葭の塾

葭の髄から我孫子ゆかりの文化人たちを覗いています

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    師承(続き)

 私は、柳は嘉納に嫌われていたのではないかと思っています。
 嘉納にとって、学習院を銀時計で卒業するころ(明治四十三年春)までの柳は学究的な好ましい甥であったかもしれない。しかし、同年、『白樺』を創刊して志賀や武者らとより深く交わるようになった柳を、次第に苦々しい思いで眺めるようになったのではないか。
「『白樺』の仲間たちは、一人の例外も無く軍人嫌いであった。武者小路実篤なぞ、東大社会学科在学中、母校の学習院を訪れて『人間の価値』という題の演説をし、『人間が人間の価値を知らないところから色々な不幸が起る、一番人間の価値を知らない者は軍人です』、そう言って院長乃木稀典大将の顔を睨みつけたとの逸話がある。あとで乃木院長が側近の者に『あれは坊主か』と訊ねていたそうだ。……
 こういう連中の作っている『白樺』は、学習院教師の間で当然評判が悪かった。少しあとのことだが、『乃木さんが困っておられますよ』と暗に廃刊を勧めに来た人もあり、やがて『白樺』の閲読が禁止される。」
と、阿川弘之氏は書いていますが(『志賀直哉』)、このような風評は当然嘉納の耳に届いていたことでしょう。

 そこへ、志賀が柳のコネで徴兵検査を免れた事件が発生します。
 志賀は明治四十三年六月に徴兵検査を受けて甲種合格、その年の暮に市川鴻台(こうのだい)の野砲兵第十六連隊へ一年志願兵として入団しますが、たったの三日で除隊になって帰宅します。「常後備役免除」ということで生涯兵役の義務から解放されたのは、衛戍(えいじゅ)病院の横井病院長の配慮によって作られた、極度の難聴という一枚の診断書だったと阿川氏はいうのです(『志賀直哉』)。
 横井病院長は柳の遠縁にあたる人で、志賀は入団前から柳を通じて然るべき配慮をたのんでいたのです。志賀はこの柳の配慮に感謝をこめて、一冊の洋書を贈っています。
 この事件を、多分漏れ聞いた嘉納は、烈火のごとく怒ったでありましょう。滅私奉公・忠君愛国を生涯貫いた嘉納にとって、国民の義務である兵役を忌避するなどは、赦さざるべき行動だったにちがいありません。
 さて、志賀より六歳年下の柳はそれより三年後の大正二年、大学卒業の年に一年志願兵服役願を第一師団長に提出しますが、検査には合格しませんでした(理由は不明)。柳の不合格を聞いた志賀は大正二年七月二十三日付の日記に「柳は検査で今日まぬ免かれたそうだ。仕合わせだった。兵役という野蛮な体刑を受けるのは受ける人の間抜けだという気さえする。どんな偽りを以ってしても免れなければ己を反ってあざむく事なのだと思う」と記しています。
 柳もまた、婚約者の兼子に、「本日検査の結果無事不合格にて候ひし故御喜被下度(およろこびくだされたく)」という手紙を送っています。この手紙の日付も七月二十三日付で、多分柳はすぐ志賀に知らせて、志賀の祝福を聞いた後にこみ上げてきた喜びを兼子に書き送ったのでしょう。
 徴兵検査の不合格を手放しで喜ぶこんな甥の姿も、嘉納の心境をいたく害したことと思われます。

 柳が兼子と我孫子に新婚家庭を構えるのは翌大正三年の九月、志賀が来て武者が来て、白樺派のコロニーができるのは大正五年の暮のことになります。それから武者が出て行くまで一年九か月の間、リーチを交えて毎日のように柳邸で会合が開かれる。
 嘉納は三十八年もの長きにわたって経営してきた私塾・嘉納塾の塾則の第一に「労役を尊ぶこと」を掲げています。その嘉納の眼から見れば、正業にも就かず、軍隊にも行かず、親父の財産を食いつぶして、ひねもす雑談に明け暮れている若者の姿は、見るに耐えぬ光景だったのでありましょう。
こんな風に想像してみれば、柳が嘉納のことをひと言も書かなかった理由がよめてきます。
 利口な柳は、嘉納に嫌われていることを認識していたのです。志賀も武者も、同様だった。
 それにしても、柳の叔父・嘉納に対する完黙ぶりは徹底しています。徴兵忌避事件でこっぴどく叱られたか、あるいは柳が志賀らを会わせようとしてけんもほろろに断られたか。
 いずれにしても柳が完黙を貫くだけの衝突があったにちがいない、と私には思えてなりません。

 因みに現在、柳邸跡に住んでおられる村山正八氏の家には、嘉納の筆になる「三樹荘」の書額があります。村山氏は甥っ子の柳が隣に移り住んだのを喜んだ嘉納が贈ったと説明されますが、これまでの私の想像からすれば、このいわれは疑問符がつきます。
柳はこの時点で嘉納に嫌われていたのですから、書額はそれ以前、姪の直枝子が母勝子(嘉納の姉)と住む家を建てたときに、新築祝いとして贈ったものではないでしょうか?(完)

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     師承(続き)

 周作に倣ったのは、実はそればかりではない。お玉が池の千葉道場の隣にはそのころ評判の高かった儒者東條一堂が塾を開いていた、と司馬氏は記しています。
「一堂は周作にとって父親ほどの年齢だったが、ふかく交わり、どちらが言ったのか、『若者にとって、文武隣同士になっているから、両方学べて、こんな便利なことはあるまい』といったという話がある。……むろん両塾にとって経営上たすかるのである」(前掲『街道をゆく』「神田界隈」)。
 嘉納は講道館創設の三か月前に私塾嘉納塾を開いて、起居を共にしながら以後三十七年間の長きにわたって若者の教育につとめます。塾生にはすべて講道館に通わせて柔道を教えます。文武両道を旨とした嘉納の教育は、東條一堂の儒学塾と提携した周作のやり方を模範としたのではないでしょうか。

 さて、学生の身で設立した講道館で嘉納の工夫の稽古台になったのは、筆頭入門者の富田常次郎と半年遅れて入門してきた西郷四郎でした。特に、姿三四郎のモデルと伝えられる西郷は、永昌寺時代の稽古台を一身でつとめました。稽古時間を限定すると弟子が集まらないので、日曜は午前七時から正午まで、ふだんは午後三時から七時まで、いつ来てもよいということにして嘉納か西郷かどちらかがじっと待っている。寒気の厳しい日曜の朝などは、足が冷え切って稽古どころではなかったといいます。それでも何本も何本も、休みながら稽古を重ねて合理的な身体の動きを追求し、技を編み出していったのです。
 これほどの苦労を重ねて生み出した講道館柔道を、嘉納は惜しげもなくすべてを開陳して普及につとめます。それは、自らの体験に鑑みて、知・徳・体三育に通達するのに柔道ほど最適な運動はないという確信をもったからでした。嘉納は「かかる貴重なものはただ自ら私すべきものではなく、弘くおおいに人に伝え、国民にこの鴻益を分かち与うべきであると考うるに至った」と自伝で述べています(『嘉納治五郎大系第七巻「柔道家としての嘉納治五郎」』。
 練武館、講武館、尚武館など、いかにも武術の道場という名称を避けて講道館と名づけたのも、「道は根本で術はその応用として授けることを明らかにするの意」を込めたものでした。

 そのため、驚くべきことに、講道館創立以来明治二十七年に至るまでの十二年間は、入門料も道場費も全く徴収しませんでした。先の自伝には、
「最初の中は貸稽古着まで備えておいて修行者の便利をはかった。明治二十七年に至って初めて金壱円の入門料を納めしめることにした。それもその動機は金銭をとるためではなく、無制限に入門させればいわゆるひやかしものが多数集まって来て真実の入門者の妨げとなるということを恐れたためであった。」
と記されています。
 その後、漸次道場が盛大となるにつけ道場費が次第に多くかかるようになったので、明治三十七年からはさらに毎月三十銭の道場費をとるようになるのですが、「講道館は教えるということについては、道は金と交換にこれを授くべきものではなく、志あるものにのみこれを教授するのであるという、講道館最初の精神に基づいて授業料というものをとらない」という態度を貫きます。その結果、教師たちには多大な負担を強い、「自分が教育者として得る収入の余分をこれに充て、なお他に翻訳などをして収入を増し、それにて経済をささえた。のちにはそれでも不足を告げて遂に負債を起こして、一時これがために苦しめられた時代もあった。」と、述懐するのです。
 千葉周作が道場費をとったかとらなかったかは定かではありませんが、もしとっていたとすれば、この点において、嘉納は周作を超えたといっていいでしょう。

 ところで、嘉納と同じ我孫子に住んだ白樺派の連中も、誰一人として師にはつかなかった。柳宗悦も志賀直哉も武者小路実篤も、「師承」の対語である「我流」をきわめて大家になった人です。バーナード・リーチもまた、六世尾形乾山という筋目の師に入門するものの、伝統的な古風な陶工であった乾山に飽き足らず創意工夫を重ねて多くの技法を自ら生み出していったことで、司馬氏のいう「師承を脱した人」に数えていいのかもしれません。
 ここまで書いてきて、また一つ、私の中に大きな「?(はてな)」が湧き出てきたことでした。
 それは、もし嘉納と、柳、志賀、武者、リーチたちが「師承を脱した人」というキーワードでくくれるとすれば、彼らはなぜ嘉納と親しく交流しなかったのでありましょうか?
 私の知る限り、柳たちが嘉納を訪ね、「師承を脱した」大先輩の話を傾聴したという記録はありません。嘉納別荘の真ん前に住んでいた柳の家に、志賀と武者は毎日のようにやって来て、リーチを交えて芸術論に花を咲かせていたというのにです。
 その上、柳も志賀も学習院時代には柔道をやっていた。鶴見俊輔氏は「柳は柔道に関心がなかった」といわれるが(著書『柳宗悦』)、そんなことはない。『学習院柔道百二十年史』(平成十七年、学習院柔桜会発行)の明治三十五年秋と同三十七年秋の院内紅白戦の出場選手に柳の名が記されています。三十五年は名前だけだが、三十七年は徳川誠を下し中島矩に敗れて一勝一敗の成績を残しているのです。この時期、柔道はまだ正課ではありません。柔道が(剣道と併せて)学習院武道の必修となるのは乃木大将が院長に就任した明治四十年のことであり、それまでは随意課として「修業志願の者に之を授く」とされていました。柳は自分の意思で柔道をはじめたのでした。
 運動神経が発達していた志賀の場合は、もう少し積極的に取り組んでいた。明治三十五年春の紅白戦に出場した志賀は唯一人、三人抜きをやってのけて「志賀君の御手並いつもながら感服々々」という戦評まで付されている腕前でした。
 そんな二人であってみれば、「師承を脱した」大先輩というよりは、まずは柔道の開祖としての嘉納を表敬訪問してしかるべきでした。「たまには叔父貴から柔道の話でも聞こうじゃないか」と、柳が志賀を誘う場面はなかったのでしょうか?
 周知のごとく、嘉納の教育者としてのスタートは学習院の教授であり、のち教頭までつとめました。すでに講道館を創立していた嘉納は院生に柔道を教え、学習院は日本で最初に柔道を教科に採り入れた学校であるという名を残します。柳や志賀の在学中は、嘉納は東京高等師範の校長職にありましたが、彼らにとって嘉納は広い意味での師弟でもあったのです。

 嘉納も柳、志賀、武者もそれぞれ厖大な文章を書き遺しましたが、嘉納が柳たちについて、柳たちが嘉納について述べた文章を、私はまだ発見できていません。自らを語ることには人一倍饒舌な志賀と武者が嘉納のことに一切触れないのは理由(わけ)あってのことでしょう。
 特に志賀は、晩年(七十三歳)、講道館機関誌の『柔道』(昭和三十一年七月号)に「柔道の思い出」という談話文を寄せています。それによると三人抜きは高師との対抗戦での出来事となっていますが、問題は嘉納治五郎について、たった一回、それも文末で、
「第一回の世界選手権大会も賑やかに行われたし、柔道もこれからますます世界的に発展してくるだろう。しかし、…嘉納師範の時からいくらかあいまいではなかったかという気のするのは、柔道が武道かスポーツかという点で、…ここらで《武道》と《スポーツ》との限界だけははっきりさせておくべき時期ではないかという気がするね。」(傍線筆者)
と、むしろ批判的なニュアンスで触れているだけだということです。
 もし志賀が嘉納と会っているなら、ほかならぬ講道館機関誌に掲載されたこの談話においてこそ語られるべきでありましょう。「柔道の思い出」は語っても「嘉納師範の思い出」は語らなかったことをみれば、志賀は嘉納と会わなかったと断定していいでしょう。

 それにも増して不思議なのは、叔父である嘉納について、柳が一言も書き残していないことです。
 柳は『白樺』に三回にわたって我孫子礼讃を書いたにもかかわらず、我孫子に移ってきた経緯に関して、特に嘉納にまったく言及していない。移転直前にリーチに宛てた手紙(大正八年八月二十八日付)にも、「近い将来、ブレークの本を書き終えたら、…家内と我孫子(上野から汽車で約一時間です)に引っ越すことになるでしょう。姉の新しい別荘があいているのです」(傍線筆者)と書いています。兼子夫人も義姉(あね)(柳の姉直枝子)に勧められたとしか言っていません。
 自伝を書かなかった柳は、二歳下の朝鮮で死んだ妹千枝子を除いて、家族については多くを語っていません。しかし、満一歳十か月で他界した父についてはその経歴を「柳楢悦小傳」という小文に認(したた)めて、マルチ人間であった父の功績を称えています。
 その「附記」の中で、父没後二十六年間にわたって子供たちを育ててくれた母への感謝を六行にわたって述べています。しかし、母勝子が嘉納の姉であり二十五も年上の楢悦の後妻に入ったということは、なぜか書かれていません。(3へ続く)

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    師 承

 私の敬愛してやまない司馬遼太郎氏が、嘉納治五郎を讃える文章を書いていることを発見したのは、意外な驚きであり、また喜びでもありました。
それは、かつて雑誌「文藝春秋」の巻頭随筆欄に連載されたものを集めた『この国のかたち』という著書の、「師承の国」なる小題の中に書かれています。
「師承(ししょう)」とは耳慣れぬ言葉ですが、鎌倉から江戸期にかけてごく普通に使われていた言葉で、「我流」の対語に用いられたといいます。何ごとも筋目の師につかねば身につかないという意味のことで、それはそれでもっともなことなのだが、師承を尊ぶあまりにその体系をだれから承けたかということが鉛のように重くなり、師の名声によって弟子の生涯の大小がきまったりした、やがて師の説くことから一歩も離れてはならないという閉鎖性を重くする作用をもたらしていったと司馬氏は述べ、思想を失わせたのはこの「師承」という悪しき伝統であると指摘します。それは宗教界において顕著であり、平安以降の仏教はひたすら宗祖をまねることに汲々とし、つまりは師承を偏重して停滞保全につとめてきたと言うのです。
 この弊風を明治になって打ち破ったのが清沢満之(きよざわまんし)で、彼は東本願寺に学費を出してもらって西洋哲学を学び、ヘーゲルの弁証法をもって仏教思想と親鸞思想を基礎づけ、哲学的に近代化しました。「こんにち親鸞といえば、ヘーゲルとならべさせても、印象的に違和感を感じさせないというようにしたのは、清沢の力によるものだった」と、司馬氏は最大限の讃辞を贈っています。
 非学の上に凡そ哲学とは無縁で清沢満之なる人物をまるで知らない私が、この高邁な司馬論に共感することなどとてもできませんが、私を喜ばせたのはこれに続いて書かれた次の一節です。
「武道もまた、思想と同様、論理の整合がなければなりたたない。室町期から興った諸武道は、江戸期に入って諸流派とも師承の芸になった。
 剣術の分野で、この伝統をこわし、教授法を合理化して万人が参加できる体技にしたのは、江戸末期の千葉周作だった。柔道においてそれをやったのは、明治の嘉納治五郎だったことは、よく知られている。
 この師承の国で、師承を基礎にしつつも伝統にあたらしい大展開をみせた――明治までの――例は、私が理解する範囲で、千葉、清沢、嘉納の三人だけだったように思える。
 三人とは、なんとも少なすぎるようである」

 ご存知、司馬氏には千葉周作を描いた『北斗の人』という名作があります。尾崎秀樹氏は「司馬氏は、千葉周作を天性の合理主義者として定着し、日本人のそれまでのものの考え方を一変させた、文化史上の一偉材として位置づけている」と評します(『歴史の中の地図
・司馬遼太郎の世界』)。
 周作が国を発つ折、父の友人佐藤孤雲から、剣の道をきわめるためには、まずすべてに従順でなければならないが、ある時期を過ぎてもまだ従順なのは愚かだ、ある時期がくればすべてに対して反逆しなければならない、と諭されるくだりがありますが、師承を脱するというのはこのことを指すのでしょう。
 周作はこの教えを守って、浅利又七郎や中西忠兵衛に剣を学ぶも、自ら編み出した技法をきわめて北辰一刀流を開きます。通称「お玉が池の千葉道場」はたちまち殷賑をきわめ、門人には坂本竜馬、清河八郎、有村次左衛門などをはじめ、天下の志士の輿望を担った若者たちが参集します。
 人気の秘密は周作の教授法にありました。彼は剣術をマニュアル化したのです。戦時下の昭和十七年に刊行された『千葉周作遺稿』の中の「剣法秘訣」を読むと、所作の一つ一つがいかに平易に明解に具体的に述べられているかがわかります。
 司馬氏にいわせると、「かれは剣術に、体育論的な合理主義をもちこみ、古来、秘伝とされてきた技法のいっさいを洗いなおして、万人が参加できる流儀を編みだした。」(『街道をゆく』「神田界隈」)という表現になります。氏は続いて、「剣術史上の周作の位置は、明治初年に柔術の諸流を再検討してあらたに柔道を興した嘉納治五郎に似ている。」と書いています。

 時代のあとさきで見れば、千葉周作が嘉納治五郎に似ているのではなく、嘉納が周作に似ているというべきなのでしょう。あらためて嘉納の事蹟をたどると、二人がいかに似ているかが明らかになります。すなわち嘉納もまた、最初福田八之助について天神真楊流(てんじんしんようりゅう)の柔術を学び、磯正智の磯流に転じてのち、飯久保恒年について起倒流を習うのですが、これらに飽き足らず自ら工夫を加えて講道館柔道を編み出すのです。
 逸早くマニュアル化した点も同じで、『嘉納治五郎大系』(第三巻)には「講道館柔道講義」(明治三十五年)、「柔道本義」(大正六年)、「柔道教本」(昭和六年)の三つの教本が収められています。「講義」は文章だけですが、「本義」では挿絵が加わり、「教本」になると写真が添えられて、まことに親切でわかりやすい指導書となっています。
 しかし、二人は結果的に似たのではない……私は、嘉納が意識的に千葉周作をお手本にしたのだと考えているのです。というのは、嘉納の自伝に、磯正智先生は神田のお玉が池に道場を開いていたという記述があるからです(『嘉納治五郎著作集』第三巻「柔道家としての私の生涯」)。武道家としての嘉納が千葉周作を知らないわけはありません。むしろ嘉納はお玉が池の磯道場に通いながら、かつてこの地に北辰一刀流を開いた千葉周作に、熱き思いを馳せていたことでしょう。

 そういう眼で見直してみると、二人のマニュアル、千葉周作「剣法秘訣」と嘉納「柔道本義」には多くの類似点が存在します。
 主な点を書き並べると、次のようです。
◇稽古前の心得について――
 周作「稽古前、食事は成るたけ減少すべし、…力士等の食事する様子を見るに、先ず中椀に薄き粥二杯より多くは食せず、人目を忍びて多く食せしものは、相撲稽古にかかりて、息合い早く弱り、中々人並の稽古出来かぬるものなり、剣術も是と同じ事にて」(第一「剣術初心稽古心得」)
 嘉納「乱取の前は食事後すぐと空腹時は避ける。疲れたときや睡眠不足のときはやめる。身体は清潔に、稽古衣(ぎ)は修理しておく」(「柔道本義」第六回)
「爪を切る。帯の結び目は腹の位置に。両便は溜まっておらぬよう。酒は飲まぬこと。水は少量ならよい」(「柔道本義」第七回)
◇稽古相手について――
 周作「稽古中に(相手を)選り嫌い致す……は稽古上達の大害と知るべきことなり」(同前)
 嘉納「最初は上手と、それから少し下手と、また上手と、同僚と稽古すべし」(同前第五回) 
◇指の使い方について――
 周作「太刀の持ちようは、第一小指を少しくしめ、第二紅さし指は軽く、第三中指は猶お軽く、第四人さし指は添え指と云うて添ゆる許りなり」(同前)
 嘉納「投げられたときの倒れ方は、両手の指先を幾分か内の方に向け、両方の肘を外の方に向けてつく(後ろ横に倒れた場合、前に倒れる場合も詳述)」(同前第八回)
◇小技を連続的にかける――
 周作「一本打ちにして縁を切るべからず、拍子を取り、小打ちに打つべし、必ず大きく振り上げて打つべからず」(第三「剣術修行心得」)
 嘉納「引きなり押しなりして少しでも対手を動かし、それからそれへと適当に力を加えてゆけば、大抵のものは容易に業の掛るまで姿勢を乱すものである」(同前第十三回)
◇相手の力に逆らわない――
 周作「出れば引き、引けば出て、何分近よらぬ様にすれば、…向うに打たるゝことは無きものなり」(第四「剣術他流試合心得」)
 嘉納「投げ業は彼の体の平均を失わせるようにし、我の方では彼の倒れやすい方に巧みに業をかける。引かば押せ、押さば引け」(同前第九回)
こうして比較してみると、まことによく似ている。嘉納は「柔道本義」を著すにあたって、むしろ積極的に周作の「剣法秘訣」をお手本にしたのではないか、と私は推測するのです。(2へ続く)

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       「大事な人」(続き)

 だが、学園建設の工事はそこまでで、学園は農園に転用されます。
 これについて地元説では、文部省の反対にあったからとか、資金不足のためとか、いわれています。私は、計画変更の理由は一に公務が多忙を極めたためだ、と考えます。この時期、嘉納を襲った内外の激動する情勢、中でもスペイン風邪の猛威と嘉納が校長職にあった東京高師の大学昇格運動は、学園建設どころではなかったことを示唆しています。
 嘉納は決して学園を農園に転用したのではなく、当初から学園内に計画していた農園を先行させることに切り替えたのです。嘉納が理想としたのは、勤労の貴さを教えるために、校内に農園を持った学園だった(勿論、学園内には柔道場もあったことでしょう)、と私は考えています。
 それはあくまで一種の《中断》でありました。嘉納は学園建設を諦めてなどいなかった……嘉納は何より「負け嫌い」の人、一旦ことを始めたからには決して諦めずに“なにくそっ”精神で完遂する人であったのです。

 諦めることを知らない嘉納の理想の学園構想は、十七年後の昭和四年に灘中学校の創設というかたちで実現します。灘の本家筋から、私立中学校を創設したいので力を貸せという依頼に、かねがね当時の官立中等教育にもの足らぬものを感じていた嘉納は快諾し、激務の間隙を縫って灘中学校創設に奔走します。既に亀岡女学校の校長職に在った教え子の真田範衛を口説いて校長に招聘します。晩年もっとも好んだ造語である「精力善用」「自他共栄」の書額を寄贈し、昭和三年四月の開校式には自ら望んで講演を行います。以後、嘉納は、折にふれて灘中を訪れて、まるで我が子のように成長を見守ります。
 嘉納は、灘中をもって、我孫子の学園のモデルケースとしたのです。灘中創設で得たノウハウは、将来必ず我孫子で活かすことができると考えたのでしょう。
 創立後十年を経て、灘中は嘉納の理想とした中等教育の場として成長します。昭和十四年、カイロで皇紀二六〇〇年記念の東京オリンピック招致のため最後の大仕事を終えた嘉納は、帰国の船中で急性肺炎で亡くなります。
 もし元気で帰国していたら、幻に終ったオリンピックの無念を晴らすために、人生最後の大業として我孫子の学園建設にとりかかったはずだと私は想像しているのです。

 ところで、まだ最大の謎が残されています。
 それは、学園用地にせよ別荘地にせよ、なぜ我孫子でなければならなかったのか? という謎です。
 嘉納がそれまでに何度も我孫子を訪れていたことは、嘉納が出した別荘完成記念の晩餐会の招待状(兵藤純二氏『大正期・我孫子在住の作家たち』)から推測できます。これは鈴木屋旅館主・鈴木喜作に宛てたもので、このたび別荘を設けたので当地に来ることも多くなるので懇親のため来る八日に角松旅館で晩餐を差し上げたいからご来駕賜りたい、という文面です。封筒はなく巻紙で、おそらく使いの者に持たせたと推定されます。
(残念ながら、八日とあるだけで年月は記されていず、先に別荘を建てた時期は定かでないと書いたのは、このためです。)
 別荘完成記念の晩餐会という趣旨であれば本来新築なった別荘で催すべきなのを、角松旅館を会場として、同業の鈴木屋旅館主を招待しているというのは、いささか不自然です。多分、かねてより嘉納は両旅館を何度も利用して昵懇であったのでしょう。そのため、恩返しの意味で、晩餐会はどちらかの旅館を使ってあげたかった。結局、角松にきめたのは、利用頻度が鈴木屋より多かったからか、あるいは明治天皇が宿泊されたという格を重んじたのでしょう。この縁なのか、角松旅館には嘉納の筆になる「従善如流」の書額がかかっています。
(せめて当時の宿帳か宴会記録が残っていれば嘉納が利用した実績がわかるのですが、両旅館とも代替わりの際に処分してしまったとのことでした。)

 つまりは、嘉納は以前から我孫子に土地勘があった、といっていい。
 それでは嘉納は、どういうきっかけから我孫子を訪れたのでありましょうか?
 嘉納はいつ、どこで手賀沼のよさを知ったのでありましょうか?
 地元でもっとも納得性があるのは、血脇守之助に勧められたという説でした(大井正義氏『杉山英と血脇守之助』)。血脇守之助は東京歯科大学の創設者で、我孫子生まれの我孫子育ち、学生時代に講道館へ通っていたともいわれます。血脇は小学校の恩師杉山英の退職時に発起人となって養老基金を募り、その記念碑を建立しています。その碑の題額が嘉納の筆になるもので、これは血脇が嘉納に依頼したに違いなく、そんな関係であれば血脇が嘉納に我孫子のよさを吹き込んだのかもしれません。
 手賀沼の鴨猟を見物にやって来て、我孫子を知ったという説もあります。 当時の手賀沼の名産はカモとウナギで、季節には空が真っ黒になるほどカモが襲来したと伝えられています。嘉納の別荘の隣には朝日新聞の大記者杉村楚人冠が同じく別荘を構えていましたが、楚人冠がこの地を選んだのは鴨猟見物がきっかけでした。
 見物ではない、自分も鴨撃ちを楽しんだのではないか、という人もいます。嘉納は姉勝子(柳宗悦の母)が柳楢悦(ならよし)に嫁いだ関係からか、結婚式は柳楢悦邸であげたという記述が明治二十四年の年譜に記されています(『嘉納治五郎大系第十三巻 年譜』)。海軍少将として海図作成で名を馳せた楢悦は、一方では植物、料理、詩歌の著述多き才人で、鴨猟に関する指南書も書いていたはずだというのです。であれば、嘉納は楢悦に誘われて手賀沼で鴨猟を試みた、という想像もできそうです。
 あるいはもっと単純なもので、柔道普及のために全国をまわっていた嘉納が、水戸へでも赴いた際に車窓から見た手賀沼の美しさに惹かれて、我孫子で途中下車をしたのかもしれない。そのときふらりと立ち寄った角松旅館か鈴木屋で名物のウナギを食べて、以来たびたび訪れるようになったという推測もゆるされていいでしょう。

 諸説は数あるものの、結局のところ、
 なぜ我孫子でなければならなかったのか?
 嘉納は、いつ、どこで手賀沼のよさを知ったのか?
という二つの「?」は、確かな証拠を見出せずじまいでした。
 それにしても、よくぞ我孫子を選んでくだすったものでした。明治末年の我孫子といえば、いまだ電灯もなく商店もまばらな片田舎でありました。当時の東京近郊の別荘地は湘南と市川が双璧で、いずれも海に臨んだ土地が人気であったなかで、嘉納はひとり決然と沼の静謐さを選んでくれたのです。
 そのおかげで、柳が来て、志賀が来て、武者が来て、リーチが来て、我孫子に文化の花が咲いた。文人ばかりではない、実業家や学者たちが次々に我孫子に別荘を構えたのも、あの嘉納さんが気に入ったのだから、という動機であったことでしょう。
 嘉納は、楚人冠のいうように、まさに《我孫子の開山》でありました。私たち我孫子市民は、この《大事な人》を忘れてはなりません。

 書き終わった仮説を携えて八柱霊園の嘉納治五郎の墓を訪ねたのは、平成十五年(二〇〇三)の秋のことでした。
 事務所で案内図をもらい、少し迷ったものの墓所はすぐ見つかりました。さすがに立派なもので、墓所の入口に鳥居が設けられています。鳥居をくぐると正面に大きな頌徳碑が建っています。西園寺公望題額による頌徳碑の「先生常ニ曰ク教育ノ事天下之ヨリ偉ナルハ莫シ一人ノ徳教広ク万人ニ加ハリ一世ノ化育遠ク百世ニ及ブト」という碑文を読むと、嘉納が教育者を目指した心情が改めて思い起されます。
 嘉納の墓は頌徳碑の右手奥にあります。当時は土葬が許されていたのか、丸石がいくつもはめ込まれたドーム状の墓の下、地下十五尺の石櫃の中に、防腐処置が施された嘉納の霊柩が納められているといわれます。傍らの墓誌には、治五郎はじめ妻須磨子、履方、履正、嘉納波の名が没年順に並んでいます。
 週日のかわたれどきの霊園には人影もありません。私は墓前に仮説を供えて合掌し、泉下の霊に「こんなものを書きました」と報告をしました。
それは、嘉納治五郎の名前をはじめて聞かされた日から五十四年目の夏の出来事でした。

 因みに、私は昭和二十四年から一年間、灘中学校で学びました。当時の講堂には、「精力善用」「自他共栄」という大きな二枚の横書の書額がかかっており、生徒たちはその意味と併せて、それが本校を創立した嘉納治五郎先生が柔道の精神を校是として定めて自ら揮毫されたものであることを教わったことでした。
 元より、嘉納治五郎への私の関心は、この記憶から出発しています。(完)

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嘉納治五郎の章の壱

    「大事な人」

 本稿は2006.1.8作成のものを2008.3.25付で訂正補筆したものです。
 字数制限(5000字)があるため2編に分かれますので、前稿を削除し、新たに本稿をおこしました。

 天神坂は、我孫子の史跡文学散歩の人気スポットの一つです。
 平成十三年(二〇〇一)に第五回我孫子市景観賞を受賞した天神坂は、どこか京都を思わせるまことに風情のある一画で、左手「三樹荘」の名の由来になった三本の椎の巨木を仰いで昼なお暗い石段を登れば、嘉納別荘跡の竹林の緑が目に染みます。
 志賀直哉の旧居は「邸跡」になってしまいましたが、ありがたいことに柳宗悦の旧居「三樹荘」は歌人村山正八氏が現在もお住まいで、家は改築され敷地もかなり狭くなったとはいえ、当時の雰囲気を充分うかがい知ることができます。
 嘉納別荘のほうは長年住まわれた千葉県議井手口魁氏が亡くなられたあと、幸いなことに市が敷地建物の西半分を購入してくれたので、嘉納治五郎が生活した空間は辛うじて保存されることになりました。もっとも嘉納が建てた別荘は疾うになく、現在残る建物は井手口氏が新築されたものです。
天神坂の名前は、昔ここに天神様を祀る祠(ほこら)があったことに由来するといわれます。

 この坂道は、昭和十五年ごろでもまだ根っこが浮き出たままの狭い急坂で、両側から鬱蒼と大木が覆い被さってきて夜はとても怖かったという岩村守氏(陶芸家・我孫子窯主宰)の思い出話があります。岩村氏の父福之氏は焼失したリーチ窯の跡に越してきた河村蜻山の窯で焼かせてもらった時期があり、守氏は子供の頃よく父の仕事場へ通っていたのです。
 今は情緒ある自然石の階段に生まれ変わり、近年は手摺までつけられて我孫子文学散歩の名所になりましたが、昼なお暗いのは往時のままで、坂の東側には常夜燈が点(とも)されています。坂の途中、左の石垣には村山氏作になる「三樹荘に夢をつむぎし文人の足跡しるす天神の坂」という歌碑が埋め込まれています。
 坂を登りつめると、左が柳の旧居跡(現村山邸)、右が嘉納別荘跡(現市の施設)です。
 我孫子の文化発祥のキーマンが柳宗悦であることは否めない事実ですが、柳が我孫子に住むことになったのは、嘉納治五郎が先に別荘を構えていた縁によるものでした。二人は叔父甥の関係で、嘉納の姉勝子が柳楢悦の後妻に入って生んだ三男三女のうちの五番目の子が柳宗悦でありました。柳は直接的には姉直枝子の家を借り受けたのですが、その家は直枝子が叔父の嘉納に勧められて建てたものでした。

 嘉納治五郎はこの別荘を特に晩年はたいそう気に入っていたようで、年譜(『嘉納治五郎大系第十三巻』)には大正十四年頃から亡くなる前年まで、「我孫子で静養」「家族と共に我孫子へ」「夫人同伴で我孫子へ」「孫たちが我孫子に来訪」「我孫子で越年」という記述が各年数回の頻度で現れます。
 嘉納が別荘を建てた時期は定かではありません。ただ、別荘用地を購入したのは、当時の土地台帳によれば、明治四十四年十二月二十一日が最初(以後大正二年まで逐次買い増し)ですから、別荘建築はその少しあと、大正元年から二年ごろであろうと推測されます。
 甥の柳宗悦が新妻の兼子を伴って移ってくるのは大正三年秋のこと、その柳が志賀直哉を誘い、志賀が武者小路実篤を誘って、我孫子に白樺派のコロニーが生まれます。柳はまたバーナード・リーチを誘って自邸の庭に窯を築かせ、そこにリーチの友人の浜田庄司らが集い来て、のちに民芸運動を興す友垣が生まれるのです。
 志賀直哉に私淑した瀧井孝作が、「嘉納治五郎という人は(あの人がいて柳さんを呼んで、柳さんが志賀さん武者さんを呼んだのだから)、我孫子の大事な人じゃないかな」と語っている言葉(『我孫子市史研究第十三号』)は、まさに千金の重みがあります。私の好きな仮定法でいうなら、(「縁の章の壱」でも述べたように)、もし嘉納が我孫子に住んでくれなかったら、白樺派も民芸も、どこかよその地で発展していたに違いないのですから。

 それほどの《大事な人》でありながら、嘉納治五郎については、郷土史家にとってまだまだ知られざる部分が少なくありません。
 もっとも大きな謎は、幻の学園構想にまつわるものです。
嘉納は、教育者の夢として、別荘の近くに理想の学園を建設する構想を抱いていたのでした。別荘地を購入する二か月前に二万余坪の用地を手当てし始めたことは、当時の土地台帳に記録されています。学園建設工事も進められ、校門予定地に到る並木道までが完成したことも目撃されています。
 しかし工事は中断され、学園は農園に転用されたまま、嘉納の没後は手放され住宅地として分譲されてしまいます。現在は閑静な住宅地となった白山地区で、往時の農園はおろか学園の痕跡を偲ぶものは何一つ残されていません。

 なぜ我孫子に? どんな学園を? どうして農園に? ……謎が多い理由は、嘉納自身がこれらについて語った記録が見当たらないためです。我孫子市立図書館には全十五巻もある『嘉納治五郎大系』が揃っていますが、これは講道館の監修になるためか公的活動に限られているようで、別荘や学園建設に関わる記述は見出すことができません。
 それゆえ、郷土史家の間ではこれまで様々な推論、想像、憶測がなされてきました。しかし、あらためて各氏の文章を読んでみると、幾多の疑問が生じてきたのでした。私はせっせとアビスタ市民図書館や講道館の資料館・図書館に通って資料を渉猟し、各氏諸方面に問合せを連発して疑問の解消に努めました。その結果、従来地元に伝わる諸説とはちがう、いろいろなことが見えてきました。
 調査を終えて、私なりの仮説として一文にまとめ、問合せをした各氏に発送してご批評を請いました。幸いにも、山本鉱太郎先生のお目にとまって、『東葛流山研究第二十二号』に掲載することになり、のちに講道館図書資料部長の村田直樹氏の推薦を得て、若干補筆したものを講道館機関誌『柔道』(平成十六年四月号)に「我孫子の嘉納治五郎 別荘跡と幻の学園構想」という題で発表する栄誉を賜りました。

 詳しくは『柔道』誌のほうを読んでいただければと思いますが、私が従来の諸説と異なる所見をもったのは、以下の諸点でありました。
 まずは嘉納治五郎が我孫子に別荘を求めた動機です。
先に述べたとおり、嘉納は別荘用地の取得に先立つ二か月前に学園用地を求めています。このことから地元では、嘉納がかねてより学園建設の構想をもっていて土地探しをしていたところ手賀沼周辺の地に白羽の矢を立てた、別荘は学園建設のベースキャンプである、という説が有力でした。
 しかし私は、最初から学園用地として求めたものではなく、地価のあまりの安さに惹かれた嘉納が手持ちの資金の許す限り二万坪強の山林原野を衝動買いしたのだと考えました。地価の安さというのは、明治四十二年から三年続きで手賀沼が水害に襲われたという記録からの推測です。大正四年に我孫子に越してきた志賀直哉ですら、のちに武者小路実篤に貸すことになる松林を、「安いので千四五百坪買っておいた」と言っているのです。
 衝動買いしたという根拠は、嘉納の長男履正氏の「景色の良い場所を見付けるとすぐに買うのが父のくせだった」という証言に基いています。この時期、いなかの土地はどこもひと山いくらで、お大尽たちはごく気軽に景色のよいところを買っておく風潮があったと思われます。
 別荘用地の購入があとになったのは、少し離れたところに手ごろな別荘用地があったので、多分不動産屋の勧めに応じてこれも買うことにしたのでしょう。別荘を建てて住んでみると、教育者の自然な発想として、理想の学園をつくりたいという気持ちが高まっていったのだ、と私はみているのです。

 さて、その学園のモデルは英国イートン校であるという説があります。
 これは、「嘉納は訪英の折、イートンスクールの環境に魅せられ、これがロンドン郊外三〇キロ、テームズ河畔にあることから、東京とほぼ同距離の我孫子手賀沼をテームズ河になぞらえて、ここにイートンスクールを再現しようと企てたのだろう」(秋谷半七氏『手賀沼と文人』)と書かれた一文が端緒です。単なる推論にすぎないのですが、妙に説得性があるのか、何度となく引用されているうちに、「だろう」が消えて断定調に変化し、いつか定説になってしまった感があります。
 しかし、もしそうであれば、何よりも嘉納が訪英時にイートン校を視察した事実が必要になります。年譜には記録がなく、嘉納の日記が公表されていないので、残念ながら確たる証拠は発見できていません。
 私は、そうではなく、三十八年の長きにわたって続けてきた私塾・嘉納塾がそのころから負担になり始めていたので、環境豊かな我孫子に移して発展拡大を図ったのだ、と考えています。
 それは、校門予定地まで出来あがっていた並木道が目撃されたのと、嘉納塾が閉鎖されたのが同じ大正八年であったことからの推測です。(続く)

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