葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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 ローマ字日記(続き)

 啄木は、得意げに、性の描写を続けます。たとえば娼婦を買う話は、先の四月十日に続いて四月二十六日、五月一日、六月一日と、三回も出てきます。三回どころではない、四月十日の項には冒頭に引用した個所の前に、こんな記述があります。
 「いくらかの金のある時、予は何のためろうことなく、かの、みだらな声に満ちた、狭い、きたない町に行った。予は去年の秋から今までに、およそ十三、四回も行った。そして十人ばかりの淫売婦を買った。ミツ、マサ、キヨ、ミネ、ツユ、ハナ、アキ…名を忘れたのもある。予の求めたのは暖かい、柔らかい、真っ白な身体だ。身体も心もとろけるような楽しみだ。」

 この記述に基づいて、岩城之徳氏の労作『伝記的年譜』(『石川啄木全集第八巻』)を繰ってみると、『鳥影』の新聞連載が始まったのが明治四十一年十一月一日からで、「いくらかの金のあるとき」が「去年の秋から」というのに一致します。連載は年末で終って、翌年一月から啄木は発行名義人として月間文芸雑誌「スバル」の創刊に携わりますし、朝日の校正係として出社するのはこの年(明治四十二年)の三月一日ですから、「いくらかの金のあるとき」は「今まで」細々ながら続いていたことになります。(余計なことですが、「十三、四回も行っ」て「十人ばかりの淫売婦を買った」というのは、三、四人は俗にいう《裏を返した》わけで、冒頭の「女」マサもその一人です。)

 ところで、この期間当用日記に日本語で書かれたそれらしき記載は、十三、四回も見出せません。年初から四月までは二月八日、三月十日、三月十四日、四月六日(ローマ字文)の四回で、それも「二人とも酔っていた、そしてとんだ宿屋へ泊ってしまった」、「あゝ、浅草に行った」、「塔下苑(娼窟のこと)をどこということもなく歩いた、そして三軒許り入って茶を飲んで出た」、「塔下苑を犬のごとくうろつき廻った」とか、短い文章で且つ婉曲的に書かれています。

 これがローマ字日記になると、一転して文章は長くなり直截的になります。四月十日は見てのとおり、四月二十六日は「予は二円出した。そして隣室に行っておえんという女と五分間ばかり寝た」と具体的な数字が出現し、五月一日に至っては、「花子は予よりも先に来ていて、予が上がるやいなや、いきなり予に抱きついた」から始まって女との会話をひとしきり続けた上で、「今夜のように眼も細くなるようなうっとりとした縹渺とした気持のしたことはない。…ただうっとりとして女の肌の暖かさに自分の身体まであったまってくるように覚えた。そしてまた、近頃はいたずらに不愉快の感を残すに過ぎぬ交接が、この晩は二度とも快くのみ過ぎた」と、とても日本語では書けないようなことまで、あからさまに書き記しているのです。

 「何千人にかきまわされたその陰部には、もう筋肉の収縮作用がなくなっている。緩んでいる。ここにはただ排泄作用の行なわれるばかりだ」(四月八日)と悪口を言いながら娼婦買いが止まらないのは、啄木の尋常ならざる性欲の強さを物語っています。啄木はこの年二十四歳、男にとって性欲のもっとも激しい年齢ですが、私は俗にいう「結核患者は性欲が強い」せいではないかと睨んでいます。現に、五月十四日の項には、「二度ばかり口の中からおびただしく血が出た」と喀血の事実が記されているのです。

 この時期啄木は、娼婦買いなどしていられない環境にありました。宮崎郁雨の厚意にすがって函館に残してきた母と妻子を一刻も早く引き取る責任があったのです。
 一年前(明治四十一年三月末)に釧路新聞の編集長格の職を棄てて上京したのは、「文学的運命を極度まで試験する決心」(向井永太郎宛書簡)に基づくもので、啄木はいわば生活より文学を選択したのでした。上京して金田一京助の下宿先・赤心館に同宿させてもらうことになった啄木は、「何かしら力に充ちた若き日の呼吸が、刻一刻に再たび帰って来る様な」創作意欲と、「夏目の《虞美人草》なら一ケ月で書ける」(明治四十一年五月八日付当用日記)という非常な自信を持っていました。

 しかし啄木の意図に反して、中央の風は冷たいものでした。意欲と自信とをもって、宣言どおりの一ケ月間、立て続けに書き上げた五篇の小説は悉く掲載を断られ、ようやく『鳥影』が友人の厚意で「東京毎日新聞」に連載されますがそれも僅か二か月間のことでした。金田一京助に頼りっきりの生活もいよいよ困窮し、「東京朝日新聞」の編集長をしていた同郷の佐藤北江を頼って校正係に採用してもらったのは、上京後十一か月も経ってのことでありました。

 校正係とはいえ、困窮の果てに定職を、それも大朝日に職を得たことは啄木にとってたいへんな喜びで、佐藤北江から内定の手紙をもらった夜、北原白秋のもとへかけつけて黒ビールで祝盃をあげ、その日の日記に「これで予の東京生活の基礎が出来た! 暗き十ケ月の後の今夜のビールはうまかった。」と記します。森鷗外にも手紙を書き、「これにてまづまづ最低程度の基礎出来候訳なれば、旅費その他の苦面のつき次第函館なる家族を呼び寄せ東京に永住の方針をとりたくと存じ目下は愈々その事にのみ焦慮仕居候。」と決心をしたためます。

 この殊勝な決心が長続きしないのが啄木らしいところで、啄木は朝日に出社して早や十日目に、採用してくれた恩人の佐藤にぬけぬけと下宿代の前借を申し込んでいます。あろうことか、佐藤が貸してくれた二十五円のうち二十円だけ下宿屋へ払い、残る五円を持って啄木は雨の中を浅草へ女買いに出かけるのです(三月十日付当用日記)。

 前借した金で女を買うのは先に引用したローマ字日記の五月一日の項でも同様で、この日も首尾よく借りた二十五円を、質屋から時計を請け出すと宿への払いが足りなくなり、宿へ払うと時計が請け出せなくなると悩んだ末に、乗った電車が偶々浅草行きだったので、「行くな! 行くな!」と思いながらも足は娼窟に向かったという記述があります。

 一方で、ローマ字日記には、母と妻、妹に寄せる切々たる思いが記されてもいます。
 四月十三日の項の「なんにちごろよびくださるか?」という母の平仮名づくしの手紙に涙する描写や、十五日の項の他の女と寝ても節子を愛してるという強弁や、十八日の項の妹に対する同情などは、読んでいて思わず目頭がうるみます。
 この優しい心根と娼窟通いとの甚だしい落差をもって、啄木を破滅的人間、あるいは性格破綻者などと、私は決めつけたくはありません。人は誰でも二面性を有しているものなのです。

 ローマ字という表現形式によって、啄木が精神的倫理的、また社会的抑圧から逃れ得たという桑原氏の指摘は、この限りにおいてまことに当を得ています。啄木は、まさにローマ字をもって己の中に在る二面性を赤裸々に吐露してみせたのでした。
 ローマ字日記は、性懲りもなくまた社から前借した二十五円で、「何とかいう若い子供らしい女と寝た」後、「いつか行って寝た」花という女と寝て、「なぜかこの女と寝ると楽しい」と記した六月一日の項で突然終ります。
宮崎郁雨が連れてきてくれた母と妻子を上野駅に迎えたのは六月十六日のことで、啄木にとってもっとも重要な出来事であるはずの一家の再会は、「二十日間」という項に、
「記者は一時間遅れて着いた。友、母、妻、子………俥で新しい家に着いた。」
と、素っ気なくたったの二行で述べられています。(完)

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石川啄木の章の四

 ローマ字日記

 「女は間もなく眠った。予の心はたまらなくイライラして、どうしても眠れない。予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部をかきまわした。しまいには五本の指を入れでできるだけ強く押した。女はそれでも眼を覚まさぬ。おそらくもう陰部については何の感覚もないくらい、男に慣れてしまっているのだ。何千人の男と寝た女! 予はますますイライラしてきた。そして一層強く手を入れた。ついに手は手くびまで入った。『ウーウ、』と言って女はその時眼を覚ました。そしていきなり予に抱きついた。『アーアーア、うれしい!もっと、もっと―もっと、アーアーア!』十八にしてすでに普通の刺激ではなんの面白味も感じなくなっている女! 予はその手を女の顔にぬたくってやった。そして、両手なり、足なりを入れてその陰部を裂いてやりたく思った。」

 原文はすべてローマ字というものの、あの啄木がこんなポルノまがいの文章を書いていたことは、私にとって、まさに衝撃の一語でありました。幻滅したのではない……むしろ、啄木もやはり一介の男子(おのこ)であったことを知って、より一層の親近感をおぼえたのです。
 書かれた時期は明治四十二年四月十日、かの有名なローマ字日記の中の一節で、昭和五十三年発行の筑摩書房『石川啄木全集第六巻』において初めて、日本語訳文の伏せ字がなくなったというほどのドギツイ表現です。
 啄木がローマ字で日記を書いたのは明治四十二年四月三日から六月十六日までの七十五日間で、東京朝日新聞社に校正係として就職を果たしたものの、年来の借財のため函館に残した家族を引き取る準備が出来ず、自虐的な生活を送っていたころのことでありました。

 ローマ字で書く理由については、周知の一節が四月七日の日記にあります(以下、原文はすべてローマ字です)。
 「そんならなぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ――しかしこれはうそだ! 愛してるのも事実、読ませたくないのも事実だが、この二つは必ずしも関係していない。
そんなら予は弱者か? 否、つまりこれば夫婦関係という間違った制度があるために起こるのだ。夫婦! なんという馬鹿な制度だろう! そんならどうすればよいか? 悲しいことだ!」
 妻に読ませたくないからというものの、「妻節子は、啄木の恋人だった少女時代に、外国人から英語を習っていると手紙で啄木に知らせたことがあり、そのさい啄木は英語の本を買って彼女に送ってもいることから知られるように、ローマ字が読めないという女性ではない」という小田切秀雄氏の説(前出『全集』解説)もあります。

 因みに、ローマ字で書かれた日記文は四月三日が最初で、縦書きの当用日記の中に唐突に現れ六日まで続きます。七日からは横罫の西洋ノートに「NIKKI(機法。唯釘稗庁鼻。苅横裡釘痢廚搬蠅気譴峠颪れ、正確にはこれがいわゆる啄木の「ローマ字日記」と呼ばれるものです。ノートは背革黒クロース製、四百六十二頁もある立派なもので、うち二百三十頁にわたって記載されているといわれます。

 たかがローマ字で日記を書く理由を、夫婦制度まで持ち出してもったいつけているのは、啄木らしい韜晦(とうかい)というものでしょう。このくだりをもって、「家」の観念の脱出とか、家庭生活の虚無的な否認とかに結びつけたがるのは評論家先生方の悪い癖で、私は単純に、啄木は気まぐれにローマ字で書いてみたら面白くなって、縦書きの当用日記には書きづらいので本格的に書くための西洋ノートを用意したのだと思っています。というのも、先に引用した四月七日のローマ字で書く動機を述べた一節の前に、財布の中に一枚だけ残った五円紙幣を眺めながら、「仕様ことなしに、ローマ字の表などを作ってみた」という言葉があるからです。

 一旦ローマ字で書き出してみると、啄木はにわかに饒舌になります。たとえば当用日記では、長いものでも一頁二段組の『全集』の一段(半頁)ですが、ローマ字日記になると六頁半、十三段の長さ(原文のローマ字では実に八頁)のものがあります。これだけの分量をローマ字で書くというのは、たいへんな労力だと思われるのですが、啄木は、まるで籠から出た小鳥のように、嬉々として囀りつづけるのです。
 このきわだった変化に注目した評論家の先生方は、ローマ字という表現に目覚めた啄木は「自由世界」をつくりあげた、と評します。

 桑原武夫氏は、ローマ字という新しい表記法をとることによって、(一)精神的倫理的抑圧から、(二)日本文学の伝統的抑圧から、(三)それら二つを含めて社会的な抑圧から啄木は逃れ得て、一つの自由世界をつくったといい(『全集第八巻(啄木研究)』)、小田切英雄氏はこの論にまったく賛成と述べます(同『第六巻(解説)』)。岩城之徳氏もまた「ローマ字という特別の表記法によって、従来の文学者のなしえなかった一つの自由世界を作りあげている」と、判で押したように同一の表現をとっています(同『第六巻(解説)』)。
 桑原氏は四月九日の「智恵子さん! なんといい名前だろう! あのしとやかな、そして軽ろやかな、いかにも若い女らしい歩きぶり! さわやかな声!」というところを引き、ローマ字でなければこのように甘美で率直な文体は書き得なかった、と記しています。

 甘美で率直な文体というよりは、私はこの時代にこれほどの口語体で書かれたことに驚いています。この時期、教育勅語をはじめとして官や軍の公文書、法令などはみな文語体でした。文学作品においても小説類はようやく口語体になったものの詩歌はまだ文語体の花盛りで、同じ年(明治四十二年)に刊行された啄木と親交のあった北原白秋の詩集『邪宗門』も、自序、作品ともに文語体で書かれていました。
 このような時勢下にあって、ローマ字で書かれた啄木の文体は、それまでの日本語日記に較べていっそう徹底した話し言葉……「予」を「俺」にでも変えれば、そのまま現代の若者がブログに綴るような文章になっているのです。

 余談ながら、ローマ字日記の中で多用されるダッシュや感嘆符は、章の三で述べたように、第二歌集『悲しき玩具』の作品に採用されていったのでしょう。
 しかし、評論家各氏の評はあまりにもきれいごと過ぎて、啄木のかくもポルノチックなどぎつい描写に言及せず、むしろ避けているように思えます。自由世界をつくり上げたというのなら、桑原氏は真っ先に、この大らかな、いかにも啄木らしい性の謳歌を採り上げるべきでした。(続く)

 本歌取り(続き)

 疑問をふくらませている私がたどりついた結論は、「本歌取り(ほんかどり)」という我が国特有の技法でありました。
 本歌取りとは「和歌・連歌などで、意識的に先人の作の用語・語句などを取り入れて作ること」(『広辞苑』)、もしくは「歌学用語。古歌の一句または二句を自作にとり入れ,表現効果の重層化を意図する修辞法」(『平凡社大百科事典』)で、とられた古歌を本歌(もとうた)といい、長い歴史のうちで自然に成長してきた技巧であるとされます。

 「新古今集」の撰者としても有名な歌人・藤原定家は、歌論『毎月抄』の中で本歌取りの技法を詳しく述べ、
 「春の歌は秋・冬に詠み変え、恋の歌は雑歌や四季歌などにして、しかもその本歌はあれだな、とわかるように詠むのがいい。本歌のことばをあまり多く取ることはせず、肝(きも)となる句を取るのは二つくらいにしておいて、それを今作ろうとしている歌の上下句に分けて置くのがいい」
とした上で、
 「たとえば、《夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて》(古今集巻十一・恋四八四 よみ人しらず)という歌を取ってくるのであれば、(雲のはたて)と(物思ふ)という句をとって上下句に置いて、恋の歌ではない歌に詠み替えればいいのだ」
などと、至れり尽せりの指導をしています(現代文訳)。
 要するに、「モトネタがちゃんとわかるように」「モトネタそのままではなく、独自のアレンジを加える」のがミソだと言っているわけで、むしろ本歌取りされたほうが名誉だと思えとでもいうような書きぶりなのです。

 本歌取りはなにも和歌の世界に限らない。かの蕪村の有名句
  菜の花や月は東に日は西に
は、明らかに万葉集の柿本人麻呂の名歌
  東(ひんがし)の野にかぎろいの立つ見えてかえり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
の本歌取りです。この本歌(もとうた)は、そこからさらに、高野辰之の小学唱歌「朧月夜」、
  菜の花畠に/入り日薄れ/見渡す山の端/霞ふかし。
  春風そよふく/空を見れば/夕月かかりて/におい淡し。
へ取られていくのです。

 おそらく朔太郎は啄木の本歌取りをしたのでしょう。同じ本歌取りでも、迢空が「停車場」「人ごみ」「なつかし」と三つも肝となる句を取ったのに、朔太郎は定家理論を守って「新しい背広」「旅」の二句しか取らなかった。それゆえ迢空は啄木の影響を受けたことを告白しなければいけなかったが、朔太郎は本歌をあかさずに済んだ。白秋もそう思ったから、採用したに違いないのです。

 啄木がもし生きていて朔太郎の「旅上」を目にしたら、どういう反応をしたでしょうか?
 盗作呼ばわりをしたでしょうか? それとも本歌取りをされて名誉なことだと思ったでしょうか? 答は明らかに後者でありましょう。なんとなれば、啄木もまた本歌取りをしていたのですから。
 前掲岩城之徳氏の「啄木歌集全歌評釈」によれば、啄木の
  愁ひ来て/丘にのぼれば/名も知らぬ鳥啄(ついば)めり赤き茨(ばら)の実
の一首は、蕪村の
  愁ひつつ岡にのぼれば花いばら
の句を「摂取して作られたものであろう」と言い、また白秋の詩「断章」
  見るとなく涙ながれぬ/かの小鳥/在ればまた来て/茨のなかの紅き実を啄み去るを。/あはれまた、/啄み去るを。
の「影響も感じられる」と言われます。

 朔太郎は啄木を盗作したのではないか? と疑うことから出発した私の「?(はてな)」の旅も、どうやら終着駅にたどり着いたようです。
 ちょっぴり不満なのは、和田氏も杉山氏も岩城氏も、名だたる啄木研究家の方々が、いずれも本歌取りという言葉を使っておられないことでした。「啄木の影を見る」(和田氏)とか、「啄木を真似たんじゃないか」(杉山氏)とか、「摂取して作られたものであろう」(岩城氏)とか回りくどい表現ではなく、古来用いられた本歌取りという歌学用語で解説してくれたら、私の旅はよほど早く終着駅に着けたものを、と思ってしまいます。
 私の好奇心は取り敢えず満たされましたが、それにしても、「本歌取り」とは、なんともいき粋で大らかで風流で、一方では著作権を無視した危険で恥知らずな技法ではありませんか。

 余談ながら、「砂山の砂を指で掘ってたら/真っ赤に錆びたジャックナイフが出てきたよ」で始まる石原裕次郎のヒット曲「錆びたナイフ」(兄・石原慎太郎作詞)は、
  いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて掘りてありしに
の啄木歌の明らかな本歌取りであることにお気づきでしょうか。(完)

石川啄木の章の参

 本歌取り

 啄木歌集を再読していちばん驚いたのは、『一握の砂』にある、
  あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思ひ過ぎたる
という歌に出会ったことでした。
 この歌から容易に連想されるのは、
  ふらんすに行きたしと思へども/ふらんすはあまりにも遠し/せめてはあたらしき背広をきて/きままなる旅にいでてみん
ではじまる、かの萩原朔太郎の有名な「旅上」という詩でありましょう。

 啄木は思っただけで旅へ出なかった、朔太郎はふらんすは遠すぎてあきらめたけれど一人で旅へ出た……二人の違いは、父親の失職により家族を食べさせなければならなかった啄木と、開業医の父親に食わせてもらっていた朔太郎との経済事情の差なのでしょうが、あたらしき背広を着て旅に出たいという発想はおそろしく酷似しています。

 これはあきらかに剽窃(ひょうせつ)、朔太郎の盗作ではないか? と思って調べてみたら、私と同じように疑いを抱いた先人の文章が見つかりました。
 「それにしても、啄木は、短歌においても詩においても、多くの人びとに、有形無形の影響を及ぼしたものである。模倣と独創を見分けるのはむずかしい。要は、それが真にその人の個性から発したものであるかどうかが重要である。

 朔太郎がその詩集の題名を『月に吠える』とつけたとき、頭のどこかに啄木の《わが泣くを少女等きかば/病犬(やまいぬ)の/月の吠ゆるに似たりといふらむ》という歌がなかったであろうか。また、朔太郎の「旅上」という詩、《ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し/せめては新しき背広をきて/きままなる旅にいでてみん》に、啄木の《あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思ひ過ぎたる》の影を見ようとするのは無茶だろうか。」(石川啄木全集第八巻「折口信夫における啄木短歌の位置」和田利夫 昭和四九年八月「日本文学」所載)

 和田氏は控え目に書いておられますが、平成八年四月「96啄木の集い」で講演された詩人杉山平一氏になると、明らかにそうだといいたげな表現になります。
 「朔太郎も啄木を真似たんじゃないかと思うんです。啄木の詩というものが朔太郎の中へ入ってしまっていて、何かの時にそれが自分の声として出てくる。朔太郎の有名な詩集は『月に吠える』というのからして、啄木の《わが泣くを少女等きかば/病犬の/月に吠ゆるに似たりといふらむ》というのから出ているのは明らかでありまして。朔太郎は気が付かなかったのかもしりません。そんなこと書いていませんし。……またこれも有名ですが、朔太郎の《ふらんすに行きたしと思へども/ふらんすはあまりにも遠し/せめてはあたらしき背広をきて/きままなる旅にいでてみん》という『旅上』という詩。これは明らかに《あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思ひ過ぎたる》です。(あたらしき背広)という着想、これが朔太郎なんかの頭の中に入っていて、ふっと出てきているんだと思う。朔太郎は音が頭の中に(ひびき)として巣食ってしまう人でしたから。」(啄木文庫二十七号)

 啄木研究家の岩城之徳氏も、『月に吠ゆる』の題名については、朔太郎自身がその詩集の序に「疾患する犬の心…」と記して月に吠ゆる犬が病犬であることを示していることから見ても、啄木の歌の影響下でこの書名がつけられたと考えてよい、と述べています(「啄木歌集全歌評釈」)。事実、詩集中「見しらぬ犬」と題された一篇は、己の姿を後足をひきずっている病気の犬が月に向って吠えるさまに喩えています。

 和田・杉山両氏の指摘にはありませんが、私は朔太郎「利根川のほとり」の冒頭句、
  きのふまた身を投げんと思ひて/利根川のほとりをさまよひしが/水の流れはやくして/わがなげきせきとむるすべもなければ/おめおめと生きながらへて/今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ
もまた啄木の、
  大といふ字を百あまり/砂に書き/死ぬことをやめて帰り来たれり
という歌に、水辺で死を思う詩想がそっくりだと思っています。

 これほどまでの類似点がありながら、朔太郎自身は啄木の影響を受けたというようなことはひと言も語っていません。日本図書センター刊行の『作家の自伝』は六十巻もの好シリーズですが、第四十七巻「萩原朔太郎」には啄木の名は全く出てきませんでした。
 啄木と朔太郎は同じ明治十九年生まれ、啄木のほうが八か月ばかりの年長です。朔太郎が詩壇にデビューしたのは啄木の死後でありました。啄木は明治四十五年四月に夭折しますが、朔太郎の「旅上」(原題は「五月」)ほか五篇の詩が北原白秋の詩誌「朱欒(ザンボア)」に掲載されたのは大正二年五月のことです。

 朔太郎が啄木を知らなかったはずはありません。
 詩人としても先輩にあたる啄木は、十八歳にして(明治三十六年)『明星』に「愁調」と題する五篇の長詩を発表して注目を集め、二十歳で上田敏の序詩と与謝野鉄幹の跋文が付された処女詩集『あこがれ』を刊行しています。
 歌人としての啄木も、「朝日歌壇 選者石川啄木の一欄を設け、投稿を募る」という東京朝日新聞の社告(明治四十三年九月八日付)は朔太郎も当然目にしているはずで、その三か月後に出版された『一握の砂』は同時代の歌人たちに高く評価されているのです。

 たとえば友人としてただ一人啄木の最後を看取った若山牧水(明治十八年八月生)は、
 「まるで天の一角をかすめて何処ともなく飛び去る星のような、または落ちつく先を知らぬ一個の人間のたましいの瞳のような、見ていて自分の心まで吸い取られてゆくような歌が多い。」(石川啄木全集第八巻「石川啄木君の歌」)
と六十数首もの啄木歌を挙げて礼讃していますし、釈迢空こと折口信夫(明治二十年二月生)は、
 「啄木の影響は、考へて見ると、非常なものであった。形の上ではさもない様に見えるか知らぬが、私自身の発想法に翻訳して表して居たのである。」(歌集『海やまのあひだ』の後書「この集のすゑに」)
と、素直に啄木から大きな影響を受けたことを認めています。

 迢空は、『一握の砂』が出版されると逸早く求めて、寸評を書入れながらぼろぼろになるまで熟読し、歌集本文二頁目の空欄には「啄木を悼む歌」四首が書きつけてあったといいます。
 迢空の歌には、作者を伏せれば啄木の歌として見逃されてしまうような歌が数首ありますが、きわめつけは、昭和五年一月に上梓された『春のことぶれ』の中の啄木の三行書きを発展させた四句詩形、
  停車場の人ごみを来て、/なつかしさ。/ひそかに/茶など飲みて 戻らむ
という歌でありましょう。ここでは、啄木のかの名歌、
  ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく
と、「停車場」「人ごみ」「なつかし」までが同一の類似歌を詠んでいるのです。(前出「折口信夫における啄木短歌の位置」和田利夫)

 歌人ばかりではない、芥川龍之介(明治二十五年三月生)も啄木を評価した上で、斎藤茂吉のことを 「十何年か前に石川啄木の残して行った仕事を……今もなほ着々と完成してゐる」と述べて、啄木の後継者視しています。(「文芸的な、余りに文芸的な」「詩歌」の項)
 朔太郎は大正十四年に田端に住んでいたころ、近くに住む室生犀星や芥川との《親しい交情に飽満し》、《常に幸福を感じていた》と自ら記しています(「移住日記」)から、或は啄木が話題にのぼったかもしれません。

 しかし、迢空ほど可愛くない朔太郎は(私の知る限り)啄木について一切言及していないのです。 たとえ朔太郎が言わないにしても、「旅上」を掲載した「ザンボア朱欒」の主幹である北原白秋が、啄木歌とのこれほどの類似性を指摘しなかったというのは、私には不思議でなりません。白秋(明治十八年一月生)が一歳下の啄木と親交があったことは、
  ひさしぶりに公園に来て/友に会ひ/堅く手握り口疾(くちど)に語る
と、『一握の砂』にも歌われています。この「公園」が浅草のルナアパーク園庭で「友」が白秋であったことは、白秋自身の言葉で語られているのです(前出岩城之徳「啄木歌集全歌評釈」)。

 親交ある白秋が「新しき背広など着て…」の啄木歌を知らなかったはずはない……とすれば、白秋は啄木歌との類似性に沈黙して朔太郎の詩を採用したことになります。
 それはなぜか? 或は、白秋が沈黙していたとしても、啄木処女詩集『あこがれ』に序詩や跋文を寄せた上田敏や与謝野鉄幹らが啄木のために異議を唱えてやらなかったのは、どういうわけでしょう?(続く)

 啄木ワールド(続き)

 札幌に二年間住んだ私にとって、北海道を詠った啄木の歌はまことに郷愁をそそるものがあります。
  しんとして幅広き街の/秋の夜の/玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほひよ(札幌)
  かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ(小樽)
  函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの花(函館)
  潮かをる北の浜辺の/砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ/今年も咲けるや(函館大森浜)
  みぞれ降る/石狩の野の汽車に読みし/ツルゲエネフの物語かな(石狩平野)
  空知川雪に埋れて/鳥も見えず/岸辺の林に人ひとりゐき(空知川)
  神のごと/遠く姿をあらはせる/阿寒の山の雪のあけぼの(阿寒)
  さいはての駅に下り立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき(釧路)
  しらしらと氷かがやき/千鳥なく/釧路の海の冬の月かな(釧路)

 これらの歌はいずれも、目を閉じれば私の網膜にくっきりと浮かび出る光景なのです。たった二年間の札幌生活でしたが、私は少年のように胸躍らせて北の大地をくまなく駆け巡ったのでした。小樽の一歌だけが突出して反感に満ちているのは、折角職を得た小樽日報社を自ら招いた内紛で退社した鬱憤が込められているのでしょう。そんなことを知らなかった当時の私は、悪しざまに詠まれた小樽の人々にいたく同情したことでした。

 歌そのものの持つ抒情性に加えて、啄木は三行歌という独自の表現を考案しています。
 第一歌集『一握の砂』が刊行されたとき、藪野椋十の筆名で序文を書いた朝日の社会部長渋川柳次郎は、生活に密着した内容に加えて三行書きの特異な表現について、「そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合点して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛も無い誰にも承知の出来る歌も亦当節新発明にな為って居たかと、くれぐれも感心仕る」と記しています(岩城之徳氏『啄木歌集全歌評釈』)。

 昨今の啄木研究書は、引用の煩雑さと行数の多さを嫌ってか、大概「/」で区切って一行に書く習慣が定着しています。これらに倣って私もそう書いてきましたが、たとえば『一握の砂』の巻頭作品、
  東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる
の歌は、正確には、
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる
と書かなければいけないのです。

 ところで第二歌集『悲しき玩具』の巻頭作品になると、
  呼吸(いき)すれば、
  胸の中(うち)にて鳴る音あり。
   凩(こがらし)よりもさびしきその音!
のように、歌に句読点やダッシュや感嘆符などがつけられ、字下げなどの表現方法がとられるようになります。啄木は歌の情緒にもっとも即した表現形式を追求して詩への接近を図ったのであろう、と岩城氏は指摘します。感性の人ばかりではない、啄木は短歌の最適な文字表現を考え抜いた理性の人でもあったのです。

 啄木を語ると、私は自然に饒舌になってしまいます。
 月刊誌「短歌往来」の出版社主である晋樹隆彦という人に、
  飽かぬもの五つあぐれば酒タバコ女人賭事啄木の歌
という歌があります。
 これは元より佐藤春夫の有名詩、
「若き二十(はたち)のころなれや/六年(むとせ)がほどはかよひしも/酒、歌、煙草、また女/外に学びしこともなし」(「三田の学生時代を唄える歌」)
をなぞったものですが、賭事が入っているのが一興です。

 私は血統的に酒はやりませんが、世に数多ある歌の中で啄木の歌を飽かぬものとは言い得て妙で、全き共感を覚えます。
 飽くどころか、私は啄木の三倍もの歳になってなお、啄木ワールドにはまり込んでいるのです。(完)





 

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