葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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    仮託したものは?(続き)

 森鷗外、芥川龍之介、中島敦らをはじめとして、古典に題材を求めた作品においては、作者は登場人物の誰かに己(おのれ)(と周辺人物)を仮託(かたく)するのが定石とされます。
 とすれば、勘助はこの二作において、誰に誰を仮託したのでありましょうか?
 「この二作の主題は言うならば愛欲の妄執の深さ、女をめぐる嫉妬の生む迷いと狂乱の救いがたさ、そして憐れさである。……およそこの二作ほどに人間愛欲の深みをえぐり出した作は、東西古今にも全く類を見ないであろう。これはつまり当時の作者がどのような問題につきまとわれていたかを示すもので、ここには義姉との関係が大きな由縁をなしているものと見られる。『銀の匙』の末尾に現われている美しい《姉様》へのあこがれは、その前触れであった。彼女への傾倒と讃美はまことに深く、言うならば罪深いといっていいものがあった。中氏はたしかに、肉体的には知らず、心の中ではこの愛欲地獄を底までさすらったのだ。」
 これは、『中勘助の恋』に引用されている山室静氏の観察(「中勘助の世界」――『愛読する作家たち』)ですが、私もそう考えます。

 前編で触れたように、義姉・末子に対する勘助の「傾倒と讃美」は、『蜜蜂』という作品の中で存分に語られています。山室氏のいうその「罪深さ」は、七月二十四日の項に鮮明に述べられています。その項はこういう風にはじまるのです。
「けふはたうたうこれを書くことになった。せんだって私の書庫においてある姉(勘助は終始《姉》と呼び続けました)の本箱をかたづけてゐるうちに立ててある本のあひだから匂(にお)ひ菫(すみれ)の押し花が出てきた。包み紙のうへに これはあなたと楽しくつくったすみれ、うつくしい思ひ出のたねとなるやうに 明治三十九年一月八日 と姉の筆で書いてある。」

 それが「うつくしい思ひ出のたね」とはならずに「悲しい悲しい私ひとりのけふの思ひ出のたね」となってしまったとして、勘助は、姉と過ごした濃密な時間の追憶を丹念に綴ります。
 姉が好きだという当時は珍しい匂い菫を里から取り寄せて庭に植えたこと、その庭は「姉と話しはじめ、そして話しつづけた」場所だったこと、姉は「たぐいない純真と親切」をもって私に「文字だうり蘇生の喜び」を与えてくれたこと、その菫を植えたのがきっかけで裏の空き地に花壇をつくる計画をしたこと、町外れの種屋で「袋についている絵をたよりにいろいろな草花の種子を買ってきた」こと、それらが小さな双葉を出したとき、「顔を見合わせて思わず微笑」したこと、などなどを……。
ここで気づくのは、主語が「私たち」になっていることです。「姉と私」でもなく、「二人」でもなく、「私たち」という言い方にはどこか共犯の匂いがただよってきます。
 ここには兄金一の影はまったくありません。それは結婚(明治三十五年)してすぐドイツに単身留学した金一の留守中の出来事であったのです。

 ここでは、押し花の包み紙に記された「明治三十九年一月八日」という日付がキーになるようです。
 勘助は、「明治三十九年といへば私が二十一で一高の三年生、姉がまだ小石川の家にゐた時だ。やがて別れて九州へ行かねばならぬ日を思ってこれを書いたのだらう」と述べています。
 「小石川の家」というのは父・中勘弥の家のことで、勘弥はこのとき存命中でありました(明治三十九年十月歿)。「やがて別れて九州へ行かねばならぬ日を思って」というのは、兄の金一が前年(明治三十八年)の十一月にドイツから帰国して新設の福岡医科大学(後の九州帝大医科)の教授に姉を伴って赴任する直前の状況に符合します。

 ところで図鑑で調べると、匂い菫の開花期は二〜四月とありますから、この押し花はこの年のものではなく、前の年(明治三十八年)の二〜四月に咲いた花ということになります。したがって、「私たち」が植えたのは、少なくもそれ以前です。
 つまりは父の家に同居していた二十三歳の「姉」と二十一歳の「弟」とが、「私たち」の花壇づくりにいそしんでいたのは、すべて「兄」のいない時期のことでした。
 脳を患って廃人同様になった兄の暴虐に尽くした姉への同情が愛に変わっていった、というのではなく、勘助は最初から姉が好きだったのです。
 姉もまた勘助の寄せる恋心にこたえて、「これはあなたと楽しくつくったすみれ、うつくしい思ひ出のたねとなるやうに」と愛のメッセージを送っているのです。 

 以上のことを考慮におけば、勘助が仮託したものは自然に明らかになります。
 『提婆達多』では、己を提婆達多に、姉を釈尊の妻耶輸陀羅(やしょーどはらー)に仮託しています。
 提婆が悉達多(しっどはーるとは)王子時代の釈尊に武闘競技で破れたことを根に持って、釈尊が出家した留守に言葉巧みに耶輸陀羅(やしょーどはらー)を篭絡するという筋書きは、兄の留守中に姉と花壇づくりを楽しんだ勘助の体験に酷似しています。勘助はここでも『犬』と同じような(『犬』よりはよほど上品ではありますが)、凌辱シーンを克明に書き記しているのです。
 「提婆達多は彼女(耶輸陀羅)をしっかりと抱きしめた。彼女の乳房は強く彼の胸におしつけられた。彼の五体の毛孔は悉く口となって濃な女の肌を吸った。頸をきつくまきよせられて彼女の顔は斜に彼のはうに仰むきながら丸っこい顎をその胸板にくっつけてゐる。彼は矢庭に己が顔のしたに喘いでゐるやうに唇をおしつけた。彼はいつまでもいつまでも唇をはなさなかった。」

 『犬』では、己を僧犬に、姉を娘犬に仮託しているのはいうまでもないでしょう。
 実際には、勘助は姉と肉体的に結ばれることはなかった。勘助の内なる性格からみて、姉への恋情を口に出すこともできなかったでしょう。
 でも、狂おしいほどの思いの蔭で、姉を凌辱したいという心がいつか芽生えていったという推測は、不自然なものではありません。
 『提婆達多』、『犬』という虚構の世界で、勘助は姉末子に対する積年の思いを遂げたのです。(完)

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中勘助の章の参

    仮託したものは?

 勘助三十七歳の年に書かれた『犬』は、まことにもっておどろおどろしい小説で、中の作品中では異臭を放っています。
 『犬』は、インドの古都の町外れの森で苦行にいそしむ婆羅門(ばらもん)僧が、その前を願かけに通う町娘を凌辱する話です。娘は町を侵略した異教徒の若い隊長に犯されて子供を身ごもったのですが、その子の父親にもう一度会いたいという願いを聞いた僧は、嫉妬にかられて娘をだまして関係を結びます。人間の姿のままではとうてい娘が慕う若い隊長にかなわないと知った僧は、呪法で隊長を殺し、自分ともども犬の姿に変身させます。後半では畜生道に落ちた僧犬と娘犬との獣欲生活が綴られるのですが、問題はその描写です。

 たとえば、
 「そして彼女は胎児をばくりと口にくはえた。で、舌を手傳はせながら首をひとつ大きくふって奥歯のはうへくはへこんだ。そして二つ三つぎゅっと噛んでその汁けを味ったのちごくりと呑み込んでしまった。」
というのは、犬に変身したのに産み堕した隊長の子は人間の形をしており、僧犬に殺されるのを怖れて娘犬が自分で食べてしまう場面の描写ですし、
 「それはぬらめいて渋みのある澁みのある、こりこりしゃきしゃきした物だった。彼女はあらまし噛み砕いて苦勞して呑みこんだ。むっとする噯気(げっぷ)が出た。残りの一つはどうしてもたべる気にならなかった。
『では養生にわしがま一つ食べよう』
僧犬はぺろりとなめ込んだ。さうしてそのわる臭い口で彼女の口をねぶった。」
というのは、娘犬が人間の睾丸を食べさせられる場面の描写です。
 交尾の描写になると、
 「……彼はひつゝこく尻を嗅いでは嗅いでは押す。彼女はたまらなくなっていやいやに身を起した。僧犬は満身獣欲に燃えたって彼女の背中にのしあがった。……彼女はきゃんきゃんと、悲鳴をあげた。口から泡をふいた。神意によって結ばれたる夫婦の交りは邪教徒の凌辱より遥に醜悪、残酷、且つ狂暴であった。……僧犬はやっと背中から降りた。彼女はほっとしたが、その時彼女の尻は汚らしい肉鎖によって無慙に彼の尻と繋がれてゐた。彼女は自分の腹の中に僧犬の醜い肉の一部のあることを感じた。それは内臓に烙鐵をあてるように感じられた。」
とか、また、
 「ながいことかゝってやっと僧犬は常の身體になった。彼は自分の局部をなめてからそろそろと寄ってきて入念に彼女の尻をなめた。」
「『彼奴はわしより先にこの女をたのしみをった。彼奴の血はこの女の體内をめぐってゐる』さう思ふと歯の鳴るほど忌々しい。彼はいやが上に己の血を彼女の體内に注入することによって憎い相手の血を消してしまはうとするやうな気持で根かぎりつるんだ。」
といった風に、とうてい中勘助のものとは思えない品格のなさなのです。
 『犬』は大正十一年四月に発表されましたが、掲載誌「思想」は当時のことゆえその内容から当然発禁処分を受けました。その二年後に岩波書店から単行本として出版されたときも、伏字が四千字をはるかに超えたといわれます。

 勘助には先に同じインドもので『提婆達多(でーばだった)』という秀作があります。提婆達多は『法華経(第十二章「提婆達多品(だいばだったほん)」)』および『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に登場する人物で、釈尊の従弟(いとこ)ともいわれ、やがて釈尊の教団を乗っ取ろうと策し、釈尊の生命を三度狙ったという悪人です。
 『法華経』では、こんな大悪人の提婆ですら釈尊は善智識と呼んで、提婆がいたからこそ私は衆生を救うことができるようになったのだ、と説かれます。
 『観無量寿経』では、提婆からそそのかされた阿闍世(あじゃせ)が、国王である父頻婆娑羅(びんばしゃら)からの王位奪還を企てる物語が展開されます。阿闍世は父王を捕縛して幽閉監禁しますが、母の王妃韋堤希(いだいけ))は秘かに蜂蜜を体に塗り首飾りの中に葡萄酒を隠して訪ね、夫に栄養をつけさせます。阿闍世は怒って母を殺そうとして、聡明な陪臣に戒められて断念し、今度は韋堤希を幽閉します。嘆き悲しむ韋堤希の願いに応じて、霊鷲山におわす釈尊が目連と阿難を引き連れて「身紫金色(しこんじき)にして百宝の蓮華に坐し」た姿を現わし、眉間から光を放って十万諸仏の浄土を見せるという、真宗信者にはおなじみの訓話です。

 『提婆達多』は、『犬』とはうってかわった格調高い文章表現が貫かれています。国賓を迎える都の興奮を伝える鮮やかな書き出し、時代考証を踏まえた衣裳や宴会の巧緻な描写は中勘助ならではのものでしょう。登場人物の間で交わされる会話も、思弁的な香りを維持しています。
 たとえば、阿闍世が父王につめよるシーンの、
 「父上、よくおききなされ、生殖の罪は人間のいかなる罪よりも罪である。それは実に簒奪(さんだつ)よりも弑虐(しいぎゃく)よりも更に大なる罪である」
という台詞などは、富岡多恵子氏をして、「この一行を書くために、この物語は書かれたのではないかとさえ思わせる」と述べさせるほどの重みがあります。(『中勘助の恋』)。
 ところが『犬』になると、背景描写はほとんど消えて、僧犬と娘犬との閉鎖世界が延々と綴られるのです。

 『犬』は、と勘助自身が記している(昭和三十六年一月刊・角川版全集第二巻「あとがき」)ように、「『提婆達多』ののち頭の中で混沌としていたものが仏教辞典で偶然目に触れたきぎょう鬼形の挿画と、それから知ったビダラ法という呪法が触媒的にママ活いて一遍に纏った」作品であり、この意味では『提婆達多』の続編といっていいでしょう。
 事実、『提婆達多』には、
 「我々は単なる性欲によって結びつけられたる多くの人間の一対を見る。彼等は交尾期に於ける畜生が相互の好悪も適否も顧る暇なく、たゞ鼻をつく異性の臭気に盲目的にひきつけられるやうに互にひきつけられてゐる。そしてその性欲さへが牽引力を失った時にも、その性欲生活の記念物なる《子供》はなほ恐しい肉鎖となって無慙に、醜悪に、その生産者を一緒に縛して離れしめない。交尾せる犬が生殖器につながれて痴態をさらすやうに。」
という一節がありますから、それが先の『犬』の、
 「その時彼女の尻は汚らしい肉鎖によって無慙に彼の尻と繋がれてゐた。」
という描写に連なっていくのでありましょう。

 私が注目したいのは、勘助が『沼のほとり』を日記体で書いていた同じ時期に『犬』が執筆されていたということです。『沼のほとり』の水墨画を思わせる静謐な描写と、『犬』の性暴力の猛々しい描写と、二つの描写はまさに対極をなしています。
 年齢や精神構造の変化によって芸術家が作風を変えてゆくのは、ピカソや三岸好太郎、榊莫山や相田みつをの例を引くまでもなくよくあることですが、同時期にかくも異なる作風を試みた勘助には、よほどの事情(わけ)があったに違いありません。
 富岡氏によれば、勘助が我孫子手賀沼畔の高島家に仮寓するのは大正九年二月のことで、『沼のほとり』は同年三月四日からはじまっており、『犬』は和辻哲郎の妻宛に出された「人間が犬になる話をかきはじめました」という手紙の日付によって大正十年十月から書き出されたことがわかっています。しかも『提婆達多』の末尾には脱稿の日付「大正九年四月十七日」が記されているといいますから、勘助は『提婆達多』のわずか半年後に『犬』を書き出したことになります。
本来寡作な勘助がこうまで執筆を急いだ背景には、いったい何があったのでしょう。(続く)

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    隠された素顔(続き)

 勘助は、夏目漱石に対しても、無礼ともいえる言辞を残しています。
 周知のごとく、無名作家の処女作品『銀の匙』が「東京朝日」に連載されたのは偏(ひとえ)に漱石の推輓によるものでありました。当時すでに大家であった漱石が激賞してくれた上に天下の朝日新聞に掲載を即決してくれたことは、執筆によって収入を得ることを何よりも望んでいた当時の勘助にとって天にも昇るほど嬉しいことであったことでしょう。
 もし漱石がいなければ、勘助は世に出ていなかったといってもいい……それほどの大恩人である漱石に対して、勘助はまことに一人よがりで失礼千万な文章を書いているのです。

 それは、漱石が亡くなって半年後に書かれた『夏目先生と私』という比較的長文の思い出話の中にあります。
 勘助は、『猫』が発表されて評判になったときに、「詩歌ばかりを愛読して散文というものは見向きもしなかった」上に、「作物のうえの諧謔滑稽に対しては嫌悪をさえもっていたので『吾輩は猫である』はその表題からして顔をそむけさせるに十分であった」、その後「大学へ入って……はじめて『猫』を手にとってみたが、はじめの百頁内外で厭きてしまったきりいまだにその先を知らない」、「先生が朝日に小説を書きはじめてから私は時どき気まぐれに拾い読みするほかには全く先生のものを読んだことがない」と述べているのです。
 そればかりか、「実は『銀の匙』は自分にはそれほど気に入っていない」と言ってのける場面があります。後編をほめられたときも、「自分にとっては一層気に入らないものだったので、この賞賛はかえって案外なものであった」というのです。

 漱石没後二十年目の雑誌「思想」の追悼号でも、勘助は、「あれほど評判だった『猫』も全部は読んでいないし、新聞小説を書かれるようになってからはまったく読まない。」と繰り返し、「近年俳句の選集をみて、私はつい知らなかったが なかなかいい句を作られたのだな と思った。」という冷淡さです(『黒幕』)。
 『黒幕』では、『夏目先生と私』ではなおざりにされた「先生の御尽力で朝日に載ることになったこと」、「掲載後不評だったにもかかわらず中止されなかったのは推薦者である先生のお蔭と想像していること」、「後編を書いたときは先生と朝日の関係も前とは違っていたため御厄介をかけて再度連載させてもらったこと」などが綴られています。
 しかし、「先生は私が不承不承にも原稿書きをしなければならなくなった事情を人からきいて知っていたのだろうと思う。なんだかよほど好意的、同情的に感じられた、誰に対しても親切だったらしいが。」とは、まあ何という恩知らずな表現でありましょうか。

 ついでながら、手賀沼畔に仮寓してからの勘助は志賀直哉と親交を結ぶようになります。なれそめははっきりしませんが、年齢も近かったせいか(志賀が二歳上)二人はいい将棋相手だったようで、たとえば大正十一年の志賀日記には二十九回、翌十二年は一月だけで実に八回も「中氏来る」という記録がみられます。(渡辺外喜三郎『中勘助の文学』)。
 「勘助が来るばかりではない、志賀のほうから訪ねた記録も十回ある。一緒に将棋も指し、雪の日に二人で上京し相模家で芸者遊びまでしている仲だ。人間嫌いで世間との付合いを絶っていた勘助としては異例のことで、志賀の人間的魅力を再認識するのではあるが、…これほどまでに付合いながら中勘助は何故志賀を『沼のほとり』にもう少し登場させないのであろうか」
と、渡辺氏は疑問を呈しています。
 事実、『沼のほとり』に出てくるのは沼の風景としての村人たちばかりで、志賀のことは小でまりの花をさした、腹の部分に京都御昆布松前屋と書かれた壷が「志賀さんの京土産だ。志賀さんは どんなにしてもここの家の昆布のような味が出ない といってゐた。」という記述と、自分の部屋の籐製の椅子が「これは志賀さんが京都へ引越す時の置土産で、もともと私にもお馴染みのあったものである。もしなんなら といふことだったので二つ返事で頂戴した」という記述だけしかありません。
 しかも、文中の志賀という部分は、大正十四年岩波書店版、昭和二十八年創元文庫版には□□となっていて、それがはっきり誰であるかわからないというのです。

 漱石といい、直哉といい、勘助の先輩に対する態度を垣間見るほどに、この人は持っている感情の分量がもともと少ないのではないか、とさえ疑わせます。
 私には、中勘助という作家は、写真で見る端正な顔の下にもう一つの隠された素顔を持っているように思えてなりません。
『郊外 その二』や『呪縛』、『遺品』、『夏目先生と私』などに顕わされた作家の顔は、『銀の匙(前編)』や『沼のほとり』、『蜜蜂』などの顔とはまるで違った形相を示しています。それは、喩えていえば、十一面観音菩薩像の正面の慈悲相の横に隠れた忿怒相でありましょうか?
 一般の読者には中勘助イコール『銀の匙』というイメージがあります。
 中学一年生で『銀の匙』を教材として刷りこまれた私には、なおさらその感があります。私はそのイメージをたいせつに持ち続けていたかった……私は好奇心にまかせて余計なことを知りすぎたのかもしれません。(完)

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中勘助の章の弐

    隠された素顔

 勘助と兄との不和確執はよく知られた話で、『銀の匙』以降も数々の作品の中で、勘助はしつこいほどに書き続けます。
 兄金一は勘助の十四歳年上で、東京帝国大学医学部を卒業、ドイツ留学を経て三十四歳の若さで福岡医科大学(のちの九州帝国大学医科)の教授に就任します。しかしその四年後(明治四十二年七月)、金一は脳出血で倒れ言語機能をおかされて失職、以後七十一歳で亡くなるまで妻末子を扶けて勘助が面倒を見ることになりました。
 因みに金一は中家の次男で、長男、三男、四男が夭折したため、金一の再起不能後は五男の勘助に一家の責任が付託されたのです。
 思考能力が減退し片言しか喋れなくなったといえ寝たきりというのではなく、金一はもっぱら釣と碁を趣味として、妻末子と弟勘助に過大な奉仕を強要します。毎日毎晩、釣道具の手入れや製作を命じられ、碁の相手をさせられ、何かといえば怒鳴りたてたといいます。
しかし、これらはすべて勘助の記述によるもので、反論能力を失った人を相手に一方的に弾劾するのはいかがかと思わせます。勘助が『銀の匙』(後篇の四)で、兄を「地獄の道づれ」呼ばわりしたとき、兄金一はすでに廃疾状態にあったのです。

 看病疲れがたたってか、末子は昭和十七年四月に蜘蛛膜下出血に続く冠状動脈閉塞症で死亡(五十九歳)、金一もその半年後に七十一歳で生涯を閉じます。
 末子の死の直後から日記体で書き継がれて昭和十八年五月に刊行された『蜜蜂』は、彼女に対する鎮魂の書というよりは密(ひそ)かな愛の告白書といっていいでしょう。ここでも、末子を追慕するあまり、兄の彼女に対する暴虐ぶりが散々語られるのですが、終章には、
 「私は兄さんを心から気の毒に思ひます。兄さんはあなたの後を追っていったのでしょう。もし兄さんに出逢ったらこれまでのことは水に流してやさしく迎へてあげてください」
という、まことにやさしい言葉があります。
 亡くなるすぐ前の幾日かに兄と筆談を交わす場面は感動的で、何遍も頭をさげてすまなかったと詫びる兄を、
 「この一面甚だ小心且つ善良な人を或は暴君にし、邪悪の人にし、屡ば悪鬼羅刹のごとき形相をとらせたものは一つには家族制度とその道徳の欠陥だと思ひます」
と、恕してやっているのです。
 (救われた)と思った私は、しかし、兄の没後二年足らずで(昭和二十年六月二十五日)書かれた作品の『遺品』を読むに及んで、愕然とさせられます。そこには、
 「功名利達を人生唯一の目的とする明治初年人の典型だった兄は、……陰に陽に人びとの前に私を恥かしめ貶めることに骨を折った。」
とか、
 「気の毒な兄はその因果な性格のために五十幾年私に対するいはれのない敵意から開放されることができなかった。といふよりはその毒を含んだ性格がいつでも噛みつけるやうに鎌首を立てて機会をうかが覘ってゐた。……兄はその年齢、腕力、家族的、社会的地位等自分に有利なそれぞれの条件を悪用して殆ど手段と場合とを択ばず私を誹謗し、侮辱し、嘲笑し、冷遇し、虐待した。」
とか、
 「低能になった不治の病人に下卑た狡さばかりが健全に残ってゐることに対して情けないいやな思ひをしながら……」
とか、勘助はありとあらゆる語彙を動員して兄を罵り続けているのです。
 『蜜蜂』であれほどやさしい心になって兄を恕した勘助が、その舌の根も乾かない二年後に一転して悪罵をぶつけるというのは、どう考えても尋常ではありません。ましてや死ねばみな仏になるという日本的精神風土の中で、こうまでして死人に鞭打つことはあるまい、と私などは思ってしまうのです。

 ひょっとして中勘助という人は二面性をもった人ではないか……そう思った私に絶好の材料を与えてくれたのが、前章で挙げた富岡多恵子氏の労作『中勘助の恋』でありました。
 同書の冒頭で紹介される勘助の作品『郊外 その二』の中で語られる友人の娘・江木妙子に対する感情とその行動は、読んでいて背筋が寒くなるほどの異常さです。勘助は八つか九つの幼女を「妙子さん」と呼び、妙子には「中ちゃん」と呼ばせます。可愛くてしょうがない勘助は毎日のように友人宅を訪問して、両親の前で抱き上げキスを繰り返し、求婚までするのです。 三十過ぎの独身男と八つか九つの幼女とのこの関係はまさしくロリコン以外の何ものでもありません。
 勘助はその二年後に、和辻哲郎の五歳の娘京子へも片仮名の長文の恋文を送っています。
 「京子チャンナカオヂサマワアナタノオカオガミタクテタマリマセン ダケレド……アソビニユキタクテモアンヨガイタクテアルケナイシカナシクナッテシマイマス ナカオヂチャマガオオキナコエデナイテイルノガキコエルデショウ (中略) デモジュウハチニチニワアソビニユキマスヨ ソノトキワナカヨクシテチョウダイ アタシバッカリニ ホカノヒトワドウデモイイカラ サヨウナラ オヤスミアソバセ      ナカオヂ」

 富岡氏は、勘助のこの異常性癖を精神医学でいう「小児愛(ペドフィリア)」と断言することは避けながらも、不思議なことに妙子や京子の両親はもとより『郊外 その二』を読んだ友人たちも、またのちの批評家、研究者もだれひとりとして問題視していないことを指摘します。勘助自身が「子供に対する私の愛は殆ど病的であり、また狂的である。(『街路樹』)」と告白しているにもかかわらずです。
 同じ症例を『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルに見出した富岡氏は、キャロルが六十六歳で死ぬまで独身だったのは、彼が成人した女性と関係できぬ「小児愛」者だったからだと、暗に勘助が五十七歳まで結婚しなかった理由を推察しています。

 昭和三十二年の「新潮」一月号に、七十一歳になった勘助は『呪縛』という小文を発表して、ロリコンの相手であった江木妙子の母親万世(ませ)から、思いを寄せられていたことを暴露します。万世は勘助の一高時代からの友人江木定男の妻で、のちにかの鏑木清方のモデルにもなった「輪郭の鮮明な彫刻的美人」でした。
 勘助は万世にひそかな恋心を抱きつつも、定男と万世の「一途な恋愛」が始まると「心から成功を祈」り、結婚後の彼女は「別人のごとく明朗快活」になり、「完全にうまの合った夫婦であり、申し分のない伴侶」となりました。
 その万世が谷中の寺で世間と絶った生活をしていた勘助を訪ねてきて、「初めから私を思ってた」と告白をしたというのです。谷中の寺とは、年譜によると大正元年十月から勘助(二十七歳)が寄宿していた上野寛永寺真如院のことで、夫定男はもちろん存命中で、万世は結婚六年目の若妻でありました。
 そればかりではない、定男はそれより十年後の大正十一年に病死するのですが、そのため「世間的にも家庭的にも急に淋しく頼りなくなった彼女の私に対する感情は飛躍的に亢(たか)まり、度たびそれを訴へて結婚を望んだけれども私はすげなく聞流した」「怨まれつつも彼女の心からの同情者、慰安者にとどまり…この美しい未亡人の心の支柱となるよりほかはなかった」などと、ぬけぬけと書いています。
 勘助は妙子についても、結婚前に「一生そばにゐて世話をしたい」と言われたことや、「お母様と結婚なさいよ」と勧められたことも書いています。
 
 惚れた話を書くのはいいとして、惚れられた話を書くのは男の沽券にかかわることだ、と私は思っています。富岡氏は、「勘助がこれを書いた『呪縛』は七十一歳の時であり、定男と万世は勘助二十一歳の時であるから、五十年後に復讐を遂げたのであろうか。」と述べています。
 いずれにせよ、妙子は昭和十七年に、万世は翌十八年に死亡しており、「死人に口なし」の譏(そし)りを免れません。(続く)

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   「地獄の道づれ」(続き)

 生涯にわたって兄への確執が勘助にあったことは、多くの研究者によって語り尽くされています。そうであれば、兄に対する積年の鬱積した感情が執筆中に込み上げてきて、勘助は無意識のうちに大人の眼に戻ったといえましょう。
 しかし、後篇の十節には、
 「私は学校へあがってから『孝行』といふ言葉をきかされたことは百万遍にもなったらう。さりながら彼らの孝道は畢竟かくのごとくに生を享け、かくのごとくに生をつづけてることをもって無上の幸福とする感謝のうへにおかれてゐる。そんなものが私のやうに既にはやく生活の味をおぼえはじめた子供にとってなんの権威があらうか。」
という記述があります。
 勘助は、兄に対する描写だけではなく、一般論においても執筆時の作者の眼に基いた見解を述べているのです。

 『銀の匙』後篇は前篇とは明らかにちがう……はっきりいえば、《破調》しているのです。和辻の解説によれば、漱石は後篇を「前篇よりもいっそう高く評価した」とあります。和辻も漱石も、この《破調》に気づかなかったというのは、まことに不思議です。(嬉しいことに、富岡多恵子氏は私と同様の疑問を呈しておられます『中勘助の恋』)。
 後篇は当初『つむじまがり』という題で、前篇と同じ「東京朝日新聞」に連載されたといいます。いっそその題のままのほうがよかった、と私は思っています。『銀の匙』の後篇として収めるのであれば、少なくとも十一節の少林寺の遊び以降が適当でしょう。特に十六・十七節の伯母さん訪問と、十八節の友人の別荘滞在中の出来事(友人のねえさま姉様との出会いと別れ)は、後篇の中の白眉のシーンと評価していい。
 
 伯母さんがいなければ夜も日もなかった勘助が、十六歳の春休みに「老いさらばって見るかげもなく痩せこけた」伯母さんを訪ねる場面は、かの太宰治が『津軽』で、子守りのたけとの再会を果す場面に匹敵する感動を覚えます。
 十七歳の夏に友人の別荘の浴槽で、湯の表面に先に入った姉様の脂がうす白く光っているのに気がつく場面はまことに官能的で、その姉様と始めて顔を合わせるところの情景描写はため息が出るような名文です。
 こんな拙(つたな)いほめ言葉ばかりを連ねていてもしょうがないので、姉様が梨をむいてくれる仕種を綴った原文をお見せしましょう。
 「食器がさげられたあとに果物がでた。姉様は大きな梨の中から甘さうなのをよりだして皮をむく。重たいのをすべらすまいと指の先に力をいれて笙(しょう)の笛みたいに環(わ)をつくる。その長くそった指のあひだに梨がくるくるとまはされ、白い手の甲をこえて黄色い皮が雲形にまきさがる。ほたほたとしずくがたれるのを姉様は 自分はあまり好かないから といって皿にのせてくださる。それを切りへいでは口へいれながら美しいさくらんぼが姉様のくちびるに軽くはさまれて小さな舌のうへにするりと転(まろ)びこむのをながめてゐる。貝のやうな形のいい腭(あご)がふくふくとうごく。」
 エンディングの別れの場面もまた名画のワンシーンを見ているようで、このリリシズムこそが中文学の真骨頂といっていいでしょう。作者は、ひと言の感情表現も使わずに、挙措動作を述べるだけで、姉様へのほのかな恋情をみごとに描き切ったのです。

 それだけに、かえすがえすも後篇前半の《破調》が私としては悔やまれてなりません。
 『つむじまがり』は大正四年の新聞連載ですが、岩波文庫に『銀の匙』後篇として所載されたのは昭和十年で、その間作者は大幅の削除をしているというのに、この《破調》に気づかなかったのでしょうか?
 もし私が実力ある編集者であるのなら、後篇の兄に関する描写では大人の眼で書かれた部分を削除させ、七節の兄に初めて背く場面をもってすべてを表現させます。自己主張の強い一〜三章と十章も同様に削除させます。
 こうすれば、前後篇を通じて、香気の一貫性が保たれます。そうなると、わざわざ前篇後篇に分ける必要がなくなるのかもしれない。
 いずれにせよ、こうすることで、『銀の匙』は名実ともに日本文学不朽の名作になったことだろう、と私は不遜な思いを抱いているのです。(完)

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