっと驚き、「まあ」と一語洩らされた。
「私はこの話を棟方から直下(じか)に聞いて、端正で謹直な奥さんと、自然人の棟方との対比も面白く、その時の光景が眼前に浮かぶ様でした。之は棟方が大作をも如何にためらわず、手早く描き上げるかの一つの挿話です」
と、柳は書いています。

 余談ながらこの一件で大原一家と近づきになった志功は特に總一郎に気に入られ、音楽好きの總一郎にべートーベンのレコードを聞かされます。
 志功本人の言葉(前書)によれば、
 「ある時、『画伯は、(と總一郎氏はわたくしをこう呼びつけていました)作曲家は誰が好きですか』と聞かれました。わたくしは何が何やら判らぬまま『ベートーベン』と答えていました。『じゃ、シンフォニーを、一から九まで全部聞きましょう』――そう言って自室で手ずからコーヒーを淹れ、一晩中かかってレコードを聞かせてくれました。
 仕舞いには、頭がゴチャゴチャになって、何がどうだか、さっぱり判らぬことになりましたが、ベートーベンの、あの畳みかけるようなザッザッザッというリズムは、わたくしの欲する版画の切り込みに通ずるものだと感慟しました。……
 昭和十四年、手元に丁度六枚の板がありまして、曲がったり端が欠けているような板でしたが、わたくしはこの表裏に釈迦十大弟子を彫ろうと決めました。しかし、十人の名前はおろか、それぞれがどういう徳律を持ち、どんな宗教上の在り方の人々なのか、ただザッザッザッと彫り進めました。わたくしのベートーベンでした。」

 なるほどそう聞けば、部厚い眼鏡が触れんばかりに板に顔を寄せて無心に彫りすすむお馴染みの映像のバックミュージック背景音楽は、ザッザッザッというリズムのベートーベンでなければならぬような気がしてきます。この言葉通り、ベートーベンに魅入られた志功は、第五交響曲を題材とした「運命頌(のちに美尼羅牟(ビニロン)頌」と改題)」、第九を題材とした「歓喜頌」、「ベートーベン椅子の柵」などの作品をものにしているのです。

 これより数年あと、長部日出雄氏の『鬼が来た』の中には、わが若き日の経験に照らして、まこと共感を誘うエピソードがあります。のちにグラフィックデザイナーとして名を成す亀倉雄策に女の裸の写真をねだるという話です。
 志功は「おれ、いま女で裸の観世音菩薩を彫りたいんだが、まだ女の裸を見だごとねえんで困ってるんだ」と亀倉に打ち明けます。「お前、絵描きのくせに、女の裸を見たことないのか」と呆れて問い返す亀倉に、志功は「うん、生まれてから一度もない」と真顔で断言するのです。戦時色が一層きびしさを加えてきたころとてモデルなんて見つからないし、たとえ見つかっても目の悪い志功には鼻をくっつけるばかりに近寄らないとよく見えない……思案のあげく亀倉は出征した友人から秘かに預かっていたその手のアルバムを見せることを思い立ちます。

 当時はカメラの性能も悪くピントがぼやけて既にセピア色に変色した写真に、志功は例の牛乳瓶の底みたいな眼鏡をすり寄せて、食い入るように見つめたといいます。亀倉に懇願して気に入った数枚の写真をアルバムから剥がしとって、志功は大事に持ち帰ります。昭和十六年秋の第四回文展に出品された『不空羂索頌・摩訶般若波羅密多心経版画鏡』がこのときの写真をもとに制作されたのではないか、と長部氏は推測しています。
(参考までに、同郷人長部氏が描いた『鬼が来た』は志功評伝の一級品のみならず、日本美術の時代史、また白樺派・民芸のサイドストーリイとしても価値ある力作です。)

 棟方志功は、私にとって、なじみの深い人でありました。私が勤めていた鉄鋼会社は倉敷市に製鉄所を持っていた関係で、月に一度は出張していました。倉敷には有名な大原美術館があり、出張の都度そこを覗くたびに志功の作品が迎えてくれました。志功ばかりではない、リーチ、富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司、芹沢げ陲覆匹量鰻欹邁箸虜酩覆眤真展示されています。創立者の大原一族と民芸とのつながりなどつゆ知らなかった当時の私は、志功の大作「大和し美し」や「釈迦十大弟子」「女人観世音」に圧倒されていました。

 いつの頃からか、私は名だたる泰西名画の逸品よりも、志功の作品を見るために大原美術館を訪ねる自分に気がつきました。志功の「板画」には、見る者をゾクゾクさせるような、ただならぬオーラがほとばしっているのでした。
 志功が制作した生涯最大の板画が倉敷国際ホテルのロビー吹き抜けの壁面に飾られていると聞いて、出張旅費では足の出るこの一流ホテルにわざわざ泊りに行ったことがあります。それは「乾坤頌―人類より神々へ」と題された(のちに「大世界の柵<坤>」と改題)もので、幅十三メートル五十センチ高さ二メートル四十センチの単色作品で、横幅が長すぎるため中央から二つに分けて上下に並べて展示されています。

 このドデカイものを、映像でおなじみの牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた志功が、顔を板にくっつけるまでに近づけて一気に彫り上げたのかと思うと、言葉を失います。就寝前のひととき人気(ひとけ)のない森閑としたロビーに出て、心なしか落とされた照明の下でこの大作を見上げながら、この観覧料込みならここの部屋代は決して高くないな、などと当時の私はセコいことを考えていたことでした。

 この印象が強烈に残っていたせいか、これより十年ものち新しい職場で行き詰っていた頃、昼休みに同僚を誘ってデパートで催された志功の展覧会に出かけたことがあります。そのとき私を癒してくれたのは大作ではなく小品、作品の名前は忘れましたが、志功独特のふっくらとした頬に紅をさした女人の柵でありました。吊り目がちのぱっちりとしたまなこの見据えている先を、私も見なければいけないと思ったものでした。
 「志功彫る冬あたたかき頬の紅」……このとき口をついて出た俳句は、私が芸術作品を詠んだ記念すべき処女句となったのです。(続く)

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 「おぞましき火に身はや焼くべき」(続き)

 秋子の夫はさておくとして、兄弟、友人たちの態度は、ひと言でいえば、《二人とも大人(おとな)なんだし死ぬ気でいるなら死なせてやろう》というものであったようです。武郎の末弟の里見に、『安城家の兄弟』という自伝的小説があり、さしずめこの中でが事件について記した顛末が参考になります。
 武郎の失踪を聞いた(文中では昌造)と足助(文中では加茂)の間に交わされる会話は、互いに女と一緒に行ったことを確信し「死ぬ気なんだろう」と推測しながらも、「どっか出かけて行った先の心当たりはないんですか」と問うに、「さしずめ僕の思い当たるのは、そんなとこ(武郎がかつて気に入っていた伊豆の土肥か名古屋の犬山城あたり)だろうなァ」と足助が答えるという能天気ぶりです。

 足助(あすけ)素一は遠友夜学校以来の武郎の親友で、のちに叢文閣を創立、武郎の個人雑誌ともいうべき「泉」を刊行して武郎の著作を一手に掲載するという間柄にありました。それゆえ波多野秋子との恋愛事件については最初から相談相手になっており、死の直前の二日間の武郎とのやりとりを克明に記したものが前掲の『淋しい事実』という一文です。
 それほどの足助が里見の筆にかかるとその程度の反応で、のほうも次兄の生馬(文中では壬之助)と探偵社を雇ったらどうかなどと頓狂な相談を交わしています。「金はどのくらい持ってたろうかしら」という生馬の鋭い指摘で通帳を調べたら、四日前に五百円が引き出されたことが判明し、この程度の金額なら「あんまり遠ッ走りはしてまいよ」という結論に達したというのに、軽井沢の別荘が思いつかないとはどういうことなのでしょう。

 そのあとは、「みんな手分けをして探しに出かけて、どっかで誰かが見つけたとしても、肝腎の当人が、どうしても帰らないって頑張ったら、一体どういうことになるんだい」と言い、足助が(さも我が意を得たように)「それァそうだ! 実際それァそうだ! 当人がいやだってものを、無理にはたからどうするわけにもいきゃァしないからなァ」と賛同を示します。生馬が秋子(文中では敏子)の親友で事情を熟知している石本男爵夫人(のちに加藤勘十と結婚し加藤静枝となった、文中では岩佐男爵夫人)に「どうかやたら捜索などしないで、安(やすら)かに二人を死なしてあげてください」と言われる場面もあります。
 結局、武郎と秋子に最も近い者たちは一様に、二人の意思にまかせるという判断を下したのでした。武郎の遺書の言葉は、この《あたたかい》配慮までをも読み切っていたことになるのでしょうか?

 余談ながら、この『安城家の兄弟』という作品は読んでいて腹立たしくなる愚作でありました。にとって文学の先輩でもある長兄武郎の情死は人生上の最大の事件であるはずにもかかわらず、兄に寄せる心情的描写ひとつとてなく、「今度の事件で曝露された文吉(武郎)の甘さ、錬(きたえ)の足りなさは、ひとり彼のみのものではなく、日比(ひごろ)親しくしていた友達仲間にもまた共通のものと知られ、昌造()は腹の底からうんざりさせられて了(しま)った」という表現のひどさは眼を疑います。『…兄弟』などという題はまったくの羊頭狗肉で、延々と綴られるのは昌造と芸者・瑛龍(えいたつ)との埒もない浮気話ばかり、読み手のほうこそ「うんざりさせられてしまう」代物なのです。

 死の直前の武郎の行動についても、時系列で追ってみると、解せないことがあります。
 武郎が家を出たのは前日の午後三時ごろのことで(『淋しい事実』)、秋子と落ち合って軽井沢に向かう汽車の中で、早々と母と三人の息子宛と弟妹宛の二通の遺書を認(したた)めます。このうち、弟妹宛の遺書には「六月八日夜汽車中にて」と記されていますから、これを書いたときは夜になっていたのでしょう。佐藤清彦氏によれば(『にっぽん心中考』)、武郎たちは上野発午後七時の急行列車に乗り、軽井沢に着いたのは十一時四十五分といいます。

 「軽井沢は雨が降っていた。有島はこうもり傘を持っていた。人力車夫が寄ってきたが、有島は傘で顔を隠し相手にしなかった。あとで、自分の行き先がすぐわかってしまうのを警戒したのである。勤め先から直行した秋子は傘を持っていなかった。駅の売店で九十銭の番傘を買い、一円札を出して『お釣りはいりません』と置き、二人は傘を並べて駅舎を出た。淨月庵まで三キロほどである。懐中電灯を頼りに雨の夜道を歩くのであるから、着いたのは、午前一時に近かっただろう。裏口の錠を壊して一階の応接室に落ち着く。濡れそぼっているはずである。」
と、佐藤氏はいかにも新聞記者らしいタッチで、状景を活写しています。

 午前一時という時刻は、武郎の遺書にも記されています。先に引用した足助宛の遺書の「恐らく私たちの死骸は腐爛して発見されるだろう」という言葉の前段は、「山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている。森厳だとか悲壮だとかいえばいえる光景だが、実際私達は戯れつつある二人の幼児に等しい。」と、あるのです。

 「最後のいとなみをしている」という表現は現在形ですが、いくら武郎でも「いとなみ」の最中に遺書を書くことはできないはずで、佐藤氏の記述が正しいとすれば、午前一時近くに別荘に入った彼らは、濡れそぼった体を拭く間も惜しんで直ちに「いとなみ」を始め、そのあとでこの遺書を認めたのでしょう。 それが午前一時のことで、武郎は続けて二通の遺書を書きます。一つはもう一人の(学生時代からの)親友・森本厚吉に宛てたもので、森本が創立者である東京文化学園には今もその遺書が所蔵されており、そこには「大正十二年六月九日午前二時」という日付時刻が記されています。

 もう一通は秋子の夫・春房宛のもので、これには日時の記録はありませんが、秋子もまた夫宛に一片の詫びの遺書を残しており、こちらには「六月九日午前一時半」という記録があります。秋子には別にもう一通、石本静枝宛の遺書があり、これは夫宛のものに較べてはるかに長文です。時刻は記されていませんが、夫宛のものよりは時間的にはあとだったようで、「書きたいことがたくさんありますけれど、もう時間がありません」という語句から察するに死の直前に書かれたとみるのが妥当です。書き終わったのは、おそらく三時に近かったことでしょう。

 当時の法医学の水準では腐爛屍体の死亡時刻を推定するのは困難だったでしょうが、おそらく自殺者の心理からみて、夜が明けぬうちに決行したことは間違いないでしょう。二人で同時に相果てるためには、首を吊るための梁やら踏み台やら紐やらを選ぶ時間も必要だったはずです。いったい二人は交接のあとの気だるくも満ち足りた、しかも人生の最後の濃密な時間を、しみじみと語り合うことなどせずに、せっせと遺書ばかり書いていたとでもいうのでしょうか。情死直前の二人の行動としては、まことに不思議な光景と言わざるを得ません。

 武郎の情死事件について、多くの研究者たちは、なぜ武郎は死なねばならなかったのか、という疑問ばかりを追及してきたように、私には思えます。この根源的な疑問は、所詮、解けるものではありません。
 芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成から江藤淳に至るまで、文学者の自死・情死は珍しくもない現象ですが、それぞれ当事者でなければわからない必然的な理由に基いています。自殺しようと思うものは、死んだほうがいいという理由ばかりを考えているのに反して、自殺しようなど思ったことのない人は、生きているほうがいいという理由ばかりを並べてみせるのですから、両者の間には高くて越えることのできない《 バカの壁 》が聳えています。自殺者の心理は生存者にわかるはずはないのです。

 武郎と秋子は情死するべくして情死した……私は、それでいいと思っています。
 さはあれど、武郎ともあろう人が、なぜこんな死に方を選んだのか、が私には納得できないでいるのです。しかし、それも武郎でなければわからないことで、あれこれ穿鑿せずにそっとしておいてあげるのが供養というものかもしれません。(完)

有島武郎の章の弐

 「おぞましき火に身はや焼くべき」


 「世の常の我が恋ならばかくばかりおぞましき火に身はや焼くべき」
 これは有島武郎の辞世の歌、自宅の書斎に残されていた歌稿のはじめの一首といわれます。武郎の情死屍体が発見されたのは大正十二年の七月七日、関東大震災直前の最大の社会事件として満天下の耳目を驚かせました。知性派の美男人気作家と美人雑誌記者との道行きは、それだけでも話題にこと欠かなかったことでしょう。

 『曽根崎心中』を初めとして、近松門左衛門が好んで作品の主題に採り上げて以来、道ならぬ恋の果てに共に死を選ぶ男女は、どこか庶民の憧れになった感があります。有名な天城山心中があったのは私の大学入学の年(昭和三十二年)でしたが、愛新覚羅慧生さんのような高貴な女性が一緒に死んでくれるなんて、同い年でありながら大久保武道という学習院大生は何という幸せ者かと思った記憶があります。

 因みに「心中」とは本来「相愛の男女がいっしょに自殺すること」を言いますが、のちに転じて、「親子心中」のように「二人以上のものがともに死を遂げること」も含めるようになったため、本来の意味での「心中」は「情死」と呼ばれて区別されるようになったようです(『広辞苑』)。余分なことではありますが、ヨーロッパ諸国にはこのように一語で現わす単語は存在せず、「愛し合うもの同士の二重自殺」とか「合意による自殺」とかの表現がとられ、「このこと一つとってみても、日本人が西洋人よりもこの悲劇的現象を知悉しており、また、はるかに平静に対処していることは明らかだろう」などという評価もなされています(ロシア人文芸評論家・グリゴーリイ・チハルチシヴィリ『自殺の文学史』)。

 実(げ)に、不確かで移ろい行く愛を永遠につなぎとめるためには情死が最良の手段でありましょう。武郎も弟妹宛の遺書の中で「私達は最も歓喜して死を迎えるのです」と記しています。一緒に死んでくれるものがいれば死は決してこわくない、それが愛するものであれば死はよろこびにすらなるのです。
 しかし、死亡の現場は美しいものではありません。発見が遅れれば死体は腐爛します。武郎と波多野秋子の遺体は死亡して一か月近くも発見されず、梅雨時の軽井沢とあって人相も分らぬほど腐爛しきって、天井からぶら下がった二本の縊死体の上を、蛆の滝が流れているようだったといわれます。

 一九九五年から翌九六年にかけて日経新聞に連載され、その濃密な性愛描写で話題を呼んだ渡辺淳一氏の『失楽園』は、この武郎情死事件と昭和十一年に起こった阿部定事件とを下敷きにしたものです。主人公の凛子は、愛する相手を殺すことによって独り占めしようとした阿部定の心情に強く惹かれて、妻子ある久木との情死を思うようになり、軽井沢の逢瀬の折に二人で武郎終焉の地を訪ねます。凛子は「いくら二人で一緒でも、首を吊るなんていやだわ」とつぶやき、「でも、どうして二人は死んだのかなあ」「別に死ななければならない理由は、なかったのでしょう」と久木に尋ねます。久木は武郎の遺書を引用して、二人は幸せの頂点にいたのでそれをいつまでも続けたいと思ったのかもしれない、と答えます。「そういうときは…死ぬしかないのね」と凛子は闇に向かって一人うなずくのです。

 その夜、久木の会社の別荘ではげしく媾合(まぐあ)った二人は、「こうして、しっかり抱き合ったままなら死ねるかもしれない」と気づき、それから久木はそのための手段に没頭し、友人から盗んだ青酸カリを葡萄酒に溶かせて性交の間に服用することによって思いを遂げます。
 同じ情死するのなら交わったまま死なせてやりたい、というのはまことに渡辺氏らしい発想で、私ならずともこれは男の夢といってもいいでしょう。考えてみれば、古今東西、こういう形の情死を試みたものがいないというのも不思議な話です。

 ところで、美しいうちに死にたいと願った凛子が一番怖れたのは、武郎のように蛆がわくまで発見されないでいることでした。それゆえ凛子は、一刻も早く発見してほしいと思い、翌日に別荘番に薪を届けてもらうように頼みます。これは武郎たちの遺体の第一発見者がやはり別荘の管理人であったことからの発想でしょう。
 この条(くだり)を読んだとき、穿鑿好きな私の頭の中に大いなる疑問が頭をもたげました。
 武郎はなぜ凛子と同じように早く発見されることを望まなかったのか? それどころか、あのダンディな武郎が、死の直前に親友足助素一に宛てた遺書には、「恐らく私たちの死骸は腐爛して発見されるだろう」と書き残しているのです。

 軽井沢というところは、夏は霧が名物で湿度が高く、ほんとうは避暑地などには向いてない土地柄だという人がいます。特に、標高の低い、いわゆる旧軽井沢と称せられる高級別荘地帯では、一週間も家を空けるとたちまち畳の上にまでカビが生えてくる、という話をかつて地元のタクシー運転手から聞かされたことがあります。それゆえ毎日空気の入れ替えを司る別荘番が必要で、戸別に雇う余裕のない家は管理人が随時巡回して換気をしてもらわなければなりません。武郎が情死の場所に選んだ「淨月庵」は自分の別荘で、武郎ほどの資産家であれば当然別荘番は置いていたはずでした。

 巌谷大四の『物語大正文壇史』には、「二人は別荘番の老爺にも告げず、…中に入った。……一ヵ月たった七月七日の朝、別荘番の老爺が、そろそろ主人が避暑に来る日が近くなったと思い、別荘の掃除にやって来た。見ると裏の入口に男と女の下駄がぬぎ捨ててあった。「おや?」と思い、そっと階下の応接間をのぞいて見て仰天した。」と記されています。
 まるで見てきたような書きっぷりですが、巌谷は著名な編集者かつ文芸評論家で、彼の著した多数の回想記、交遊録、作家論は貴重な証言と評価されていますから、おそらくは確かな伝聞に基いて書かれたことでしょう。巌谷によれば、たしかに別荘番はいたわけで、この老爺が梅雨のさ中の別荘を一か月近くも換気をしに来なかったとすれば、全くの怠慢といわざるを得ません。

 老爺の怠慢ぶりまで計算に入れて、武郎は「恐らく腐爛して発見されるだろう(すなわち、当分は発見されないだろう)」という遺書の言葉を残したというのでしょうか?
 管理人ばかりではない、追手に見つかる可能性も大きかったはずです。足助の証言(『淋しい事実』)によると、武郎は着物姿で小風呂敷一つを持った軽装で家を出たといいますから、そのまま秋子と共に行方知れずになった武郎を本気で捜す気であれば、関係者は真っ先に別荘に眼をつけてしかるべきでしょう。
 七年前の夏に妻安子が亡くなったとき、武郎は「淨月庵」に避暑にやっていた三人の息子たちに妻の死を告げに行ったという記述がありますから(佐渡谷重信『評伝 有島武郎』)、武郎がこの別荘を何度も利用していたのは兄弟、友人たちにとっては周知のことだったはずでした。
 秋子の夫・波多野春房にしてみても、二人に情死などされると、コキュの汚名はついてまわるし恐喝していた一万円は取れないしで踏んだり蹴ったりになってしまいます。秋子を夜通し責め立てて催眠術までかけて白状させた春房は、かねて秋子の言動に疑いを抱いて部下に見張らせていたともいわれます(前出『評伝 有島武郎』)。俺は商人だと自称する春房がその気になれば、易々と「淨月庵」が浮かんだはずでした。

 しかし現実は、関係者は誰も別荘を捜してみようなどとは思わなかった。武郎はこのことも織り込み済みだったとでもいうのでしょうか? とまれその結果は、管理人も立ち寄らず関係者にも見つからぬまま、武郎の予言どおりに、二人の死骸は腐爛して発見されたのでした。(続く)

 「たけおさん」(続き)

 志賀には、『沓掛にて』という短編があります。「芥川君のこと」と副題があるように、芥川龍之介が自殺した直後に書かれた回想記ですが、この中にも注目すべき一節があります。
 「芥川君は三年間私が全く小説を書かなかった時代の事を切(しき)りに聞きたがった。そして自身そういう時期に来ているらしい口吻で、自分は小説など書ける人間ではないのだ、というような事を云っていた。
 私はそれは誰にでも来る事ゆえ、一々真に受けなくてもいいだろう、冬眠しているような気持で一年でも二年でも書かずにいたらどうです、と云った。私の経験からいえば、それで再び書くようになったと云うと、芥川君は『そういう結構な御身分ではないから』と云った。」

 そう云われて、自分が「結構な御身分」であることに全く気づきもしないところが志賀の志賀たるゆえんで、
 「私の答えは芥川君を満足させたかどうか分らない。後で思った事だが、私のように小説を書く以外全く才能のない人間は行きづまっても何時かは又小説へ還るより仕方ないが、芥川君のような人は創作で行きづまると研究とか考証とかいう方面に外(そ)れて行くのではないかと。然し今にして見れば芥川君は矢張りそうはなり切れなかった人かも知れない。」
などと、ひとりよがりの反応を記しているのです。

 このひとりよがりで他人の感情を顧みない志賀の特質は、志賀直哉の章でも散々触れたことですが、武郎に対しては、次のように表現されます。
 「(Tさんは)親孝行な性質からモノメニアックな父の心を撹乱するのは忍びないらしかった。私からすれば年も五つ程上で、私程には考えられないのかも知れないが、それが当時では異様に思われた。」(前出『過去』)
 異様なのはあくまでも武郎のほうで、自分のほうが異様だという感覚はないのです。

 ところで、『沓掛にて』の終わり近くには、芥川の死にこと寄せて、武郎の自殺を知ったときの志賀の感想が記されています。
 「私は芥川君の死を七月二十五日の朝、信州篠の井から沓掛へ来る途中で知った。それは思いがけない事には違いないが、四年前武郎さんの自殺を聞いた時とは余程異なった気分だった。乃木大将の時も、武郎さんの時も、一番先に来た感情は腹立たしさだったが、芥川君の場合では何故か『仕方ない事だった』と云うような気持ちがした。」

 「乃木大将の時」は、志賀は日記に先ず「馬鹿な奴だ」と書き、それが「下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた」と書き継いだのでした。
 武郎の自殺を聞いた時の志賀の日記は公表されていませんが、乃木大将の時と同じ腹立たしさを感じたというのなら、武郎の死もまた「下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じよう」に感じたことになります。
 これがあれほど世話になった武郎への感情であるというのなら、志賀直哉という人はよほど寒々とした人格を持った人であったのでしょう。(完)

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